目を開ければアルミサッシに切り取られた、動かない灰色。

















カノープス


















ねっとりと身体に纏わりつくような眠気を振り払って身を起こした。

掛け布団代わりのタオルケットは進んで剥ぎ取るまでもなく寝台の脇に押しやられ、用を成さない布切れとなって蟠っていた。其れを見るともなしに見ながら渋沢は視線を辺りに流し、細く息をつく。
吐かれた息は音となり、静寂と灰色に満たされた部屋のぼやけた彩りとなった。
大きな身体を持て余すようにのろのろと身体を動かし、足を床へと下ろす。壁に掛けた時計を見遣れば、平日ならば朝練はもとよりとうに授業も始まっている、という時間。朝メシ食い逸れたな、と小さく呟いてみる。
起きていたとしても、食べられたかどうかあやしいものだ、とは心の中にだけ留め。
窓に掛けられたカーテンは既に引き開けられ、閉じられたガラス越しには起き抜けに見たのと同じモノトーンの空が広がっていた。雨は降っていない。が、今日一日曇天であることは確実であろう確かな質量で、水蒸気の固まりはそこに居座っている。まるで動かない雲に、理科で習った停滞前線というのは本当に停滞するから停滞前線なんだ、と灰色の空を見ながら埒もない事を思う。

(‥‥今日は午後から第二競技場で練習、その後ミーティングと言う名の桐原監督の説教、練習試合の申し込みに来るといっていたのはどこの学校だったか、夏用制服のYシャツがもう一枚ほしいから家に電話しないと、それから、‥‥それから?)

どうにも考えが纏まらず、渋沢は一つ頭を振った。
考えどころか使い慣れた手足でさえ動かすことが億劫でならなかった。

世界を満たす空気が粘度を増し、ねっとりと身体に纏わりつく。上空には停滞前線。重みを持った大気は留まり、蟠り、灰色の空を見上げるしかできない人間を絡め取り押し潰す、大気の圧力、動けない、停滞、停滞、停滞 ‥‥‥‥

「んあ、渋沢?」

ふわりと空気が動いた。

「三上、」

カチャリと微かな音を立てて開けられたドアから姿を見せたのは、見慣れたルームメイト。寝台に腰掛けたままの渋沢にどう思ったのか軽く目を見張ると、何故だか不機嫌そうに舌打ちを一つ。

「んだよお前、まだ寝てたのかよ?」
「ああ、いや‥‥まぁな。もう起きたけど」

そう答えた渋沢に、そんなん見りゃわかると返された声はやはり不機嫌そうだった。ぼんやりとあわせた視線はいつもどおりの潤んだような綺麗な黒色、部屋着ではあるけれど綺麗に伸ばされた背筋は凛として、渋沢は不意にピッチ上での三上の姿を思い出した。

突き抜けるような青い空と染み入るようなフィールドのグリーン。風を切って走る、輝くようなその姿。そこに一人。

(ひとり。)

「渋沢。」
「え、」

断絶した意識がふわりと現実世界へと引き戻される感覚に、渋沢は一瞬息を呑む。
開け放ったドアを背に立つ三上は先ほどと寸分違わぬ姿でそこに居た。綺麗に伸びた背中、適度に筋肉のついた脚、日焼けした肌。真っ直ぐな視線。
遥か彼方まで一瞬で駆け抜ける、雷光のような。
駆けて行く、駆けて行く。

(ひとり、で。)




(俺は?)




激しく打ち付けるような音に、渋沢は再度の沈み込んだ意識を引き戻された。
瞬きを一つして、妙に回転数の落ちている頭で状況把握に努める。

「三上。」
「何だよ」
「手、痛くないのか?」
「痛いに決まってんだろボケ渋。」

声を掛ければ框を殴打したと思しき拳はそのままに激しい視線が返されて、渋沢は思わず腰掛けたままの体勢で身体を引いた。その様子に三上はますます目線を険悪なものにすると、開けたときとは正反対の乱暴さでドアを閉め、つかつかと狭い部屋を大きなストライドで横切り、閉じられたままだったガラス窓を開け放った。
憂鬱な梅雨時らしい少し水気を含んだ、けれどこの時季特有の鮮やかで甘い緑の匂いを乗せた風が、室内の空気を一新する。
ふわりとカーテンがはためいて、一瞬だけ三上の姿を覆い隠した。

