キャンディ・ポップ





















雪が溶けて川になって 流れてゆきます
つくしの子が恥ずかしげに 顔を出します





「‥‥スギの木立が恥ずかしげもなく花粉出してます‥‥」
「あら、なかなか上手いじゃない水野ったら」

部室内にあるテーブルに救急箱の中身を空けてテーピングの数を確認していた小島は、呟かれた即興の替え歌にカラカラと笑った。少女の軽やかな笑い声は、机に投げ置かれたポータブルラジオから流れてくる懐メロに混じって、春の空気をいっそう華やいだものにした。
いつの間にやらすっかりと伸びた日暮れ時、窓から差し込む柔らかな春の夕日差しが室内に居る部員達をふわりと包んでいる。既に部員の多くは活動を終えて帰宅の途につき、部室内に残っているものはごく僅かで、小島を含めて三名のみだ。
小島は買い足さなければいけないテーピングの数を買出しリストのメモ用紙に書き出し終えると、テーブルの斜向かいに座り部誌をつけているチームメイトへと声を掛けた。

「不破、終わった?」
「もう少しだ」

いつもながらの淡々とした声音で返事をしながらも、止まることはない流れるようなペン先を、小島はほんの少しの間見つめた後、そのまま不破の隣りへと視線を移す。
そして視線の向いた先を、大きな愛らしい目で眺め遣ったあと、小首を傾げておもむろに問うた。

「水野、生きてる?」

そんな身も蓋もない問いに返されたのは、盛大なくしゃみだった。
机に額を懐かせるようにして轟沈しているサッカー部キャプテンに、小島は救急箱の中に入っていたティッシュを箱ごと投げた。億劫そうに伸ばされた手が数枚ティッシュを抜き出したところで、伏せたままだった顔があげられた。

「また、凄いことになってるわね」
「‥‥うるさい」

掠れきった声は、続く鼻をかむ盛大な音にかき消されそうなほどだ。
水野は一頻り鼻をかむと一つ大きく息をつき、すっかりと赤く腫れてしまった目元を片手で覆う。前のめりに伏せていた背を伸ばすかのように椅子の背へと身体を伸ばせば、安いパイプ椅子がラジオからもれ聞こえる陽気なナンバーに抗議するかのように、キシリと鳴いた。
その一連の動作を斜向かいから眺めていた小島は、呆れたような感じ入ったような声で言ったものだった。

「花粉症って、大変なのねえ」
「‥‥‥‥薬、忘れたんだよ」
「なら自業自得じゃない」
「スギが悪いんだ、スギが‥‥っクシュ、ゲホッ、ふ」

クシャミの後、今度は背を丸めて咳き込み始めたサッカー部主将の姿に、小島は肩をすくめただけでコメントは控えた。
この時季になれば必ずといっていいほど天気予報と一緒に発表される花粉情報も、その影響を受けない人間にとっては単なる一情報にすぎず、勿論実生活においても何ら実感することはない。が、周りに花粉症の人間が居るとなれば、また話は変わってくるというもので。




もうすぐ春ですね ちょっと気取ってみませんか




「‥‥気取るどころの騒ぎじゃないわね」

ラジオが響かせる、レトロさが逆に新しい陽気な歌詞をもじって、小島は小さく呟いた。
普段の「王子様」然とした(無論水野本人が自称している筈もなく、夢見がちな少女達から見た水野竜也、なわけだが)立ち居振る舞いからはかけ離れた、涙目のままおぼつかない手つきでティッシュを引き抜くその姿に、小島は買出しリストの中にボックスティッシュ、と書き加えたものだ。

「小島、書けたぞ」
「あ、不破ご苦労さま」

その声に、小島は再び視線を不破へと転じた。
すぐ隣りの惨状など何処吹く風、いつもながらの恬淡とした佇まいで小島のほうへと書き上げた部誌を滑らせてくる不破に、小島は労いの言葉をかけた。

「悪かったわね、代理で書かせて。もう、急に水野が使い物になんなくなっちゃったから」

そんな小島のもの言いに、本来部誌をつけなければならない筈の咳き込んでいたサッカー部主将は顔を上げかけたが、それより先に襲ってきたくしゃみの発作と、不破の「構わない」という淡々とした声に、言葉は出されることなく。
続けて紡がれた不破のセリフに、顔だけを上げることになった。

