自分より少しだけ高い位置にある横顔を見遣る。
ちょっと困った風な眉の辺りにいたたまれなくなって、直ぐに目を逸らして、俯いた。

「ちょっと、無理かな」

言葉と同時に外から入り込んできていた雨の気配が断ち切られる。
夏の昼間なのに薄暗い玄関先は普段とは異質で、なのに丁寧に閉じられた玄関扉はいつものとおりの風情で、それが一層いたたまれないと思う。

「‥‥あの、」
「もうちょっと、居てもいいか?」
「あ、‥‥うん。」

もっと気の効いた言葉なんていくらでもあると思うのに、自分の口から零れた言葉はそんな素っ気無いものでしかなくて。俯いたままの視線の先、履いたばかりのスニーカーをもう一度ぬぐその人の足元を、じっと見つめていた。
謝りたいと思ったのに声は出ないまま、少し息を吸った。

吸い込んだ空気は、雨の匂いがした。











レイニー・マーチ










朝はいい天気だった。

一昨日までクラブの長期遠征があって、3日間のオフ、その二日目。
クラブユースに所属する自分たちにとって、夏はどのカテゴリでも大きな大会やセレクションが目白押しで、休んでる暇なんて本当になくて。勿論休みの日だって軽いジョグや自主トレは欠かさないのだけれども、それでも、いつもならかける目覚ましが鳴らないことや、普段よりややキツイ窓からの日差しに起こされることとか。なんだか夏休みっぽいじゃん、なんて思ってた。両親ともとっくに仕事に出かけて自分以外誰も居ない自宅で、窓越しに蝉の声なんて聴いて。いい天気で。

だから、そのかかってきた電話を取ったとき、普段よりハイテンションだったことは否めない。

ナンバーワンGKとしてゴールの前、絶対の力を持った声とも、友達や藤代なんかと話してるときの声とも違う。俺だけが聴ける、ちょっと特別な声。特別な言葉。‥‥特別な、日。

『これから行ってもいいか?』

断る理由なんて一つもなかった。




「‥‥うん、そう。何時頃になる?‥‥うん。悪いけど‥‥わかってるって。大丈夫だって‥‥はい。じゃぁ、」

プツリと通話の途切れた電子音に、真田は通話終了のボタンを押した。
『母 携帯』と浮かび上がる文字、ワケもなく明るい携帯電話のディスプレイの光を見るともなしに見ながら振り返ると、真田のベッドに背を預ける格好で座った渋沢は、彼の手に収まるとなんとも小さく見える携帯を相手に未だ通話中の様子で、低い声で何事かを喋っていた。

「‥‥ああ、無理。帰れそうにない。」

聞こえてきた言葉の断片に目を伏せながら、真田は自室を後にした。
足音をひそめ、ドアの開閉音が通話の邪魔にならないよう、ドアを薄く開けたままキッチンへと向かう。冷蔵庫からピッチャーに入れられた麦茶を取り出して、流しの横に伏せられていたコップに注ぎながら、食卓の上に投げてあったテレビのリモコンを取ってパワーボタンを押した。
音量を絞ってから、何度かチャンネルを変えて目当てのプログラムを見つけ、一通り観終えると、緩く眉を顰めて電源を落とし、ついでにため息も落としてから、盆は使わず両手に一つづつ麦茶入りのコップ携えて、キッチンを後にする。
廊下頭上に斜めに取り付けられた採光用の窓が、バラバラと音を立てて雨粒を弾いている。冗談でも、もう少ししたら止むかも、なんていえない雨量だ。
雨の代わりに室内に零れてくる、灰色の光。いつもより暗い。

「うるさいな、もう切るぞ。‥‥ともかく。寮長には中西から言っといてくれ。‥‥ああ。」

短い電子音と携帯を畳む音に、真田はドアを肘で軽く押し開けて部屋へと入った。それに気づいて視線を上げた渋沢に曖昧な表情を返し、傍へと歩み寄る。

「これ、麦茶。」
「ん、ああ。ありがとう」

片手のコップを手渡せば、すまないな、と言われて穏やかに微笑まれたけれど、なんとなく落ち着かない気分のまま真田は口の中でモゴモゴと呟き、視線を逸らしてから、その隣りに座った。
二人以外誰もいない家は静かで、窓越しに響いてくる雨音が唯一の音源であるかのように空気を震わせている。本来なら、それは決して嫌いではない、とても穏やかで優しい、やわからな音だった筈なのに。
持ってきたばかりのコップの表面を、静かに雫が伝い落ちていく。

