モラセスタイム
自室のドアを開けた途端肌を掠めた微かな違和感に、渋沢はドアノブに手を遣ったまま瞬きをした。
「‥‥‥‥お帰り」
「え?あ‥‥」
ドアの開閉音に同室者の帰室を知ったのか、振り仰ぐようにして視線と言葉を掛けてきた三上の、どこか気だるげな挨拶に、渋沢はほぼ無意識に返答ともつかない声を返しながらドアを閉じる。
冬風に冷えたマフラーと手袋を外し、厚いコートを肩から落とすと渋沢はふう、と息をついた。
長い年月を経た古ぼけたドアはそれでも本来の役割を損なうことなく、ざわついた雰囲気の廊下と私室をきっちりと分けてくれる。思わずついて出た息は、自室という自分の領域に戻ってきた一種の安堵感からくるものだと、ぼんやりと自覚した。こういうのも、テリトリー意識と言うのだろうか。
「渋沢?」
「ああ、なんでもない、ただいま。‥‥というか、お前の方こそなんでもなくないようなんだが‥‥」
ドアを閉めたきりその場から動かない渋沢を訝しく思ったのか、呼びかけるように発せられた声を笑顔でいなすと、逆に濁した語尾に問いかけを混ぜた言葉を、床にじかに座りこちらを振り仰いでいる三上へと返した。
渋沢はその姿を改めて認識すると、それと分かるほどに眉を顰めた。
「そんなところに座って、冷たいだろうに」
彼らが暮らす松葉寮は古い建物である。
勿論これまでに幾度となく改修が施されてはいるものの、基本的な部分はこの建物が作られた遥か昔と変わらない。改修では時の流れに太刀打ちできない部分というものもある。‥‥そう、例えば、この冷たい床であるとか。
建設当時にはつけられていなかった暖房設備も今は各部屋に整えられているが、この外壁を通し床から滲みてくる様な冷気だけは防げないままだ。
夏は涼しくていいのだけれど、と実は暑気が苦手な渋沢は入寮以来密かに思っていたものだが、今は夏ではない。むしろ、外は今にも雪が降り出しそうな勢いの季節、しかもとうに日は暮れ、窓の外は冬闇に包まれているのだ。
そんな日に床に座っていたらどんな人間でも寒くて適わないはず、なのだが。
しかし、そんな渋沢の思いもよそに目の前の人物はぺたりと床に座ったまま、何かを思案するような若干の間の後で「ストーブあるし」と事も無げに言っただけだった。
仰のくようにして此方を見上げていた視線も、見つめ返せばふいとばかりに逸らされた。
見れば、なるほどオレンジ色の電熱線が周囲の空気を揺らめかせながら三上から少し離れた位置に佇んでいた。スチーム機能もついているのか、丸みを帯びたフォルムの上部分からシュンシュンと柔らかな音と白い蒸気が立ち昇っている。
「どうしたんだ、それ?」
「借りた」
「いや、この部屋のものじゃないのは解ってるんだが‥‥」
渋沢はどこかで見かけた記憶のあるストーブを見るともなしに見ながら言葉を返す。
ブルーグレイの小さな電気ストーブ、あれは確か中西の私物だった気がする。チームメイトである以前に幼馴染みである彼らが、あれこれと物を貸し借りするのは特段おかしなことではない、ごくありふれた光景なのだが‥‥そうじゃなくて。
「‥‥お前、さっきから何してるんだ?」
渋沢の言葉に、三上の肩が大仰に震えた。
その拍子に彼の手が、先ほどから乗せられていた「其れ」を不自然に掠め、乾いた音を立てた。
柔らかく軽い音に、渋沢はぼんやりとした確信(おかしな言い方だがそうとしか言い様がない)と共に言葉を継いだ。
「布団が、どうかしたのか?」
「‥‥‥‥‥‥‥‥。」
冷たいはずの床に座っていた三上の手は、渋沢がこの部屋へ戻ってきた当初から何故だか知らないがベッド上の布団の上に乗せられていた。
床に座った体勢からだとちょうど胸辺りに上掛けの表面に三上の手は置かれ、さらには今に至るまでそこから離されることはないままだった。めずらしくも綺麗にベッドメイクされたその上を、たまに撫ぜたり擦ったり。
冷たい床に座るという奇行(多少大げさな言い方ではあるが、十分そうだと思う)に較べれば何のことはない動作にも思えるのだが‥‥。
