誰もが自分の居場所を、探している。
ピ、ピーッと、長く澄んだ笛の音が、同じくらい澄んだ蒼天に溶けていく。
耳に馴染んだそれに、熱く張り詰めていたフィールドの空気が、ふわりと緩んだ。
渋沢は身体から力を抜き、ふ、と小さく息を漏らした。
それは満ち足りた感嘆でもあり、この、慣れ親しんだ戦いの場所から降りることを、惜しむかのようでもあり。
視線を廻らせれば、満ち足りた表情のチームメイト達。肩を叩き合ったり、笑いあったり。
試合直後だというのに、フィールドを軽やかに駆け回って喜んでいるのは、藤代だろうか。
ゆっくりと歩いている三上に、チャージ同然の勢いで抱きついて鬱陶しがられている。それもまた、見慣れた光景で。
少しだけ笑った。
頬を伝う汗を片腕で無造作に拭って、空を見上げる。
白いゴールポストの向こう側に、深く澄んだ、青い空。
それは見慣れた、風景。
生涯、この場所に立っていたいと、思った。
四方からかけられる挨拶に、軽い笑みとともに応えながら渋沢は帰り支度をする。
試合後恒例の監督からの説教も終わり、コーチと今後の簡単な打ち合わせを終えて。
試合後に行う反省会も兼ねたミーティングは、連戦続きの選手達の休養を優先、ということで、明後日の午前へと繰り越されたことを告げると、そのまま現地解散となった。
お疲れ様でしたー、とかお先に失礼します、という声に律儀に返事をしつつ、丁寧にユニフォームを折りたたみ、シューズの手入れをする。
ユニフォームは土で汚れ、汗を吸ってずっしりと重くさえ感じた。
その重みは、今の渋沢の中を満たす充足感と同等だ。
使い込んだグローブもまた土に汚れ、試合前にはなかった傷が、無数に刻まれていた。
強い、相手だった。
トーナメントも終盤を迎え、さすがに容易く勝てる相手ばかりではなくなった。
ゴールを割られそうな窮地に幾度も陥った。
ボールに込められた気迫。全身全霊をかけての、必勝の気合。
サッカーは格闘技だと言うけれど。
それはフィジカルだけでなく、メンタル‥‥精神の、戦いでもあると思う。
怯えたら、負け。呑まれたら、最後。
狂おしく張り詰めた、それでいて頭の中が隅々まで澄み渡るような、空気。
フィールドでしか味わえない、あの高揚。
キュ、と小さな皮の擦れる音に我に返った。
無意識のうちに、グローブを強く握り締めていたらしい。
小さく笑って腕の力を緩める。くたりと力なくそこにあるグローブを、丁寧に拭いてから鞄にしまった。
最後に簡単に身だしなみを整え、鞄を肩に立ち上がると、何時の間にか控え室は、人少なになっていた。
ベンチに座って談笑している数人に、お先に、と軽い声をかけると、軽快な応えが戻ってくる。
その中には、普段はあまり砕けた物言いはしない辰巳などもいて、渋沢はなんとなく笑みを深める。
なんだかんだと言っても、勝ち試合だ。気分が高揚しても仕方がない。
パタンと扉を閉める音に、陽気な笑い声が混じった。
「よぉ。」
「ん?三上か。お疲れ。」
「ん。」
ドアを閉めた、その対角線上にあたる壁から声が掛けられた。
ジャージの裾をまくって、それでも尚暑いのか手団扇でハタハタと扇いでいる、三上がそこに背を預けて立っていた。
足元には三上のものと並んで、鞄がもう一つ置かれている。
「藤代か?」
「ん、今ジュース買いに行かしてんだよ。」
「‥‥‥賭けか?」
「『ハット取れるか取れないか』勝負。今日は2点止まりだったから、アイツの負け。」
「またお前等は‥‥」
怒んなよ、とカラリとした声で言うその顔は、常のシニカルなものとは違った、穏やかな笑みを浮かべている。
三上のその笑みに怒るに怒れず(まぁそもそも怒る気もなかったが)、渋沢はほどほどにしとけよ、なんてよく判らない言葉を返した。