「水野も花粉症になろうと思ってなったわけではないからな。風邪や流行性感冒とは違い、気をつけていればどうにかなる、という類の症状ではない。部誌くらいなら代理で書いてやることもできるし」
「あら」
「‥‥不破」

ただ事実を述べているだけのようだが、それとなく水野をかばっていると窺える台詞に、水野が隣に座る不破を腫れぼったい目でなんとか見上げる。
そこにはいつもながらの淡々とした表情の不破がいたが、掠れた呼び声に水野が顔を上げたのに気づいたらしく、ふと視線を水野へと向けた。

パチリと音がしそうな勢いで視線が合い、水野の心臓が一度大きく跳ねた。

水野は慌てて顔を伏せるように、目を逸らす。

「‥‥目が腫れているな。小島、アイスパックを取ってくれ」
「はいはい。‥‥ふふ、何、ずいぶん甘やかしてるじゃない?」

なんとも含みのある台詞に不破はチラリと小島を見遣ったが、小島がニッコリと満面の笑みでアイスパックを手渡せば、結局何もいわないまま小さく息をついただけだった。水野は顔を伏せたままだ。
そんな二人の様子に、小島はもう一度ふふ、と小さく笑みを零す。机上のテープ類を片付けて所定の位置に救急箱を戻し終えると、「夕子先生には私から提出しておくわ」と言い置いて不破から部誌を受け取り、自分の鞄も手に取って小島はドアへと向かった。
春の陽気を取り入れる為に開け放していたドアを潜ろうとした小島は、ふと動きを止めると、肩越しに部室内を振り返った。
太陽が西に遠のいただけ僅かに光度が落ちた室内は、不破の私物である小さなラジオが相変わらず春を謳う陽気なナンバーを響かせている。
そのラジオが置かれた机の向こう側、アイスパックを手に座った不破と顔を伏せたままの水野に、小島は視線を合わせた。

「じゃあね不破、今日は助かったわ」
「いや。‥‥では、また明日」
「それと水野、あんたちゃんと不破にお礼言っときなさいよ」
「‥‥わかってるよ」

鼻水と咳とくしゃみにすっかり掠れ、愛想のなくなった声音のその返答に、小島は軽やかな笑みに愛らしいウインクなどを添えて、言葉を接いだ。

「あと、甘やかされたぶんはちゃんとお返しに優しくしてあげなさいよね。それくらいの甲斐性持っときなさいよ、恋人でしょ?」

ラジオから流れてくる懐かしいメロディと、ガタン!と何かが椅子から落ちたような音をBGMに、小島は部室と恋人たちを置いて、柔らかな春の夕焼け空の下へと駆け出した。

たまには他人の春をからかうのもいいわね、とどこかくすぐったい気分になりながら。




もうすぐ春ですね ちょっと気取ってみませんか




「とりあえず、椅子に座りなおしたらどうだ」
「‥‥‥‥。」

去り際のチームメイトの台詞に、比喩ではなく椅子から転がり落ちた水野は、床に腕をついて項垂れていた。落ち込んでいるわけではない。去り際の小島の言葉に、妙にこそばゆい気分にさせられただけである。
事実の指摘は、時々妙に照れくさい。

「水野」

頭上から声が降ってくる。不破の声音は先ほどまでと何ら変わることなく落ち着いており、その安定した声は水野の心にも落ち着きを幾分か取り戻してくれた。‥‥と、同時に忘れていた発作も戻ってきた。

「ックシュ!‥‥ふ、ふわ、ティッシュ取って」

這い登るようにして椅子に座りなおした水野に、無言でティッシュボックスが差し出される。水野はティッシュを数枚引き抜くと、むずむずする鼻を盛大にかんだ。ひりつくような痒みの治まらない目元から、涙が零れ落ちる。すっかり腫れてしまった目元を涙が転がり落ちる感触に、ギュッと目を瞑ったところへ、ヒヤリとしたものが当てられた。
瞬間暗くなった視界に、水野は肩をひとつ大きく震わせたのだが、思い至った原因と呼び声に、落ち着きを取り戻した。

「‥‥不破、」
「アレルギー症状だからな、冷やしたからといってどうなるわけでもないが、腫れは少しくらい治まるだろう。‥‥小島の台詞じゃないが、お前凄いことになっているぞ」
「‥‥‥‥‥‥。」

