医薬部外品夏仕様
「コラ、掻くなよ。」
「う‥‥。」
投げられた台詞に、一馬はピタリと動きを止めた。
そして、背後に居るだろうその人を、些か恨めしげな視線と共に振り返る。
「だって、」
「だってじゃない。」
ピシャリと言われたその台詞は至極もっともなもので、だからこそそれ以上の反論も出来ずに、一馬は不貞腐れたように視線を逸らす。
中途半端に持ち上げていた腕を、勢い良く振り下ろし、なんとなく手のひらをシャツの裾で拭った。
夏の熱気に当てられた手のひらは、じっとりと汗をかいていた。
「そういうのは、掻けば掻くほど痒くなるんだぞ?」
「‥‥だって、」
言われていることは判るのだ。だがしかし、納得はいかない。
だって、感覚が訴えるのだ。しつこくしつこく、
「‥‥‥‥痒い。」
「そりゃあ、虫刺されだからな。」
痒いだろうな、と。
笑いながら事も無げに言った渋沢を、一馬がちょっと憎らしいと思ったところで、罪はないだろう。
季節は夏。
「夏なんて嫌いだ。」
「でも真田、水泳好きだろう。今度プール行くか?」
「‥‥行くけど。でも、」
「この週末に武蔵森の方で花火大会があるよ。寮から見えるから、おいで。同室の奴追い出しとくから。‥‥ほら、掻いたら駄目だ。」
「‥‥‥‥それも行くけど。っていうか追い出すって、別にいいですよ一緒でも。そうじゃなくて、夏は、」
「や、俺が真田と二人で見たいし。‥‥ああ、暑いときに冷たいりんごシャーベットなんて美味しいよなぁ。」
「虫に刺されるからイヤなんだ!」
「わかったから掻かない。」
バン!と目の前のローテーブルを片手で叩いたあと、そのまま身を乗り出して主張する真田にも動じた様子は微塵も無く、差し向かいに座る渋沢は、はっはっは、と妙に白々しい笑いと一緒に尚もその箇所を掻こうとする一馬を制止しながら、手元の救急箱を探っている。
「ん、あった。」
「‥‥ありがとう、ございます。」
渋沢が取り出したのは、かゆみ止めの軟膏。
一馬は其れを受け取り、先ほど渋沢に掻くな、と指摘された箇所へと薬を塗りこんだ。
渋沢は向かいに座り、その様を見るともなしに眺めている。
薬は今時珍しい、小瓶に詰められた白い軟膏タイプのもので、指先に少量を取って塗りこむ。
少しだけ冷たい感覚がその場所と指先を包む。
薬品特有の匂いが、一瞬だけ鼻を掠めた。
一馬は薬を塗ったという事実に少しだけ安心し、目の前の恋人には判らない程度の小さな息をついた。
そう、季節は夏。
そして、夏といえばこれだ。
「虫刺され‥‥。」
「陽が高いうちに刺されるのはめずらしいな。‥‥ああ、ウチの寮の周りに緑が多いせいかもな。」
此処にくる途中、刺されたんだろ?という問いかけに、一馬は頷きだけで返事とした。
此処、つまり、渋沢克朗の起居する武蔵森学園部活寮の周りには緑が多く植わっている。学園名に因んだのかそうでないのかは判らないが、森、と呼んでも差し支えは無い程度には立派な樹木たちが、夏の太陽の恵みを一身に受け枝葉を広げていた。
確かにあの傍を通った後に、虫に刺されているのに気がついたんだっけ‥‥。
その箇所を見ながら一馬はぼんやりと考えた。
片足を立てるようにして引き寄せた左膝の少し上、赤く腫れた其の周囲は、形容し難い感覚に支配されている。硬く盛り上がった其処は、まるで身の内になにか別の生物が潜んでいるかのようで、気味が悪かった。
「その薬、よく効くから。暫らくはまだ痒いだろうけど、効いてくるまで我慢な。」
「‥‥ガキじゃないんだから、判ってますよ。」
さっきまで幾ら言っても掻いてたくせに。と渋沢が笑った。
一馬はムッとした表情で渋沢を見た後、フイと顔を背ける。
薬を塗ったからとて、すぐに痒みや赤みがひくわけではない。
疼くようなかゆみが今もしつこく其処には居座っている。
一馬は薬を塗られて奇妙に光るその箇所を、忌々しげに眺め遣った。
「薬、片そうか。こっち投げて。」
「あ、はい。」