言葉が途切れる。
「‥‥勝ったな。」
「ああ、」
「次も。」
「もちろん。」
言葉少なに交わされる、低い小さな声。
でも、それで充分。
ゴツ、と拳を軽く合わせて、視線を交わす。
‥‥‥‥次も、勝つ。
あの、満ち足りた場所で。
「あーッ!!キャープテーンッvv」
「‥‥ッと!」
ガシィッ!!と、背後から思い切り抱きつかれ、さしもの渋沢も体勢を崩した。‥‥が、倒れるには至らず、数歩たたらを踏んだに留まる。
「えへへ、キャプテンッお疲れッす!!」
「‥‥お疲れ。あのな藤代、いきなり抱きつくな、危ないだろう。」
「え〜?でもホラ、キャプテンてなんか抱きつきたくなるんですよね〜‥‥‥‥ッて、イタタタッ痛いデスッ!!先輩!!」
ぎゅぅ。と尚も渋沢に抱きついてくる藤代を引き剥がしたのは、三上だった。‥‥彼が、上手く藤代の抱きつき攻撃から身をかわしたのは、渋沢藤代、両名とも気づかなかったらしい。
藤代の後ろ襟首をひっ掴んでべりべりッとばかりに引き離す。
「俺の前でイチャつくな、鬱陶しい。」
「イチャついてなんかないですぅ〜。あ、三上先輩ってばジェラシ〜?ヤだなぁ、言ってくれればいくらだって抱き締め‥‥」
「いっぺん死んでくるか?ぁあ?」
陽気な藤代に、氷より冷たい三上の返事。
いつもどおりの日常風景。
その光景に、渋沢は声をたてて笑った。
今日はなんだか良く笑っている気がする。
(やっぱり自分でも気分が高揚しているのか?)
「‥‥‥ッたく。オラ、帰るぞ。荷物持て。」
「はぁい♪あ、キャプテンも一緒に‥‥」
「ソイツは駄目。」
「え?なんでッスか??」
「ウルサイ、とにかく駄目。‥‥じゃな。」
「‥‥‥‥?あ、ああ。また、後で。」
きょとんとした渋沢を置いて、半ば強引に藤代を引き摺って、三上は歩き出した。
(別に、一緒に帰っても良かったのに、)
何故駄目なんだろう?何だ、三上の気に障るようなことでもしたかな、と渋沢が悩んでいる‥‥ワリには呑気な思考を廻らせていると。
「渋沢。」
「‥‥三上?」
「プレゼント。」
「え?」
何時の間にか、すぐそばまで来ていた三上が、ニヤリと笑って何かを放った。
条件反射的にそれをキャッチする。
ヒンヤリとしたそれは、
「あーッ、俺が買ってきたジュース!」
「‥‥紅茶?」
それは、ごくありふれた缶入り紅茶。
「プレゼント、って‥‥」
「誕生日だろ、今日。」
「‥‥‥‥覚えてたのか?」
「ええッキャプテン今日誕生日なんスかーッ?!」
めずらしい、驚きを露わにした渋沢の声に、三上はもう一度、彼らしいシニカルな笑みを浮かべた。
すぐにウルサイとか何とか言って、藤代の頭を殴っていたけど。
渋沢は、ああ、うんとか、適当な相づちを藤代に返す。
‥‥まさか、覚えてるとは思ってなかった。このルームメイトが。
(‥‥あ、でも良く考えたら、去年もこうやってなんか貰ったような気がするな‥‥。)
なんだったか、やっぱり食べ物だった気がする。
それで、やっぱり三上はそっけなくて。
「‥‥ンだよ、紅茶じゃ気に入らないか?」
「‥‥えッ、いやそんなことないよ。‥‥ありがとう、三上。」
渋沢の言葉には、お礼は三倍返しな〜、なんて三上の声が返ってきた。
その横で、藤代は聞いてないっすよ、そんなのーッ!と叫んでいた。
「も〜キャプテンってば、なんで早く教えてくれないんですか?!」
「いや、別に言いふらすような事じゃないし‥‥。」
詰め寄ってくる藤代に宥めるような笑顔を浮かべて、渋沢が言う。
自分の誕生日を言いふらすというのも、なんだか妙な話だし、なんとなく気恥ずかしくもあったし。
そんな、深く気にも留めていなかったので、藤代のふくれっ面にも、なんだか不思議なような嬉しいような、どこかくすぐったい気分になる。