差し向かいに座って、布を巻いたアイスパックの上から目元を押さえてくれているらしい手と、その向こうから聞こえる淡々としたその声音に、水野は項垂れたくなった。
身だしなみにはそれなりに気を使っているものの、自分の容姿に特別思い入れがあるわけではないし、多少目が腫れるくらいどうと言うことでもなくはあるが。‥‥だがしかし。




もうすぐ春ですね ちょっと気取ってみませんか




「‥‥‥‥無理なんだっての」
「ん?何か言ったか」
「いや‥‥この、歌詞が」

机に転がされた小さなラジオから流れてくるのは、自分たちが生まれたかどうか辺りの時代に流行した歌謡曲だ。今の流行とは少し違う、けれどどこか懐かしい気分にさせてくれる女性の弾むような歌声が、静かになった部室の彩りとなって響く。
アイスパックの冷たさが、逆に外気に晒された皮膚を撫ぜるぼんやりと温かい気温を自覚させた。
春だな、と不意に思う。

「‥‥もう、春だけど、気取るのは無理っぽい、俺」

鼻症状と喉の脹れで、妙にたどたどしい口調で零れた言葉に、水野はふ、とひとつ息をついた。
別に、歌に乗せられて気取りたいわけではないけれど。けれどやはり、

(好きな相手の前でくらい、キリッとしていたいのに)

「水野」
「ん?‥‥あ、だいぶ腫れひいた、っぽいか」

ふ、と明るくなった視界にそろりと目を開ければ、それまで水野の目に当てられていたアイスパックを手に、此方を覗き込むように傍に居る不破の姿が目に映った。 どうやら花粉の害とは無縁らしい不破の涼しげな姿に、水野は己の惨状を省みていっそ笑いたくなった。




もうすぐ春ですね ちょっと気取ってみませんか




ラジオから流れてくる、繰り返される軽やかなフレーズを聞くともなしに聞いていた水野は、不意に再び視界が暗くなったのに軽く驚く。目元を覆ってくる、けれど先ほどまでのアイスパックとは違う、柔らかさは。

「‥‥不破?どうし‥‥、」
「確かに今のお前に気取れというのは限りなく無理があるが、」

不破の手のひらで視覚をふさがれて、そのぶんだけ鋭くなった聴覚が凛と涼やかな声を捉える。

「別にお前が気取っていようがいまいが関係ないし、」

ごく近距離から響く不破の声は、落ち着いた音で春のぼんやりした空気を引き締めるかのように思えた。




「‥‥お前を好きになったのは、そんな理由からではないから」




伝えられた不破の言葉は、真摯で強い力で、水野の心を掴んだ。




目元を覆うてのひらに、水野はそろりと持ち上げた己の其れをそっと重ねる。
自分よりも少し大きいてのひらはサラリとしていて、熱を持った目元には心地よい、優しい冷たさをしていた。
傍らからはラジオが陽気なナンバーを繰り返している。聞こえてきたその歌詞に、水野はふと口の端に笑みを乗せた。
その笑みが手のひら越しに伝わったのか、「水野?」と少し不思議そうな声が暗い視界の向こう側から聞こえて、水野は重ねて合わせていた手のひらを、そのまま握りこむようにして離す。瞼を上げれば、真っ直ぐに見つめてくる視線と、パチリと音がしそうな勢いでかち合った。今度は、逸らさない。
逸らさないで、真っ直ぐに言葉を伝える。

「‥‥やっぱり不破の前ではちょっとくらい、気取ってたいよ。うん、でもこの時季は無理だから、けど、もう一つの歌詞のほうなら、大丈夫。」
「もう一つ‥‥?あ、」

繰り返される陽気なフレーズが、二人の耳へと届く。
その歌詞に、不破が一瞬僅かに目を見張ってほんの少しだけ目を逸らしたので、水野は少しだけ笑うと、繋いでいた手を引き寄せて、キスをひとつ。




もうすぐ春ですね 恋をしてみませんか




「‥‥恋ならもう、してるんだけど、な」






end.(03.28.2006)
キャンディーズの『春一番』より。
懐メロはヘンなエロさがなくて良いですナ。

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