暫しの間を持って言われた渋沢の言葉に、一馬は我に返ったように赤みを帯びた箇所から目を離し、テーブルに置いていた薬を渋沢へと放った。
小瓶は綺麗な放物線を描いて、大きな渋沢の手におさまった。
渋沢は自分の脇の床に置いているのだろう、一馬からは見えない位置にあるらしき救急箱に其れを戻しているようだ。
カチャカチャと、瓶や容器のかち合う小さな音がした。
一馬はもう一度、赤く腫れた箇所に目を遣る。
日に焼けた肌とは違う、血のような鮮やかな赤。
明らかに常とは違うその毒々しい赤の上に、塗りきれていない軟膏の白い色が、微妙な痕を残していた。
「‥‥しかし、よく腫れてるな。」
思いもかけないほど近くから聞こえた声に、一馬は素早く顔をあげた。
見れば先ほどまでテーブル越しにあった筈の姿がない。
「っ、渋沢さん。」
「毒に弱いのかな、真田は。」
その言葉と一緒に、薄手のシャツの肩にかかるその人の息づかいに、一馬は思わず身を硬くする。
音も立てずに一馬のすぐ右隣りへと移動した渋沢が、其れを意識してやっているのかどうなのか、一馬には解らない。ただ己の肩や首筋に、その呼吸に合わせて伝わってくる空気の流れが、どこか気分を落ち着かなくさせていることだけは、確かだ。
「赤くなってて。痒いっていうより、痛そうにみえるな。可哀想に。」
「‥‥ッいや、痛くはないから‥‥っ、」
耳元で囁かれるような恋人の声に、一馬は反射的に身を引こうとしたものの、しかしその行為が意味するであろう様々なことをその次の瞬間に考えて、結局動けないままだった。
応えた言葉は、自分でも上擦ってしまったのが解り、真田は落ち着かないを通り越し、いたたまれない気分になる。
‥‥そう、別に、何をされているわけでもない、のに。なんで‥‥
チュ。
「‥‥‥‥ッ!!」
「おお、いい反応。」
ガバッと、今度こそ大きく身体を動かした。
床に座ったままの体勢で渋沢との距離を瞬時にあけた一馬のその反応に、渋沢は笑みを‥‥無邪気とは遠くかけ離れた笑みを浮かべてそんなことを言った。
頬を押さえた一馬。指先から、先ほど塗った薬品の匂いが鼻を掠める。
「‥‥ッ、いきなり何すんだっ!」
その言葉に、渋沢が堪えきれないといった風にクツクツと笑った。
その様に一馬がさらに何かを言い募ろうとしたとき。
「もう痒いの、治まっただろう?」
「‥‥あ、え?」
気勢をそがれた形になった一馬は、言葉になっていない声を返す。‥‥それから、渋沢の言葉どおりになっていることに気がつく。
渋沢は笑っていた。先ほどとは少し違う、恋人仕様の優しい笑み。そして、言を継ぐ。
「痒いのとか、痛いのとか。そういう感覚を一番手っ取り早く消す方法は、別の強い感覚で其れを打ち消してしまうことらしいよ。‥‥気を逸らすって言葉と、同じ。感覚を逸らす。」
「‥‥‥‥‥‥。」
まぁ薬が効くまでのつなぎだけれど。
渋沢は肩をすくめながら、穏やかな声で言葉を紡いだ。
それから、そっと動く。
「すまんな。驚かせた?」
離れた一馬の身体を柔らかく抱き込んでから、先程よりも近い距離での、笑みを含んだ囁き声。
肩を包むように廻された腕から伝わる体温。
首筋と、耳に当たるその息遣いに、一馬は小さな声で、別に、と答えたけれど、きっと耳まで赤くなっていることは知られてるんだろうと思うと、ちょっとだけ腹も立とうと云うもので。
一馬は一度きゅっと目を閉じた後、顔をあげて。
「‥‥渋沢さん。」
「ん、何だ?」
「まだ、痒いんだけど。」
「え、」
「感覚を逸らすには、あれだけじゃ、足らない。」
意趣返しのその台詞に、驚いたように少しだけ小さい目を見開いた後でほんの少し赤みを増した恋人の頬に。
今度は一馬が、クスクスと笑う番だった。
その笑い声は、次の瞬間にはキスに呑まれていたけれど。
end.(07.27/2002)
「薬より効く?」
「薬のが効くに決まってる。」
「‥‥(苦笑)」
「けど、こっちのが気持ちいい。」
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