「三上?何が‥‥」
「‥‥‥‥‥‥‥‥今日さぁ、」
ほんの少し掠れと低音極まった同室者の声は、正しく地の底を這うという表現がしっくりくるもので、渋沢は事の次第を問うはずであった言葉をそのままゴクリと呑み込まざるを得なかった。
目の前の人物はといえば、渋沢の言葉に肩を震わせて以来、ぴたりと動きを止めていた。此方から見えるのは、紺色の、薄手のコットンセーターを着た少し猫背の背中と綺麗な髪、耳から頤にかけての整ったライン。表情は、見えない。
奇妙な緊張感が渋沢を包む。
静まり返った室内にストーブがたてるスチーム音が微かに響いている。
閉じたドアの向こう側が酷く遠く感じられた。
「‥‥‥‥いい天気だっただろ?」
「え?!あ、ああ‥‥」
たっぷりとした‥‥とは渋沢の主観ではあったが、いくばくかの時間を置いてから発せられた三上の言葉に、渋沢はどうにか相づちのようなものを返すことが出来た。
確かに、今日はいい天気だった。
このところ続いていた冬ならではの不安定さもなりを潜め、一日中カラリとした上天気。休日を良いことに惰眠を思う存分貪ると言う同室者に、布団の上から挨拶をして渋沢が出かけた午前早くから、日暮れて帰宅した今に至るまで。ずっとだ。
‥‥しかしそれと今の三上と何の関係が?
そんな渋沢の思いを知ってか知らずか、三上の言葉は続く。
「昼メシに起きたら、外がすんげぇいい天気でさぁ‥‥」
「‥‥‥‥まぁ、確かにな」
「中西に聞いたら、一日晴れだっつーし‥‥」
「今もいい天気だぞ?」
「だから、布団干してた。」
妙にきっぱりとした口調に、渋沢は言葉なく瞬きをした。
言葉の意味自体はおかしなものではない。晴れていたから布団を干す。雨だの槍だのが降る日に布団を干したと言うならともかく、晴れた日に布団を干すのはごく一般的なことなのだが、その、不自然なまでの言い切り口調に、なにかこう、含まれているような‥‥。
すると、返らない相づち(というか合いの手というか)に何某かを感じたのか、三上が俯かせていた顔をあげた。かちりと目があって、それから。
「‥‥‥さっきまで。」
「‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥は?」
それは聞く者が他に居たならば、さぞや間抜けな声だと笑われたに違いないものだっただろう。そして、他でもない目の前の人物にとってはある笑い以外のある種引き金になったらしく。
過酷なまでの部活に鍛え上げられた筋肉で一気に身体を引き起こすと、近距離に立っていた渋沢の胸倉をつかみ上げて、怒鳴った。‥‥避けようは、なかった。
「ッだーかーら!!さっきまで干してたんだよ屋上に!!布団を!!」
「うわ、ちょ、三上落ち着け!さっきって‥‥、今か?!」
「今だー!!」
同室者に胸倉を引っ掴まれて揺さぶられながら、渋沢は視線を三上の背後にある窓へと投げた。
朝、抜けるような青空から冬の曙光を零していた窓は、『今』は深い闇の帳が下ろされ、かたかたと時折り吹き抜ける北風にその身を揺らしている。それが、『今』。
布団干し、というのは、日光に晒すことをいうのであって。
‥‥真冬の夜風に吹き晒されるものでは、断じてない。
「布団が冷たい!!」
「‥‥まぁ、当然だろうなぁ‥‥」
「納得すんなぁ!!」
「いや、すんなと言われても‥‥っていうか三上、落ち着け、な?」
「‥‥‥‥‥‥ッ」
逆切れというか、八つ当たりというか。
なんだかもう、本人さえもどうしようもない何かを渋沢はなんとか受け止めると、宥めるようにその肩を緩く抱いた。少し、冷たい。
(‥‥あ、)
そこで、渋沢は不意に気がついた。
ドアを開けた瞬間肌を掠めた微かな違和感。あれは、夜風に晒された布団と、それから‥‥
「三上」
「‥‥何だよッ」
「冷たい」
「分かってるっつーの!あーもー‥‥ッ」
「そうじゃなくて、」
「お前が。」
三上が何か言うより先に、渋沢は緩く回していた腕で、目の前の夜風に冷えた身体を抱きしめた。