‥‥これくらいの雨だったら、こうして足止めなんてさせることもなかったのに。

真田は先ほど見たテレビと窓を伝い落ちる雨水を思い出し、視線は麦茶に固定したまま、ふっと息をつくように言葉を紡いだ。

「さっき台所でテレビ、天気予報見たら、まだ降るって。」

‥‥降水確率は100パーセント、今夜半にかけて強く降るでしょう。朗らかに告げる気象予報士をブラウン管越しに睨みつけたのはついさっき。
ん、そうか、という渋沢の声は穏やかで、だからこそいたたまれない。
真田はコップを手に取った。てのひらを濡らすグラス表面についた水滴は冷たく、その冷たさが指先からじわりと浸透してくるような錯覚を呼び起こす。
渋沢さん、と呼びかければ、視線を向けられたのが気配で解ったけれど、自分の視線は動かせなかった。

「あの。母さんがあと2時間くらいで帰ってこれるって、そしたらクルマで送れるから‥‥」

だから、帰ってきたら送ります、という言葉は知らずフェードアウトして、それに合わせるように視線はどんどんと俯き加減になって。もう、上げられなくなった。
風が出てきたらしく雨粒がガラス窓を叩く。不規則なリズムのその音に、真田はギュッと目を閉じた。
てのひらの水滴が、冷たかった。




訪れた渋沢をドアを開けて迎え入れたとき、背負った夏の青がとてもよく似合っていたことを思い出す。
正午をいくらも回っていない夏の光は酷く眩しくて、挨拶を返しながら室内の明るさに慣れた目を瞬かせたら、穏やかな、真田の好きな笑顔と、言葉をくれた。

渋沢が忙しいというのは解っていた。クラブに属する自分たちの夏も忙しいが、それは中体連の大会に出る渋沢だって同じことだ。もしかしたらそれ以上かもしれない。名門の最高学年、主将。様々な方面からの注目。最後に会ったのは都選抜の合宿、それから年代別の全国召集のカンファレンス、‥‥二人で会ったのはいつだったか、忘れた。
そんなことは、何でもない事だと思っていた。実際そうだと今でも思う。同じ都内といえども互いに遠い在所を行き来するのは骨の折れることだ。それよりサッカーをしていればどこかで会う。共通の友人もいるから互いの近況だって判る。電話だってメールだってしてる。だから無理に会う必要はない。‥‥けれど。

『今日は、特別だから』

会いにいってもいいかと訊かれて、遠いからとか疲れてるだろうからとか。いつもならする、しなければいけない遠慮なんて吹き飛んでいた。

屋根を叩く雨音に気がついたのは、まだ日暮れには遠い時間帯。まるでマジックでも見ているかのような具合に黒雲がどこからともなく湧き起こり、瞬く間に夏の青空を覆い隠したかと思うと、次の瞬間正しく「バケツをひっくり返したような」豪雨。
‥‥せめて朝のうちに、天気予報なり観ていればとか。英士並みの勘なんてあったらよかったのにとか。ぐちゃぐちゃとそんなことを考えてみたところで、雨が止むはずもなく。‥‥結局足止めを食らわせた。

忙しいと判ってたのに会いに来て欲しいと思った、それは自分の我が侭。

‥‥謝らないといけない。

今日来なければこんな目には遭わなかった。だから謝るべきだと、‥‥謝ったところで雨は止みはしないけれど、それでも何か言わなければならないと思うのに、言葉が出てこない。
玄関先で困ったように空を見ていた横顔、自分には向けられたことのない悪態交じりの電話。雨音。てのひらから染み込んでくる水滴の冷たさ。それら全てが、喉を凍りつかせてしまったかのようで。
指先が震える。馬鹿みたいだと思う、こんなことで。違う、こんなことなんて軽くはない。そうじゃなくて。