一頻り文句をぶつけた藤代は、今度は一転してニッコリ笑うと、おめでとうございマス!!と元気な声で祝辞を述べた。
「キャプテンキャプテンッ!!じゃぁ寮に帰ったら何かお祝いしましょうよ!!」
「え、いや藤代、そんなことしてくれなくても‥‥」
「な〜に言ってるんスかキャプテン!!折角の誕生日ですよ?!年に一回しかないんですから!!こう、パーッとね!!」
「オマエ、単に自分が騒ぎてェだけだろッ。」
「あちゃ〜、バレました?」
三上のツッコミにも悪びれず、カラリと笑って言う藤代に、渋沢はクスクスと笑う。
じゃぁな、と今度こそ言って歩いていこうとする三上に、渋沢はもう一度、ありがとうと伝えた。
「紅茶一本にそんな礼言ってんじゃねぇよ。」
「そうか?でもやっぱり、うれしいし。」
そう、大真面目にいう親友に、呆れたような顔をした三上だったが。
ふと、何か悪戯を思いついたかのような顔で、じゃ、も一つプレゼントな。と言うと、すいと身を寄せて。
「‥‥アイツ。門の横に、居るぜ。」
行けば?
擦れ違いざま、小さな声でたった一言。
それで充分。
渋沢が振り返ったときには、三上はもう随分むこうを歩いていて。内緒話ですか?なんて藤代の言葉に鬱陶しそうに蹴りをかましていた。
キャプテン、また後で〜♪と陽気な藤代の声が耳をうつ。
「ありがとう、三上。」
そう、呟いたけど、きっと三上には聞こえなかっただろう。
聞こえたところで、いつものシニカルな笑みが返ってきただけだろうけど。
「‥‥‥‥次も、勝つさ。」
サッカーは格闘技。フィジカル同様、メンタルも。
『怯えたら、負け。呑まれたら、最後』
‥‥でも。
俺は負けないよ。
お前らが、居るからね。
優しい親友、楽しい後輩。心強い、俺のチームメイト。
あの場所に、お前達と居る限り。
俺は、負けない。
あの場所が、俺の居場所だから。
ココロ優しい、ルームメイト兼親友兼、チームメイトに、ヒソリと宣言してみた。
かさばる荷物を宥めながら、渋沢は走って会場を出る。
『門の横に、居るぜ』
「‥‥‥‥‥‥居たよ‥‥。」
なんとなく、呟いてみたり(いや、別に三上を疑っていたワケではないのだが)。
すると、まるでその声が聞こえたかのように、その人物が振り返った。
密やかな、それでいてどこか人を惹きつけるその容貌。
黒い澄んだ目と、同じくらい澄んだ、真っ直ぐな視線。
「渋沢。」
「‥‥‥‥不破くん、来てくれてたんだ‥‥。」
こくりと頷くその姿が、なんだかとても愛らしく感じて、ひどく落ち着かない気分になる。
今日、会えると思ってなかったし。
此れと言った約束もしてなかったから。
‥‥ココロの奥が、くすぐったい。
「渋沢?疲れているのか?」
「‥‥ッえ、い、いやッそんなことないよ?!」
「‥‥そうか?」
いつの間にか距離を詰めていた不破が、すぐそばから‥‥というか、鼻先スレスレの距離からそんなことを言ってきた。
ぼんやりしている間に、傍まできてくれていたらしい。
「呼びかけても返事がないから。やはり疲れているのか。‥‥む、顔も少し赤いぞ?」
「いや、そうじゃなくって‥‥ゴメン、ホントぼんやりしていただけだから‥‥」
そう言うと、そうか、とあっさり身を引く不破。それを名残惜しいと思ってしまった渋沢は、己の思考にもう一度、顔を赤らめた。
「ふむ。では、送っていこう。」
「ああ、うん‥‥。」
スタスタと歩き出した不破に、渋沢がついて歩き出す。
横、というより、少し後ろの位置をキープして歩く。ほわほわと揺れる黒髪が、とても可愛いから。
ちなみに、今日の試合会場は、武蔵森に程近い場所にあった。
歩いて、およそ30分。バスもあるけれど、なんとなく二人は歩いて帰ることにした。
晴れ渡っていた、抜けるような青空は、今はすこし赤みをまして、夕刻前の、不思議な色をしている。