先ほどまで干していたという布団。つまりは、『今』さっき、三上は布団を取り込みに行ったということで。
彼が蒲団に今まで気づかなかったのは、他の部屋にでも遊びに行っていたか何かしたのだろう。冬の日暮れは早いが、室内に居ればそんなことは関係ない。況して暖房の効いた場所に居れば、外に居た自分のようにマフラーやコートは必要ない、わけで。
「この格好で屋上に行ったのか」
薄手のコットンセーターは、渋沢より先に部屋に戻っていたにも関わらず真冬の夜風の名残りを色濃く残している。
そもそも先ほどまで外に居た渋沢より体が冷えていること自体おかしいのだ。
冷えた布団をどうにかするつもりでストーブを借りたのかもしれないが、それ以前の問題だ。しかも冷たい床に座って。
「まったく、お前は‥‥」
そう呟いたきり、ぐっと力を込めて抱き込んでくる腕の温かさに、それまで行き場のない怒りに煮えていた三上の思考が、次第にクリアになってきたらしい。
「‥‥‥‥‥‥渋沢?」
「何だ」
「なんでお前、怒ってんの」
「怒ってるように見えるか?」
「あー‥‥えーと、」
「どうやら頭の中までは凍ってなかったみたいだな」
「‥‥‥‥‥‥‥。」
やっぱ怒ってんじゃん、と腕の中で呟く三上に、渋沢は盛大なため息をついてみせる。
別に怒っているわけではないのだ。怒りというよりはいっそ、呆れているというほうが正しいし、また呆れているというよりは‥‥。
「心配してるんだ。風邪でもひいたらどうする」
渋沢は耳元に言葉を落とし込むように囁くと、ばつが悪そうに身じろぐ身体を抱きこんだまま、暫くの間動かなかった。
スチームの立てる静かな音がカタカタと風に揺れる窓の音と混ざって二人を包む。
「‥‥渋沢」
そうしている時間はそんなに長いものではなかったが、理不尽な怒りに巻き込んだ三上にしてみれば、どうにも身の置き所のないものであったらしい。シュン、とひとつ大きなスチームの音の後、身じろぎながら暖かな腕の主の名前を呼んだ。
少し気だるげな、普段どおりの声。‥‥いつだって、渋沢の心を温める。
「渋沢」
「‥‥‥‥暖かくなった?」
「あ?‥‥ああ、まぁ、そりゃ」
抱きしめられたままの体勢は変わることなく、至近距離から囁かれる声にいい加減恥ずかしくなってきたらしい三上が、身体を離そうと腕に力を入れる。その動きを察して渋沢は抱きしめていた腕から力をほんの少しだけ抜いた。
それに、ある意味緊張していた三上の身体から力が抜け‥‥たのを見計らい、渋沢は、動いた。ほんのちょっと。
「‥‥ッ?!ちょ、うわッ!!」
中学男子の平均身長を軽く越している少年二人の身体を、盛大な悲鳴を上げつつもどうにか無事に受け止めた寮添え付けのベッドを、ここは懇ろに褒めてやるべきだろう。
しかし、唐突に足払いを掛けられた挙句ベッドに押し倒された、というより一緒に強制ダイブさせられた三上にしてみれば、それどころではなかったらしく。
「な‥‥っにしやがるんだテメェはー!」
「あ、本当に布団冷えてるなぁ」
「だっからさっきからそう言ってんじゃねーかボケェ!っつか俺のベッド壊す気か?!離せいい加減ー!!」
体勢をものともせず暴れる三上を、これまた器用に押さえ込み抱き込む渋沢の声はなんとも呑気なものだった。肌に触れるそこかしこに布団から伝わる冷気を感じつつも、すっかり温かくなった身体はがっちりホールドして離さない。
「三上」
耳に直接落とし込む声には、甘さをこめて。
「何だよ?!」
「三上、暖かくなった?」
「っ、布団は冷てぇよ!!」
「じゃぁ、暖かくなるまでずっとこうしていようか。」
「ッ、」
息を呑んだ三上のほんのり赤くなった眦にキスを落とせば、赤みの一気に増した頬をなんとかしようとでもいうのか、先ほどとは逆に思いきり力を込めて抱きつかれる。
夜風の冷たさを掃いすっかり温かくなった身体は、とても愛しく。
「お前はホンットに‥‥ッ、‥‥」
渋沢にだけ聞こえた言葉は、甘く渋沢の心を温かくしてくれた。
部屋にあった冬の違和感が完全に取り払われるまで、もう少し。