謝らないと、いけないのに。




「ごめんな?」
「‥‥は?」

その言葉を聞いた瞬間、意味を捉えるより先に間の抜けた声を出した自覚はあった。みっともない声と頭の片隅で考えたけれど、同時にその抜け具合が固まりかけていた身体の機能のスイッチを入れてくれたらしく、真田はガバッと顔を上げ、隣りに座る渋沢を見た。
‥‥少し困った風な。そう、玄関先で雨模様の空を見上げていたときのような表情に、一瞬胸が痛くなったのだが、それよりも。

「何、謝ってんの?」

自分で思ったよりも冷静な、正確には冷静「に聞こえる」声が出て、あとはもう止まらなかった。手に持っていた麦茶入りのコップをダンッと音をたてて床に置く。水滴が散って床を濡らしたことなんかどうでもよかった。

「何で渋沢さんが謝んの。謝らないといけないのは俺だよ。俺だよな。俺が天気予報見てたらよかったんだし英士みたいに天気予報できる勘‥‥は無理か、無理だけどなんか察してればよかったんだし。や、それも無理っぽいからやっぱ天気予報か‥‥そもそもアンタ忙しいんだから俺の我が侭でこんなトコ来させてどうすんだよ、ああそっか電話、電話受けたときに俺がちゃんと断ってれ、ば‥‥ッ!?」
「ストップ。」

大きな手で、口を覆われた。‥‥どころか、横合いからガッチリ身体全体をホールドされた状態で、それ以上の言葉を紡げるはずもない。
更には耳元で「落ち着け」なんて囁かれては、仮に手を離されて「それじゃ続きを言え」といわれたところで無理というものだ。

‥‥てのひらの熱が心地良いとか。腕とか。
そういえば、長いことこうして触ってなかったのだと、真田は今更気がついた。
抱き寄せられる気持ちよさを、思い出した。

「‥‥落ち着いた?」
「‥‥‥‥まぁ。」

ある意味ちっとも落ち着かないんだけど、というニュアンスを含ませた微妙な相づちは伝わったらしく、頭の上辺りから小さな笑い声が降ってくる。額を胸、というより喉元あたりに当てるようにして抱き寄せられていたので、笑い声と合わせるかたちで鎖骨下辺りの筋肉が動くのが薄いシャツの上からでもわかった。
鼓動と一緒に伝わってくる、ゆるい振動。と、ため息。
そのため息に顔を上げようとしたのだが、先にカックリと頭を項垂れるようにして肩口に懐かれてしまい、真田は身動きが取れなくなった。‥‥身動きが取れないのは元からだが。
だから、小さく名前を呼んだ。
至近距離で呼ぶ名前は、不思議なくらいにドキドキする。

「‥‥渋沢さん?」
「うん。」
「うんじゃなくて。」
「じゃぁハイ。」
「違う!何遊んでんだよ!‥‥じゃなくてさ。」

そこで言葉を切った。不意に落ちた沈黙に、未だ止まない雨音に気がつく。
けれど、それは先ほどまで感じていたような、気分を落ち着かなくさせる音ではなくなっていて。不思議なほどに、気分を落ち着かせてくれた。

「‥‥会いたかったんだ。特別な日とかって、別に思ってたわけじゃなかったのに、アンタが電話くれたとき、会いに来てくれるっていったとき、凄く嬉しくて、忙しいのとか解ってんのに、他のことなんてどうでもいいって思った。挙句に雨は降り出すし。帰してあげようにも帰れないしさ‥‥。」

渋沢はもう先ほどのように止めたりはしなかった。抱きしめたまま、紡ぐ言葉をただ聞いてくれている。
それだけのことがこんなにも嬉しいことだったのだと、初めて気がついた。
伏せていた顔を起こす。緩く回されていた渋沢の腕は動きを妨げることなく、目をあわすことのできるくらいにまで頭を上げた。

困った風な横顔に飲み込んだ言葉を、真正面から見据えて紡ぐ。
少し淡い色の目が、好きだなと思った。
『今日は、特別だから』と言ってくれた声も好きだと思った。

「でも会いたかったんだよ、我が侭だけどさ。ごめんなさい。」




『真田、誕生日おめでとう。』









そう言って綺麗な笑顔で笑った。
会いに来てくれた、この人が好きだと思った。









「‥‥じゃあ、今度は俺が謝ろうか。」

や、だからなんで、と言いかけた声はちゅっと音を立てるキスに阻まれる。 にっこりと笑う顔は妙に迫力があって、藤代が以前言っていた「キャプテンはさぁ、笑ってるときが一番怖いんだよね。」という言葉、その意味がなんだか解った気がした。

「実は俺は雨が降ることを知っていました。」
「‥‥‥‥‥‥‥‥は?」

雨はさらに激しさを増したらしく、ザーなんてナマ優しい擬音では追いつかない勢いになっている。‥‥母さん、ちゃんと帰ってこれるかな?と少しだけ心配になりつつも、今は目の前で笑顔つきで言われた言葉の解析についていくのでいっぱいだった。

‥‥『雨が降ることを知っていた』?誰が。‥‥渋沢が?

