ようやく帰った自宅の冷蔵庫を開けたら、びっくりするくらい空っぽだった。

「‥‥‥‥ヒューストン。」

ズルズルと冷蔵庫前にしゃがみ込み、呟いた地名には全く意味はない。
ただなんとなくこう、ストン、と落ちる感覚というか語感というか。ワシントンでもボストンでも構わない、なんとなく口をついて出たのがヒューストンだったというだけの話だ。そう、俺の兄弟がびっくりしたときに「めいぷる?!」って悲鳴上げるのと同じ感覚、なのかな?
いやあの兄弟の悲鳴もどうかと思うけど。
そう、特に意味はない。
呟いて思ったことは、ヒューストンの名物料理ってなんだったけ、とかそんなことだった。うん。

ああだって、冷蔵庫には名物料理どころか何も無い。正真正銘、空っぽだ。

「ワシントン。」

冷蔵庫内から漏れるオレンジ色の灯りは辺りの闇をふやかすみたいに、真っ暗なキッチンの床と俺の意味を成さない呟きを淡く滲ませる。
慣れた自宅はライトなんか不要で、乱暴に玄関の鍵を開けて普段はルームシューズに履きかえるんだけどそれすら億劫でビジネス仕様の革靴のまま夜に支配された廊下を渡りカバンを投げ置いたリビングを突っ切り、がぱっと開けた冷蔵庫なんだけど。

うん。空っぽだ。びっくりするくらい空っぽだ。

ああ、勿論理由は判っているぞ?
このところ少し、かなり、非常に。忙しかった。それだけ。
上司の緊急の視察につきあったり、意見が割れる法案を通すのに根回しをしたり、ウォール街で昏倒しかけたり、中間選挙前でナーバスになってる上司と話をしたり。
ここ暫くの俺の革靴が踏みしめた場所はといえば、フロリダを臨む視察用のヘリと合衆国議会議事堂、証券取引所、それから大統領執務室。それだけ。‥‥に、付け加えてその近くのホテルといえば解ってもらえると思う。つまり自宅に帰れてなかったってこと。
まぁ、ね。もともと自宅で、自分で料理なんて殆どしないんだけど。
けれどそれでも毎日帰ってれば、それなりにそれなりの食材とか‥‥見慣れない気取った食材や、作り置きの食べ物が詰まったタッパーとか。あるんだけど。

くたびれた足を引き摺るように帰ってきた、淡いオレンジの光に照らされる冷蔵庫の中は、清々しいほどに空っぽ。

「ちゃーるすとん‥‥。」

腹が空き過ぎて、実に舌が回ってない。
普段は一緒に暮らしてる小柄な友人も今日は不在だ。いつ帰ってこれるかわからないんだって言ったら、なら暫くホシに帰ってる、って。ホシ。どこら辺の地名なんだろう?遠いって言っていたから、カナダかメキシコの国境近くなのかもしれない。わからないけれど、彼までお腹がすくのは可哀想だからね、帰ってもらっててよかった。
だって、本当に何も無い。

冷蔵庫を開けたまま、のろのろとした動作で腕時計を見遣る。
デジタル表示のそれはオレンジの光を受けた不思議な色でそろそろ日付が変わることを教えてくれた。同時に回ってない頭の中を、近所の主だったデリやマーケットのきっちり下ろされたシャッターとクローズドの看板がつらつらと駆け抜けていった。

そして目の前には、空っぽの冷蔵庫。空っぽの、我が胃袋。

「ぼすとーん‥‥。」

べしょり、そのまま床に倒れ伏す。
暫くの間誰にも踏みしめられていないキッチンの床はうっすらと埃っぽくて、けれどもう其れにスーツが汚れるだとか気にする気さえおきない。
だって空腹なのだ。
とてもとても、ヒューストンでワシントンでチャールストンでボストンな、気分なのだ。
ああ、兄弟だったらやっぱり「めいぷるー」って呟くのかなこんなとき。‥‥いや、彼の冷蔵庫が空っぽになることなんて、ないのかもしれない。

だって、彼がそんなか細い声で呟いたりしたら、彼の恋人はちょっとどころじゃなくおかしい速さで彼の元へとやってくるからね。

あれってどうなってるんだい?
ていうかどうなんだい。我が元兄ながら、いや、本当に。
かの島国にはそんなに早い輸送手段が配備されているのだろうか。ああ、うちの軍需関連企業からの納入だったらいいなあ、輸出大事だよなあ、対ポンドのドル高が進むとユーロが流されてそれじゃなくても弱ってる輸出関連株が‥‥ああ、いやそうじゃなくて。
きっと、めいぷるって一言で、兄弟の恋人は海を越えてくる。
ちっとも美味しくないスコーンと最高に美味しい紅茶を抱えて、とんでくる。
情の深い人だ、だって昔は俺にだってそんな風にしてくれていた。いつだって甘やかしてくれたし、何かあれば飛んできてくれた。
それが今は全てが全て、我がおっとり屋の兄弟のための、彼だってだけで。
だからきっと、兄弟のうちの冷蔵庫が空っぽになることはない。
空っぽになりかけたら、自分の屋敷の冷蔵庫の惨状を棚に上げてきっとあの人は怒る。ちゃんと食べろとか好き嫌いするなとか、きちんと休め、とか。

