愛の在る日々


















「‥‥あ、」

部屋の片隅で呟かれた声に、三上は雑誌に落としていた視線を上げた。
視線の先には、見慣れすぎるくらいに見慣れた同室者の後姿。整然と整えられた本棚の前に立ち、何ごとかをその手元でやっている、らしい。が、その大柄な身体に遮られて視認できない。
三上はベッドに横たえていた身体を起こした。寮添え付けの割りにスプリングの効いたベッドが、音も無くその身を震わせる。その拍子に開き置いていた雑誌がハラハラと捲れて、三上は眉をしかめた。どうやら未読だったようだ。

「ンだよ渋沢、ぼんやり突っ立ってんな。ウゼェんだよデケェ身体で。」

同じページを開くことくらい造作もないことなのだが、これがわりと腹が立つもの。なにせ自分のせいなわけだから苛立ちのぶつけようもない。‥‥ぶつけようもない怒りを、同室者にぶつける三上は、ある意味ストレスのたまらない性質かもしれない。

しかし、そんな八つ当たり以外の何者でもない言葉に動じるようでは、三上の同室者など務まらない。

「あぁ‥‥うん。そうだな座ろうか、疲れるしな。ありがとう三上。」
「‥‥‥‥‥‥。」

笑っていなす、というかそもそも八つ当たりが一片たりと通じていない辺り、伊達に2年と半年強も同室で居てきたわけではないらしい。
振り返った渋沢は、ニコリと甘く穏やかな笑みを三上に返すと、スタスタと部屋を横切り、ベッドに今は胡坐をかいている三上の傍に腰を下ろした。ベッドのスプリングはその重みを緩やかに受け止めて、再びその身を震わせる。
見当違いなページのまま置かれていた雑誌は、揺れに併せてさらに繰られていった。其れに対し三上はますます眉をしかめ‥‥るかと思われたが、彼はそのとき全く別の事柄に気をとられていた。

「何だ、ソレ。」

ベッドの上、そう呟いた三上は僅かに首をかしげた後、渋沢の方へといざり寄る。しっかりと鍛えられた肩に身を凭せ掛けるようにして身を寄せ、渋沢の手元を覗き込んだ。幾度か瞬きをして眺めた後、手を伸ばす。
渋沢は、三上のものめずらしげな視線とか仕草とか、なにより擦り寄ってくる身体とかに、思わず笑み零しそうになりつつも、大人しくされるがままになっていた。

「‥‥?何、コレ。」
「時計の部品。」
「‥‥部品?」

先ほどの呟きとさして変わらぬその言葉に、今度は答えが返った。
三上の指先には、渋沢の手のひらから掬い上げられた小さな鋼色の破片。‥‥正確には、破片にしか見えない、とても小さな螺子、だった。
視線を翻せば、渋沢の手の中には、小さな破片めいた部品がいくつか転がっている。そして、その小さな物たちの脇に、常には見ることのない場所をさらして転がっている、見慣れた形を発見し、此処に至ってようやく三上はそれらの『元の姿』を思い出した。

「あ、時計。」
「そう、時計。」

各々が各々の言葉で納得・肯定した其れは、確かに、時計。

それは小さな置き時計であった。渋沢の持ち物で、本棚の上から2段目を定位置にしていた、何の変哲もない小さな其れ。‥‥いや、分解されていること自体が、変哲といっていいのかもしれないが。
三上は持っていた部品を渋沢の手の中に放ると、よりその手の中のものを見やすいようにか、ベッドを降り、渋沢に正対する床に座り込んだ。するとちょうど渋沢の手のひらが、視線の少し下辺りにくる。
微かな赤みを帯びた鋼色の時計。見るからに時を重ねた、いわば年代物であることが見て取れる。ついでにいえば、高価そう、であることも。

(そう、確か渋沢が、身内の誰かに貰ったとかって‥‥)

まだ同室となって間もない頃、不意に見つけた本棚に置かれた小さな小さなその時計。
携帯やPHSといった端末機器が時計やスケジュール帳、アラームなどを兼ねるようになってから、すっかり目に付かなくなった掛け時計や置き時計。三上も入寮する際に、一つだけ目覚まし時計を持ってきてはいたけれど、携帯のアラーム機能と、何より同室者の一日も欠かされることのないモーニングコールに、どこに仕舞ったのかさえ忘れていた頃。




『置き時計?今どき見るこたねーだろ?』
『ああ、でも‥‥譲り受けた大事なものだから。それに、ホラこれちょっと珍しくて‥‥』




(‥‥あれ、あの時何て、言ってたんだっけ‥‥?)

その思考は、小さく響く金属の擦過音に打ち消された。
無意識に横に流していた視線を俄かに戻せば、渋沢が尚も小さな時計から小さな部品を抜いているところで。
小さな部品たちは、渋沢の大きな手の中では本当に小さく細かく見える。よくもまぁこの持ち主は、その大きな手で此処まで分解したものだと、三上は呆れ半分に思ったものだ。
そうして改めて分解された時計を暫し眺めた後、この場合誰もが抱くであろう疑問を三上は持ち主たる渋沢にぶつけた。

「何でバラしてんの?あ、壊したとか。」
「三上‥‥。」

ありえないことではない。その時計は本当に小さく細工も繊細で、たとえ今のように分解されていなくとも、渋沢の手の中には楽に納まるサイズなのだ。
更には当の持ち主ときたら、とんでもない馬鹿力、だったりするわけで。
そんなわけもあって、三上は先のセリフを半ば本気で言ったのだが、さしもの渋沢とはいえ、うっかり金属の細工を握りつぶしてしまうほどには人間離れはしていなかったらしい。「ちゃんと手順どおりに分解してるんだよ。」と苦笑しつつ応えたものだ。