人通りの少ない、住宅街の中を突っ切る道を選んで、二人はゆっくりと歩いていく。
遠くに聞こえる、蝉の声。
温い風が、頬を掠めて、斜め前の黒髪を揺らした。
「‥‥どうした?」
気が付いたら、触っていた。綺麗な黒髪。さらさらしていて、気持ちよい。
「や、うん‥‥。なんとなく。」
「そうか。」
立ち止まって見上げてくる視線に、そんな答えになっていない応えをかえす。
不破はというと、めずらしくもそんな曖昧な答えにこれといった反論を唱えるでもなく、大人しく渋沢の手に撫でられていた。
「お前の手は、気持ちいい。」
「‥‥そう?」
「そうだ。」
さらさらの髪に、頬に手を滑らせる。
反射的に閉じられた不破の瞳に、その睫が落とす影に誘われるように、掠めるだけのキスをした。
柔らかな、かわいた感触。
「‥‥渋沢?」
「‥‥‥‥ひんやりしてて、気持ちいいんだ。」
「そうか。」
その、そっけない応えに小さく笑って、あまり日に焼けていない、白い手を取った。
「帰ろっか。」
「ああ。」
手を繋いで歩く。もともとの体温が低いのだろう、ひんやりとした手が、ひどく気持ちが良かった。
ゆっくりゆっくり、今度は並んで歩く。
時折言葉を交わして。
「勝ったな。」
「ああ。次も、勝つよ。」
どこかの家から、子供の笑い声が聞こえた。
「夏休み、どこか行くの?」
「いや、特には。」
「じゃぁ、俺と遊びに行こうか。」
「楽しみにしている。」
カナカナカナと、蜩の声が夏の空気を揺らしている。
遠くで、電車の通過する音。
「そういえば、今日なんで来たの?」
「来てはいけなかったのか?」
「そうじゃないよ。」
「三上が、来いと。電話があった。今日、絶対来いと。」
「‥‥‥‥そうなんだ。」
白い、ひんやりとした手が茜色に染まって。
もう直ぐで、武蔵森の寮区につく。
「今日、誕生日なんだ。」
「そうか。」
直ぐ隣りから、そっけない返事。
なんとなくそう応えるような気がしていたので、あまりにもそのままの返事に、小さく笑った。
その声に誘われたように、すいと向けられる視線。
「何を笑う?」
「うん?不破君だなぁとおもってさ。」
「?」
眉を寄せて、まっすぐに渋沢を見ているその視線が、ひどく愛しい。
「誕生日なんだ。」
「それは、さっき聞いた。」
「君といられて、良かった。」
今日が誕生日だと言う事は、教えてなかった。
別段、気にとめていなかったのだ。
誕生日だからといって、何が特別、というわけでもないし。
そう、思っていた。
でも、今は。
すぐそばに、君の体温を感じる場所に立って。
ひんやりとした手を繋いで、視線を交わして。
「君の隣りに立っていられて、よかった。」
白いゴールポストから見上げる、澄み渡った蒼天のもと。
四肢の隅々までクリアになる、あの戦いのフィールドに、生涯立って居たいと思う。
そして、それと同じくらい、
ひんやりと、そっけない君のそばに、君の隣りに一生涯、立っていたいと、願っている。
だって、其処が俺の、居場所だから。
そう言ったら、君はまたそっけない口調で、相づちをうつのだろう。
「そうか。‥‥‥‥‥‥渋沢、」
「え、」
(‥‥‥‥え?)
渋沢の視界が、一瞬ぼやけた。
目の端に捉えたのは、やっぱり長くて綺麗な、不破の睫。
白い、綺麗な肌の色。
口唇を掠める、柔らかで、かわいた感触。
目を見張った。
何かを思うよりも、首に回されたひんやりと白い腕と、澄んだ声に心を奪われたので。
「‥‥‥‥誕生日、おめでとう。俺も、お前の傍にいられて、良かったと思っている。」
君の隣りが、俺の居場所。そう、それはきっと、一生涯。
Happy,happy birthday.
end.(2001.7/29)