晴れ渡る空を写し取ったような瞳が、俯いて泣く男に向けられる。
ほろほろと零される涙を懸命に拭う小さな手は、ふっくりと愛らしい。
澄んだ声音は幼くいとけなく、けれど泣き濡れるひとを心から案じたと分かる声。暫しの逡巡の後おずおずと抱き締めてくる腕に、愛らしい笑い声が上がった。
伸ばした己の腕は虚しく空を切っただけ。
柔らかな身体は本当に小さくて、容易く掴まえられると思ったのに。
手に入れることの叶わなかったそれが始まり。
それが自分たちの、最初の日。
「彼が悪いんだよ、俺のせいじゃないさ!」
嘯く声はいっそ溌剌と快活で、だからこその無理が見てとれる。
けれど其れを指摘するつもりはフランスには、ない。「そうか」と一言曖昧に応えて、あとはストローが所在無げに揺れているトールグラスに、甘い林檎の炭酸酒を注ぎ足してやるだけだ。
炭酸の弾ける繊細な音が、見慣れた自宅のリビングにひととき柔らかくて甘い彩りを刷く。芳しい果物の匂いに仄かに混ざる甘苦い其れは、僅かに溶け込んだアルコール由来ではあるものの、ほんの数百年前までは腐りやすい水代わりにと老若を問わず飲用されていたものだ。フランスにしてみれば酒だという認識すらないが、まあ、たっぷりと満たされた林檎酒をグラスの縁から直接飲む未成年にはちょうど良いくらいだろう。
「はいはいアメリカ、今年のシードルは結構いい出来なんだからもうちょっと味わって飲んでねー」
存在意義を真っ向から否定されたストローが困り果てたようにアメリカの頬をくすぐるのを暫し見るともなしに見たあとで、フランスは横から指を伸ばしてグラスから其れを引き抜いて、マドラーを差しているアイスクーラーへと投げ込んだ。甘い黄金色の飛沫が透明な氷の上を滑り落ち、少し暗めに設定しているルームライトに柔らかに輝く。手元に握りこんだロックグラスを満たす蒸留酒の琥珀も美しいが、昔を思い出すような甘い黄金色も悪くはないと、益体も無いことを思う。
「‥‥そうだよ、俺のせいじゃない。彼はいつだってああなんだから。まったくいいオッサンが鬱陶しいったらないね」
殊更に露悪的な物言いは返答を必要としていない独り言に近く、その空色の視線もまた隣りに座るフランスではなく、半分ほどに目減りしたグラスへと向けられている。
もっとも、その茫洋とした視線と心はグラスでもその内側の林檎酒でもなく、数時間前の元兄とのやりとりへと向けられているのだろうが。
「バカとか嫌いとか言うくせにさ。そのくせ、その言った口であれこれ俺の世話を焼く言葉をはくんだ。何だっていうんだい?もう国力で言えば俺のほうがずっと大きいし強いんだぞ。口出しされる謂れは無いよ」
「ま、そうかもねぇ」
曖昧な相づちは約束事みたいなもので、その音には意味がない。
吐き出すように喋るアメリカにも、受けて頷くフランスにも、意味のない行動で、けれどある意味、必要な言葉だった。
数時間前、慣れた議場での定例会議。
定例というのはあらゆる意味で定例で、例えばイタリアが悪びれた風もなく遅刻してくることも、ギリシャが居眠りすることも、日本が物言いたげにしつつも何も話さないことも、ドイツが資料の山をと進まない議論を前に青筋を立てることも。
そして、荒唐無稽なアメリカの意見を、そのかつての兄たるイギリスが辛辣な言葉で徹底否定するのも。
全てが定例、全てが約束事のようなもの、だった筈なのだ。
ほんの少しの差異があるとすれば、フランスが同じ議場にいながらも別のグループ内で異なる議題について話していたせいで腐れ縁の場外乱闘が起こらなかったこと、そしてある意味米英対立のストッパーとなる筈の乱闘が起きなかったことでグダグダのまま閉会した会議後。
踏み込む位置を間違えたアメリカの言葉に、イギリスが涙を零した、こと。
それだけといえば、それだけ。
けれどそれだけが、全てだった。
この、複雑な感情を未だに抱きあう元兄弟にとっては。
それはふっくりと柔らかく小さな手が、怖がりで愛したがりの青年の零れ落ちる涙を拭った瞬間から始まった彼らだけの物語、アメリカとイギリスだけの感情の連鎖。
フランスが手に入れられなかった、遠い昔の、最初の日。
「‥‥泣かせるつもりなんて、ないんだ」
ほろほろと、まるであの日見た涙のようにアメリカの言葉は零れ続ける。
「もう、もう俺は彼に庇われてばかりの子どもじゃないんだ。それだけなんだよ、それだけ認めてくれたら、‥‥そうしたら俺だって、あんなこと、‥‥言いたいわけじゃ、」
「アメリカ、」
触れた指先は酷く冷たく、やんわりとグラスを取り上げて代わりに己の指を絡めるように与えれば、痛いほどに握り返される。
フランスは俯いてしまったアメリカの横顔を見、絡め合わせた指先を見た。
小さく柔らかく、掴まえることの叶わなかった身体は大きく強く成長し、蹲って泣いていたイギリスの涙を拭っていた手には、既にあの頃の柔らかさの欠片も見当たらない。がっしりと厚く大きく、軍属にあったことが判る節くれだって鍛えられた手だ。堂々たる体躯をスーツに押し込んで全世界を射程に置いた外交を展開する超大国の、其れ。
けれど、かつての兄の涙に心を沈ませて微かに震えるのもまた、同じ手で。