「みか、

「動くな」

その声は間近、不意に翳った視界。

「動くな、喋るな、目ェ開けんな」

目隠しをしてくる手のひらより前、最後にみたのは風に揺れる黒髪だったか。
暗くなった視界に反射的に目を閉じた、瞼の上に感じるのはGKである己のものよりは柔らかで、少しだけ熱い三上の手のひら。キシリと小さく寝台が鳴き、閉ざされた視覚のぶん鋭敏になった平衡感覚が、目の前に立つ親友が片膝か腕をついたらしいことを教えてくれた。

その手のひらを払いのけることはできた。
動くなといわれたからといって本当に動かないでいる必要はないし、起き抜けの他愛ないスキンシップだと笑ってしまえば済むことだ。
動くなと言われて動かないでいる必要性はない。動いてもいい。

否。

動かなければならないのに。

停滞する、空を覆う灰色に押し潰されて動けない。
じっとりと大気の中に溶け込んだ水分が脚を腕を絡め取る、そんな錯覚。

どこまでも高い青い空、風と熱を浴びて天を仰ぐ芝、走らなければならないのに。




(ひとりで駆けて行ってしまう、その背中を追えない、俺は、)




「お前さァ、俺らのこと‥‥っつか、自分のことナメてんだろ」
「え、」

不意に耳に流し込まれたその言葉に思わず頭を上げようとして、失敗した。
眼の上に翳された手のひらはそのまま力を持って身体ごと持っていかれる。手のひらの代わりに肩口に顔を押し付けられ腕は身体に。二人ぶんの重みでベッドが過積載に悲鳴を上げたけど。

「三上、それ、どういう‥‥」
「別に、疲れてんならそのまま休みゃいいんだよ。休んだっていい。お前はどうせ直ぐに立ち上がりたくなって走りたくなるよ。そんでエセくさい顔で笑ってさぁ、『サッカーは楽しいな』とかなんとかクサいこと言うんだよ。お前はそういうヤツだよあんま自分を見縊ってんじゃねーよ。
俺らはお前のこと待ったりしねーよそんな必要ねーから。お前が必ず来ること知ってるから平気なんだよ、走り出すこと知ってんの。ていうか俺らもうそういう風に出来てんだもん。」

頭をくるみ込まれるように抱かれて、閉ざされたままの視界は暗く。それは重く圧し掛かる灰色を、腕を脚を絡め取る空気の色を思い起こさせたけれど。

「それでも、もし、もう駄目だと思うんなら俺らを呼べよ。コーチングん時よりデケェ声だしてさ。戻って待っててなんざやんねーよ?ただ、」

身体の中に響いてくる声が、停滞した世界を揺り動かす。
嵐を起こし雲を払う、そうして差し込む、光。

「ここ一番ってときのゴール前のフリーキックで目ェ覚まさせてやるよ、守護神さん。」

透きとおるような青空、緑の芝生、駆けて行く背中と。
一緒に駆けて行く、自分を。

「‥‥『サッカーは、楽しいな』。」

口にした言葉に、うっわやっぱエセ臭ェ!と笑う声を聞いた。




「渋沢、夏なんだぜ」
「‥‥?」

渋沢がいい加減気恥ずかしいこの体勢をどうにかしようと身動ぎしたところに、ふとそんな言葉を落とされ、何事かを返す前にグッと手を握られた。
自分のものより柔らかな手のひら、その中には己の、GKの手。
ふと身を放され、翳っていた視界に光が差し込む。

渋沢は目を開けた。

「お楽しみはこれからだ。へばってる場合じゃねーよ」

刺し貫くような光を宿した目の色が、灰色の世界を鮮やかに染めかえる。

「‥‥そうだな、」
「だよ」

三上の鹿爪らしい声に堪えきれず笑い声が零れ落ち、笑ってんじゃねーよと叩かれた。メシ食ってねーんだろなんか取ってきてやるよサービスの報酬は晩メシのプリンな。と言い残し、ドアが閉じられた。
些か乱雑な開閉音に渋沢は一度目を閉じて、そして開ける。
窓の向こうは変わらない、重く動かない灰色の空。纏わりつくような空気。

けれどその灰色の向こうには鮮やかな青が広がっているのだ。




「お楽しみは、これからだ。」




熱く楽しい夏が始まる。
共に戦う、夏が始まる。





end.(07.17/2005)

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