その時の真田はよほどおかしな顔をしていたらしく、渋沢はまじまじと至近距離の少年の顔を見た後、苦笑というには笑い声の多い笑みを零したものだ。

「『本日の天候は晴れ、午後曇りのち雨。大気が不安定な為、雷を伴い局地的に激しく降るでしょう。』‥‥だったかな?」
「‥‥天気予報?」

呆然と呟かれた真田の言葉に、そう、と軽い相づちが返される。

「朝のな。だから、本当は夕方辺りから雨が酷くなるの知ってたんだよ。」

まぁこれほど酷く降るとは思わなかったけど。と続けて、それからカラカラと笑う恋人に、真田は思いきり呆気に取られていた。

‥‥だって。だって!?

「そういえば、郭も天気予報が得意らしいけど‥‥ウチの寮にもいるんだよ、天気予報が得意なのが。一人は気象図やネットで配信されてるデータ片手に趣味というか、個人的に解析してるんだけど、もう一人は、郭と同じかな。勘で。」

気圧の変化で頭が痛くなるんだそうだ、と朗らかに話す渋沢の話は更に続く。

「で、今日なんだけど。朝から外出届だしてる連中に片っ端から、今日は出かけるなーって二人ともが言ってたんだよ。雨が降るからって。豪雨で帰れなくなっても知らないとまで言われたものだから、大概のヤツは今日は寮で大人しくしてた筈だよ。勿論、俺も言われたしね。」

外出するなと。今日は止めておけと。しつこく言われたのだと、渋沢は笑いながら告げる。さすがだなーなんて感心しながら、でも笑って。
真田は、その笑顔をしばらく眺め、そのあと大きく息をついた。上げた顔をガックリと垂れるように、実際には目の前の男の身体に懐くようにして顔を伏せたのだけれども。

「‥‥‥‥あのさ。」
「うん?」
「じゃぁ、なんで来たの。」

雨が降るの解っていたのに。
足止めされるだろうことを解っていたのに。何故?




「そんなの決まってる。真田に、俺が会いたかったんだ。誕生日にどうしても。俺の我が侭だよ、ごめんな。」




そう言って、少しだけ力を込めて抱きしめられる、その腕の温かさに、なんだかもう。

「じゃぁ俺ら、二人とも我が侭ってこと?」
「そうなるな。」
「うっわ、タチ悪ィの‥‥。」
「まったくだ。」

笑みを含んだ声を絡め合わせながら、目を閉じる。
窓の外の雨音は激しさを増す一方だったが、もう少しの間降っててもいいや、と我が侭に思った。

キスを堪能するその時間くらいは、ね。なんて。





end.(08.22/2005)




『‥‥で?何、雨で帰れないって?』
「ああ、無理。帰れそうにない。」
『‥‥渋沢さぁ、俺、朝言ったよね?しつこいくらい豪雨ンなるって言ったよねぇ?
ていうか食堂のテレビで天気予報食い入るようにみてただろ。
夕方からの降水確率100パーセント。ところにより強く降るデショウ。』
「‥‥まぁ、な。」
『それを承知で出かけたワケだー?ふぅん?』
「うるさいな。もう切るぞ。」
『はぁい、あーもー、どうぞ宜しくやっちゃってくださいねーっと。』
「ともかく。寮長には中西から言っといてくれ。」
『はぁい、キャプテンはー、どーしてもコイビトに会いたくて友人の忠告もムシッて出かけました。
ていうか門限以上にイチャついていたいので雨を狙って出かけて帰ってきませんっつっとくよー。』
「‥‥ああ。」
『お、否定しないんだ?潔いームカツクーカッコイイー。
‥‥ま、それもアリってことで?なんとかしとくわ。相手さんに宜しくねーv』


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