しかし、それはそれでさらに次の疑問の呼び水となる。

「じゃぁなんで、」
「三上、此処。」
「え?」

何故分解しているのか、という問いは、すいと眼前に差し出された片方の手のひらと、渋沢の声の前に空に消える格好となった。

その手のひらの上には、裏蓋を開けられ、小さな部品をいくつか取り払われた時計本体が乗せられていた。細かな部品たちはもう片方の手によって、なくさないようにベッド脇の床に慎重に集めて置かれる。

「何?」
「此処のところ、よく見て。」

三上は此処、と指し示された箇所に、目を凝らした。
淡い赤みの物言わぬ金属。動かない針。動けないのは、

「あ、螺子?」
「うん。」

其れは、とても小さな部品の一つ。リング状の取っ手のついた、螺子巻き仕掛けが、あった。そういえば、分解された部品の中には、電池などの動力源がなかったと思い当たる。

「‥‥あぁ、これ螺子巻き時計か。」
「そう。止まるたび、少し分解しないといけないのが難点だけど。」

まぁ、もう慣れたことだし。そう言って笑う渋沢に、三上は不意に思い出した。




『螺子巻きなんだ。古風で、なんかいいだろう?』
『ふーん。でも面倒くさくねぇ?』
『まぁ、ちょっとな。でもさ、時計の螺子を自分で捲くのって、‥‥‥‥』




「‥‥‥‥三上?」
「なぁ渋沢、此れ俺が巻いていいか?」
「うん?‥‥あぁ、いいぞ。」

何事かを考えていたような三上が、不意に顔を上げて言ってきた台詞に、渋沢はすこし驚きはしたものの、取り立てて何か言うでもなく、あっさりと承諾した。
小さいから指先を切らないよう気をつけろよ、という渋沢の言葉に、生返事をしながら、三上は渋沢の手の中にある時計の螺子を、ゆっくりと巻いていく。チキキキキ、チキキキキ、と螺子の巻かれる音というより、秋虫の声といったほうが良いような、小さいが澄んだ音が二人の手元から零れ落ちる。

「‥‥こんなモン?」
「そうだな、それくらいでいいかな。‥‥三上、耳、寄せてみろ、」

三上はそろりと指先を離し、言われるままに渋沢の手のひらに伏せるように耳を寄せた。
カチ、カチ、カチ、と、規則的に伝わってくる音。
三上は暫し、目を閉じて聞き入る。
暖かな手のひらの中、時を刻む、暖かで繊細で、安定した音。‥‥まるで、

「‥‥お前みたい。」
「え?何かいったか?」

なんでもねェよ、と三上は応じ、再びその音に聞き入った。

「動いてる?」
「‥‥ん、‥‥いい感じ。」

顔を上げて応えれば、そうか、と渋沢が笑った。三上はその笑顔に、不意に思い出した。
‥‥そう確か、あの時も笑っていた。




『‥‥自分で螺子を巻くのって、自分で自分の進む時間を作ってるみたいで、なんか好きなんだ。』
『‥‥ふぅん?』




「な、次螺子が切れたときもさ、俺に巻かせて?」
「あぁ、いいぞ。」

あの笑顔に、結構やられたこと。
これからもコイツと一緒に居れたらいいな、なんて思ったこと。思い出した。

「‥‥‥‥三上?」
「‥‥なんでもねぇよ。ちょっとコーヒー買ってくる。」
「そうか、消灯近いから早く帰ってこいよ。」

‥‥そして俺が巻いたこれからの時間も一緒に居れたらいい、なんて思ってること。

「‥‥帰るよ、お前のそばに。」

決して、言ってなんてやらないけれど。









器用な手つきで時計を組み上げていく。
分解するときに較べて組み立てるときのほうが些か楽なので、渋沢の指先は止まることなく小さな時計を元の形へと復元していく。

「‥‥ん、出来た。」

小さな声が一人きりの室内に響いた。
螺子を巻いてくれた同室者は、どこか上機嫌な様子で飲み物を買いに行って今は居ない。
そっと、傍らのシーツの上に時計を載せた。柔らかなシーツに音を吸収されるのか、秒を刻む音は聞こえない。
ベッド脇に浅く腰掛けていた渋沢は、しばらくそうやってシーツに埋もれる時計を見やっていたのだが、そのままゆっくりと上体をベッドへと倒す。ちょうど頭の傍に時計が来るように、軽く身動ぎしながら、目を閉じた。
渋沢は、うっすらと微笑む。

聞き慣れた、時を刻む音。‥‥彼が、巻いてくれた、時間。




『な、次螺子が切れたときもさ、俺に巻かせて?』




「‥‥‥‥あぁ、いいぞ。」

先ほどと同じ言葉を、渋沢はもう一度口にする。
それは、幸せの確約。

ゆっくりと息を吸い込めば、ベッドからは恋人の、甘やかな匂い。
そして、耳には聞き慣れた音。

「‥‥早く帰ってこい、三上。」

抱きしめて、そしてとびきりの笑顔で告げてみよう。









愛しい貴方が巻いた時間、二人一緒に刻んでいこう。





end.(02.22/2003)

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