夏の名残りの熱に、灼かれた。
リ ス タ ー ト
「八月ぅは夏休み〜ぃでっ酒が飲めるぞ〜ぉっ。酒が飲める飲めるぞ、酒が飲めるぞ〜っ♪」
「‥‥‥‥‥‥‥‥三上先輩、思いっきり酔ってるでしょう‥‥。」
上機嫌な調子っぱずれの歌に対しての、ため息交じりの呟きには、酔ってねぇよ!と噛み付くようなご返答。
‥‥どうでもいいが、何故世の中の酔っ払いという人種は「酔っていない!」と言い張るのだろう。素直に認めればいいのに。いやまぁ認めたからといってその面倒くささ‥‥いやいや、厄介さ‥‥じゃなくて。あー‥‥ハジケっぷりが緩和されるわけじゃないけど。
そんなことを現実逃避気味に思いながら、笠井はとりあえず、酒と、肴として用意されたのであろうスナック菓子の油脂臭さが充満した自室の窓を全開にした。
八月も末ともなれば、日中は兎も角夜には秋の気配を伴った冷気を含ませた風が吹いてくる。微かに鼻を鳴らせば、夜露をのせた学園を取り巻く緑の匂いが、笠井の嗅覚を刺激した。
情操教育の一環として整えられている緑は、都内という地理を考えれば破格の濃さ多彩さ、そして優美さを備えている。夏の陽光に愛されてすくすくと育った樹木は、今は夜闇を吸い込んで、静かに夏の終わりのひとときを、まどろんでいた。
か細く聞こえるのは、まだ拙い秋虫の声。
夏の終わりを告げる声。
「って、うわちょっと先輩ってばその辺りにしといてくださいよっ、明日起きれなくても知りませんよ?」
‥‥が、そんな叙情的な思いも自室内から聞こえた音に、あっというまにかき消される。
プシッ、と炭酸飲料のエアが抜かれる独特の音に振り向けば、酔ってなお滑らかな仕草で発泡酒の500ml缶を開ける三上の姿。慌てて駆け寄り(その間に転がっていた同室者を蹴ったことなど思考の外のことであった)、その手から缶を奪う。
「いいじゃんかよ〜、八月なんだから。夏も終わりなんだぞ〜?」
「理由になってませんてば。」
常であれば、その手の中から何かを奪うことなど決して出来ないだろう三上からアルコールを取り上げた笠井は、盛大に顔をしかめて何事かをいう三上をいなしながら、その手の届かない範囲に缶を置く。
シュワシュワと音を立てる発泡酒の甘ったるい匂いが、先ほど嗅いだ緑とは異なる濃さで笠井の鼻を掠めて、笠井はため息をついた。
「ホラ三上先輩、今日はもうこれでやめにしましょ?ね?」
「‥‥‥‥八月なのにー。笠井のケチー、横暴ー、ネコ目ー‥‥。」
「や、ネコ目関係ないし。」
小さな子どもに諭すように(といっても、小さな子どもは酒を飲んで酔いつぶれたりはしないのだが)その顔を覗き込んで優しい声で言えば、酔っ払い特有の理不尽な返答が返される。
笠井はもう一度、ため息をついた。すると、それにつられるように、聞き慣れた声の、聞き慣れない呻き声が部屋の隅からあがる。同室の藤代だ。
2人部屋が原則の松葉寮にあって、現在の笠井(と藤代)の部屋は明らかに定員オーバーだ。
床に転がるのは藤代(因みに先ほど蹴ってしまったので部屋の隅に追いやられている)、何故か英和辞典を抱えて眠っているのは根岸。その隣りに近藤。ちゃっかりと藤代のベッドで寝ているのは、中西である。
室内には不可思議なスナック菓子(おそらく藤代調達品だ)と、いかにもな酒の肴的乾物、発泡酒の缶と、微妙に場違いな高価なワイン(中西か三上の持ち込み品だろう)の、空瓶。
8月といえば、学生生活最大のイベント(?)、夏休みの真っ最中。特に彼らは夏の大会を好成績で終え、短いながらも本来の夏休みを堪能しているその最中だ。お祭り男ではしゃぐのが大好きな同室者がそんな浮かれた雰囲気を逃すはずもなく、また彼を苛めつつもなんのかんのと可愛がっている上級生が、彼の誘いに乗らないわけもない。加えて、普段ストッパーとなる渋沢の実家への帰宅という不在も響いているのだろう。
多少羽目を外すのも‥‥とはいっても、当然未成年飲酒は罪なのだが‥‥判らないでも、ない。
‥‥ない、のだが。
「あ、ちょっと先輩。寝るなら部屋戻ってくださいよ。」
酔いに任せて何事か呟いていた三上が、今度はうつらうつらと眠りの世界への舟をこいでいるのに気がついた笠井は、慌ててその肩を揺さぶった。
別に此処で寝たところで構わないのだが、ベッドに寄りかかった中途半端な体勢で眠ってしまったのでは明日は身体が痛くなること必至だ。既に酔いつぶれて完全に寝入ってしまっている他メンバーはさておき、せっかく起きているのだから部屋に戻って寝たほうがよいに決まっている。二日酔いに加えてそれはさすがに可哀相だし、と思った笠井は、三上の肩を揺さぶり続けた。