あの最初の日フランスが手に入れることの叶わなかった、美しく愛らしく、‥‥今も愛しい存在で。
フランスは一つ息を深くはいて、それから冷えた手を優しく握り包み込んだ。まるで幼かった頃の彼へとその兄がしていたように優しく揺すってやれば、伏せられていた頭がうっそりと上がり、視線がチラリと此方へ向けられる。
晴れた空色の瞳は、最初に見たあの日と寸分変わらない、美しい青だ。
フランスはその瞳へと己の視線を固定してゆるゆると笑った。
「ほーらそんな顔すんなって。お前のママンが泣き虫なのは今に始まったことじゃないでしょうに。ん?なんだったらこの愛の国たるお兄さんがだね、こう美しく効果的な慰め文句でも考えてやろうかー?‥‥つーかアレだね、ここに至ってはお前も坊ちゃんもこのお兄さんが丹念にじっくりねっとりしっぽり愛し慰めてフランス領になるのが最良の選択だと思います!」
「結構だよ」
滑らかに走らせていた言葉ごとぺいっと投げ捨てるように振り払われた手に、あらつれない、なんて軽口一つと芝居がかって肩をすくめれば、フランスの腐れ縁でありアメリカの元兄にそれはそれはよく似た、なんともしょっぱい顔で横様に身体を引かれた。ここに至って今更のように男二人が並びあって座るという状況に違和感でも抱いたのか、ちょっと考えるようにひよひよと視線をさ迷わせた後、ソファへとおろしていた尻ごと横へと移動する。
「‥‥ちょっと、なんでこっちに寄ってくるんだい」
「えー?いやお前が逃げるからっていうかなぁに、それお兄さんの口から聞きたいの?あ、上のおくちと下のおくちのどっちに聞かせてあげるほうが好み、」
「結構だよ!」
同音同句の台詞を語気だけ強めて返された其れに、フランスは軽やかに笑って取り上げていた林檎酒入りのトールグラスをその手に戻してやる。
「まぁまぁほら、美味しいお兄さんちのお酒飲んで忘れちゃいなさい。どうせアイツも今頃飲んでカナダのこと散々困らせて明日の朝には忘れてるって」
「‥‥こんなのジュースじゃないか、それより君のウイスキーがいいんだぞ」
「これは大人の飲み物なので駄ー目ーでーすー」
「なッ、うるさいよ俺だってもう大人だぞ!まったくイギリスといいキミといいこれだからオッサンは!」
「おっさん言うな!まだお兄さんはぴちぴちです!もー、お前こそ昔はあーんな可愛かったのにねー」
「‥‥そういうもの言いがオッサンだっていう自覚は無いのかい」
へらへらと軽く笑って往なしていれば、かつての子どもはむぅと唇を尖らせつつも大人しく、厚く大きな手のひらで掴み持ったグラスへと口をつける。甘やかな色の炭酸酒はあっという間にグラスから姿を消し、少し仰のいた顎先と綺麗に浮いた喉仏が動くのをフランスはじっくりと見つめた。
そこにはあの最初の日に手に入れ損ねた、小さく柔らかな子どもの面影は欠片もない。
子どもは強く大きく成長し、兄の腕を振り払い、しかし尚も兄を愛して。
それでいて、自分に甘えて泣きついてくる。
まったく、甘く手ごわく、可愛いときたら!
「フランス、もう一杯!」
「はいはいオヤジくさい台詞ですねー。つーか何か食うか?チーズとか‥‥あ、昨日仕込んだタマネギと子羊のシチューあるけど」
「もちろん食べるぞ!あ、量は多めにしてくれよ。君のところはなんで皿は大きいのに載ってくるものは小さいのさ?合理的じゃないよ、そんなだから常時経済危機なんじゃないのかい?」
「やかましい!美しさも料理の一つなんです!‥‥あーもーやっぱりあの日俺が引き取ってればこんな残念な料理感にはならなかったんじゃねぇのかぁ?まったく‥‥」
ぶつくさと一人ごちながらキッチンへと足先を向ければ、「肉は多めで頼むぞ!」と実に溌剌とした声が追いかけてきた。それにはひらひらと否定も肯定もしない指先の動きだけで応え、フランスは慣れた手つきでシチューの入った鍋を火にかける。
‥‥そういえば、あの日も料理でアメリカの気を引こうとしたのだったか。
あの時は、手に入れられなかった。
ほろほろと泣く腐れ縁に抱き締められて笑った、小さな身体をただ眺めていた。
ああ、けれど。
「‥‥最初に、手に入れられなくても別にいいさ」
そう、最初に手に入れられなくても、別にいい。
ただ、最後に手にして、‥‥最後まで手にしていられれば、それでいい。
「フランスー、まだかい?」
「はいはいもうちょっと。そこの横のラックにガレットの入った缶があるから、それ食っとけ」
「わかったぞ!」
溌剌と快活な声は、今はその語調どおりの素直な声だ。それでいい。晴れ渡る空色をした瞳に、露悪的な言葉も自虐的な声も似合わない。
あの日、あの最初の日に。
愛してくれる兄の腕に抱き締められ、愛らしく笑ったそのままに。
いつか抱き締める己の腕、笑いかけてくれればいい。
手に入れることの叶わなかった最初の日から数百年。
そろそろこの片恋に、最後の日を迎えさせてみせようか。
F&F
end.(2010.05.20)
first and final。
無意識に兄ちゃんに甘えてくるメリカと、そろそろ本腰入れて落とす気になった兄ちゃん。
ナチュラルに加英加設定つきなので、兄ちゃんには甘やかして慰めてもらえても
兄弟にはちくちくお説教をされると思います。