更紗
学生にとって一日の大半を過ごす『学校』という場所は、大変に重要な場所である。それを思えば、進学、というのはそれなりに重大で、重要なイベントだ。
真新しい制服、作ったばかりの定期券、専門分野の増えた授業内容、友人教師その他諸々の人間関係まで‥‥言ってみれば初モノづくし。
さらには入学式、オリエンテーション、クラブ紹介や生徒総会、その他挙げれば限がない式典や行事たちで、大概の新入生の日々は、息をつく暇も無いほど忙しいのだ。
「‥‥疲れてるな。」
「ちょっとだけ、ね。」
不意に増した右腕への重みに、渋沢はひょいと覗き込むように己の右サイドを見遣った。
ほわほわと揺れる濃茶色の猫っ毛頭が、肩より少し下辺り、右上腕部に凭せ掛けられている様子に、渋沢はほんの少しだけ目を細めて笑う。
そんな微笑につられたかのように、僅かな風が人の少ない公園と、そこに居る二人をなぶって吹き過ぎる。
4月の風はどこかぼんやりとしていて、それは隣りに座って自分に凭れかかっている恋人の様子に似ている感じがして、渋沢はやっぱりぼんやりと、不思議な感じがしたものだった。
この春、渋沢と椎名は高校へ進学した。
と言っても渋沢の場合は、武蔵森学園高等部への持ち上がり進学、というやつで、近隣の高校に進学した椎名が味わっているような、本当の意味での新入生生活は、送れていなかったりするのだが。
「電車通学って面倒。立ってるだけで消耗する。」
「毎日だからなぁ。」
学生にもフレックス通学とかあればいいのに、などと小さな声で話す椎名に、渋沢はクスクスと笑った。
望めばどんな難関校だろうが有名進学校だろうが、楽にパスできるだけの学力の持ち主が選んだのは、家から近くてサッカー部のあるところならどこでもいいという、中学の教師を大変に嘆かせた選択方法で選んだ、最寄駅から3つ駅を行った場所にあるごく普通の公立高校。
駅3つ、というとかなり近いのだが、それでもやはり毎日混みあう電車に揺られるのは、知らず体力気力を消耗するものだ。椎名は決して人ごみが嫌いであるとか潔癖症というわけではないのだが、あの身動き取れないほどの電車通学には、入学2週間足らずの間に、すっかり嫌になっていた。
だから、今日渋沢にデートの話を持ちかけられたときも、「あまり人に会わないところがいい。」という注文をつけ、その言葉に察しが良いようでいて実は結構にニブい渋沢が非常にめずらしくも(‥‥酷い言われようである)正確に、その注文の意図するところを汲み取った結果のデート場所が、此処、椎名の家から程近い場所にある、緑地公園であった。
遊具があるわけでもなく、かといってものすごく綺麗な風景が楽しめるというわけでもないその公園は、天気の良い休日だというのに、渋沢が椎名をここに連れてきてベンチに腰掛けて以来視界を過ぎったものといえば、犬とか猫とか猫とか犬とか。‥‥要するに人がいなかった。
あまり使われていないだろうベンチに二人腰掛けて、ぼんやり、のんびり。
「新しい環境ってのは、楽しいけどね。」
「楽しいのと、疲れるとは、別だからな。」
「そういう事。」
ハァ、と深い息をついた椎名に、渋沢はほんの少しだけ、心配顔になる。
椎名はあまり、スタミナがあるほうではない。
それはもちろん、サッカー選手として日々鍛えているのだから、ほっそりと華奢な外見どおりというわけではないのだが、そうは言ってもやはり、小柄な身体にはそれに見合っただけの体力しかなくて。
新しい環境は、知らず知らずのうちに気力体力を消耗させるものだ。
それが例え、どんなに強い人だろうとも。
何処に行きたい?とデートの約束を取り付ける電話をした自分に、「あまり人に会わないところ」と言った椎名は、予想以上に、新しい環境に参っているのではないだろうか、と渋沢は思った。
渋沢は、凭れかかっている恋人の頭を暫し眺め遣ったあと、そっと上体を動かし、その動きに気づいた椎名が顔をあげる前に、細い身体ごと膝に抱き上げるようにして、抱き寄せた。
「‥‥何してんの。」
「あー‥‥っと、膝まくら?」
「なんか違うだろそれ。膝まくらってのは、こう‥‥。」
「じゃぁ抱き枕。」
「‥‥俺がかよ。」
黙っていたかと思えば、急に抱きついてきた渋沢に、椎名は呆れた声でそう言ったものの、無理にその腕から逃れようとはしなかった。
どこまでも優しく、包み込んでくる腕はあたたかくて、気持ちが良くて。
目を閉じたら、渋沢のにおい。それは不思議な程に椎名を落ち着かせるもので。
‥‥心が安らぐ、身体が安らぐ。
それは馴染んだ、「いつも」の感覚。
「‥‥うん。いい感じ。」
小さく呟かれた声に、渋沢はほんの少しだけ腕に力をこめる。
「俺は、変わらないから。」
「うん。」
「いつだって。」
「ああ。」
「ずっと変わらず、翼の傍に居るよ。」
「‥‥‥‥バーッカ。」
‥‥けれど。
「サンキュ。」
それから。
「大好き。」
苦笑を含んだ言葉のあとに、少し背伸びした椎名が渋沢の耳に流し込んだ感謝の言葉と、もうひとつの言葉は、通りがかった犬とか猫とかの耳には聴こえないくらい小さかったけれど、そのセリフにサッと頬を赤くした渋沢の心には届いたらしい。
新しい環境、慣れない環境。楽しいけれど疲れる環境。
けれど安心して。
新しいものに囲まれて、疲れたキミの傍にはずっと、変わらない自分が居るから。
ぼんやりした4月の風と一緒に、変わらぬ愛でキミを和ませるから。
‥‥ね?
end.(04.18/2002)