あの「めいぷる」って一言はカナダにとっての最高の、魔法の呪文。
最高に不味いスコーンと最高に美味しい紅茶と、カナダにとっては最高の恋人を呼寄せる、ための。




じゃあ、俺にとってのそんな、最高の魔法の一言は?




「‥‥‥‥そんな魔法なんて、非科学的なこと、俺には似合わないんだぞ」

呟きながら、横様に寝転がったままスーツのポケットを探る。
真っ暗なリビングに放ってきたアタッシェに入れた覚えはない。事あるごとに其れを紛失する兄弟の恋人じゃあるまいし、パタパタとぞんざいな仕草で探ってみれば、ジャケットの内ポケットに発見。
リダイヤル。衛星を経由して大洋を越える通信、1コール、2コール。

『‥‥なぁに、そろそろお兄さんに会えなさ過ぎて寂しくなっちゃったかな?仔猫ちゃん』
「お腹がすいたぞ」
『それじゃ明日まで待ちな、美味いものたっぷり食わせてやる』

携帯電話越し、久しぶりに聴く声はちっとも変わっていない。
いつ帰れなくなるかわからないから、そういって友人を送り出したと同時に、この人がしょっちゅうやって来ては気取った食材で作ってくれた、名前もよくわからない、けれど美味しい作り置きの料理を全部食べきって、出かけた。
ヘリに乗り込むときも議事堂を闊歩するときもウォール街で倒れかけたときも、大統領執務室で話をしていたときも。
最後に自宅で食べた食事を思い出して、ああ早く家へ帰りたいな、とか思って。

帰って、食事がしたいな。
帰って、彼の料理が食べたいな。
帰って、‥‥彼に、フランスに。会いたい、な。

だから、言う。
兄弟みたいな最高の魔法の呪文は持ってない、ヒューストンでもワシントンでもチャールストンでもボストンでもない、今必要な、呟きは。




「早く来て、」




「会いたい。フランス」




呟きに返されたのはライン越し、息を呑む気配と、甘い、甘い恋人の声。




『‥‥なんなのもうこの子は、そんな最高の殺し文句どこで覚えてきたのよ』
「フランスパンに挟まって売ってたんだよ」
『さすがお兄さんちの食材は一味違うね!』

ラインの向こう側、ばたつく気配は普段から何かにつけ気取って美しさばかりを気にするフランスには珍しい、慌しさ。家具に足でもぶつけたのか、何か大きな音と痛ッ、とか小さな声、それから「ピエール!ピエール起きて朝だから!お前のごはんはそこ、食べたら上司に伝言!今日の俺は愛に生きますって!」とかなんとか。
‥‥ああそうか、もうあちらは朝の時間なんだ、ならもうJFK行きの飛行機も飛んでるかな?

「フランス、」
『‥‥え?あ、ああ。なぁにアメリカ』

呼びかければ取り繕ったような気取った声が返されて、妙におかしい。
息だけで笑えば肩が震えて、キッチンの床に擦れてヘンな音がした。ごろりと寝返りを打つように、仰向けに。目が慣れた夜色のキッチンに少しだけ埃が舞う。
そのままの体勢から携帯を持っていないほうの腕を伸ばして、いつの間にか閉まっていた冷蔵庫を、もう一度開けた。
オレンジ色の庫内灯、空っぽの空間。足りないよ、足りない。

食材が足りない。君が、足りない。









『すぐ行く。ごめんね、今はお兄さんの愛だけ食べて我慢して』









とびきり甘い囁きは、彼の住むアパルトマンのドアが閉まる音を従えて、ライン越し。
それを最後に通話終了ボタンを押す、ディスプレイのイルミネーションが綺麗な携帯はそのまま床に放置して、オレンジの光を零す冷蔵庫をもう一度、覗き込む。やっぱり、空っぽだ。
さて、再びこの冷蔵庫が見慣れない気取った食材や最高に美味しい料理に満たされるのは何時間後だろう?









出来れば彼の囁きの甘さと、ライン越しの愛とやらが空腹を宥めてくれているうちに、解決されることを望むんだぞ。









メトシエラの待ち時間





end.(2010.06.05)

メリカ相手だと兄ちゃんの喋りが何故かフェミニンになります
あとこのイギ様絶対カナダさんちに盗聴器と移動魔方陣持ってる(笑)