「先輩、三上先輩ってば。起きてください。」
「うー‥‥うるさい、八月も終わるんだからーいいじゃんよー‥‥。」
「や、だからそれ理由になってないですって。」
むずがって手を払いのける三上に、だんだんと笠井は呆れた気分になってきた。
いつだって落ち着いていて、少し斜に構えたクールな先輩。
フィールドに在っては一瞬で最良の選択を弾き出す明晰な頭脳、司令塔、森の10番。
口元にはシニカルな笑みをはきながら、けれど裏腹に辺りを払う凛とした視線に、気迫に、
幾度も目を奪われてきた。
(‥‥‥‥のになぁ‥‥。)
既に肩を揺さぶる、という上品(?)な方法ではなく、諦め半分にぺちぺちと頬を叩くのに切り替えた笠井の中に、様々な思いが交錯する。
目を閉じて、酔いつぶれてむずがっている三上は、普段の辺りを払うような気迫も、深く鋭い視線もない。微かに唇を動かしながら、すでに意識の半分は夢の中なのだろう。
「‥‥それとも、これが実は素だとか。」
ぺちぺちと叩かれる頬にも構わず、次第に深い息になって眠りに落ちていこうとする三上の眼前に座って、笠井は独りごちる。
斜に構えて辺りを睥睨するような視線は、なまじ整った造作のぶんだけ冷徹さを増す。見つめられればそれだけで、何か心の奥深い、弱さや狡さを引き摺りだされて糾弾されているようで嫌だ、といっていたのは、2軍時代に組んだ同級生だったか。
そして、それに全面的に賛同したわけではなかったが、ある部分で納得したのも、事実。
今は同じ1軍レギュラーとして、他の同級生や下級生に較べて親しく話をしているとはいえ、それでも三上には、近寄りがたい何かがあった。
‥‥こんな風に、息が絡まるほどに近づいて、その姿を眺めたことなど、なかった。
「‥‥先輩。」
少し長めに整えられた髪は綺麗な黒を宿していた。
伸ばした自分の指先が微かに震えているのに気がついたけれど、触れたいという衝動に抗うことは出来ず。
開けた窓から入り込んだ夜露を含んだように、すこししっとりとした髪は柔らかく滑らかだった。
起きる気配の全くない様子に、笠井は触れていた指先を、梳るように動かす。
屋外競技で陽光にさらされ、痛んでいて当たり前な其れは、するすると音もなく笠井の指間を滑りおちていく。その拍子に顕わになった額は白く、綺麗な筋の通った鼻梁へと繋がっていた。
瞼を縁取る睫は髪と同様に綺麗な黒で、頬に影を落としている。
伏せられた瞼の、その向こう側にある、強い視線。
近寄り難いその気迫。抗い難い、その魅力。
「みかみあきら、さん。」
呟けば、その息に眼前の人の髪が、揺れた。
「‥‥‥‥う、ん?」
「ッ、?!」
ばっと、音でもしそうな勢いで笠井は身を起こした。
自分の無意識の行動に、笠井は息さえ上手く出来ないくらいに混乱していた。
いつの間にか距離を詰めていた身体は、足を投げ出して座る三上を跨ぐようにしていて。
膝立ちの恰好から眺め下ろす、未だ直ぐ傍にある姿は、眠っている者ならではの無防備さ。‥‥先ほどの呟きは、寝言のひとつらしく、深く整った息に戻っている。
笠井は平衡感覚を失ってしまったかのように揺らぐ身体を、ようやっとの思いで立ち上がらせた。眼前で本格的に眠ってしまった三上から、なんとか離れる。ぎくしゃくとした足取りで、うっかりまた藤代を蹴飛ばしてしまったが、前回以上に意識の縁にも上らなかった。
「‥‥‥‥‥‥ちょっと、待て。俺。」
先ほど開け放した窓辺へとたどり着いたところで、誰に言うでも聞かせるでもない言葉が零れ落ちる。そのまま落ちた言葉につられるように、ずるずるとその場に座り込んでしまった。
窓の桟に、己の指がかかっている。なんということもない、見慣れた指先。けれど、さきほど触れた三上の感触が、その指先から染み渡る水のように、燃え広がる炎のように、全身へと伝播していく。
「‥‥‥‥うーわー‥‥。」
猶も呟く笠井の頬を、窓から入る風が撫ぜていく。
暑気をすっかり払った風には、囁くような秋虫の声が織り交ぜられている。
夏の終わりを告げる声。
笠井は桟から指を外すと、きゅっと握りこんだ。
夏が、終わろうとしていた。
恋が、始まろうとしていた。
夏も名残りの八月末、触れた熱は笠井を見事に絡め取った。