その「時」を、じっと待ってるから。
カスタネア
視界から消えた黒髪に、渋沢は数瞬遅れて立ち止まった。
振り返ると、ほんの少しだけ低い位置に、見慣れた黒髪。
先程まで自分の隣りで歩くたびほわほわと揺れていた髪は、その持ち主の足と一緒に、静かに止まっている。
僅かにふいていた秋の風も、あたかも彼につられたかのように静かに。
そして、その視線も、ある一点に定められ、止まっていた。
「不破くん?」
「‥‥‥‥ああ、渋沢。」
訝しげになってしまった渋沢の声に、物思いから覚めたような不破の声と、視線が返された。
ぱちぱちと瞬きをして自分を見返してくる表情が、普段の彼よりも幾分幼く感じられて、渋沢はほんの少しだけ口元に笑みを刷く。
そして、自分より少し後ろで立ち止まった不破の傍へと、ゆっくりと歩み寄った。
不破大地、という少年にとって、この世界は不思議に満ちているらしい。
見るもの聞くもの、ありとあらゆる全ての事が、彼の興味を引き、一瞬にして彼の思考を内側へと向かせてしまう。
それは、こうして自分‥‥渋沢と行動を共にしていても変わることはないらしく。
「なにか、見つけたの?」
渋沢は歩み寄る自分を見ている不破に、優しい声で問い質す。
咎めるつもりはない。‥‥確かに、自分が隣りに居るときくらい、自分だけの事を考えていて欲しいと思う事もあるけれど。
周りを無視して己の思考に嵌まり込むその姿は、ともすれば身勝手で傲慢な態度なのだが、それは、それ。
(そういうところも好きなんだよな。)
蓼食う虫もなんとやら、を地でいく自分の思考に内心で苦笑したが、それは面に出すことなく立ち止まったままの不破の正面に立った。
きょとんとした目で自分を見上げてくる不破に、目線だけで答えを促す。すると、不破はスイと目線を逸らし、斜め前方、渋沢の後方へと視線を流した。
つられて渋沢もそちらを見る。
「栗の木だ。」
「‥‥‥ああ、本当だ。」
其処には、まだ幾分若い、栗の木が植わっていた。どうして栗の木と判ったかと言えば、別に彼らが植物に詳しかったわけではなく、単純にその根元に、毬(いが)を纏った栗が落ちていたからである。
「めずらしいね、こんなところに。」
不破はその渋沢の台詞に答えるでもなく、渋沢の横をすり抜け、その根元に歩み寄った。渋沢もその後を追う。
栗の木が植わっているのは、細い路地の脇である。おそらく私道か、寺社に続く道なのだろう、未舗装の路地は、街中のアスファルトにうたれた道路とは何処か異質な、不思議な印象を渋沢に与えた。
「めずらしいね。」
「そうだな。」
繰り返えされた同じ台詞に、今度は答えが返って来た。
「食べられるのかな?」
「どうだろう。」
ザリ、と足元の剥き出しの土が、アスファルトとは違う重い音をたてた。
暫らく二人はそうして栗の木を眺めていたのだが、不意に不破はその場に座り込むと、落ちていた栗の一つを拾おうとして‥‥顔を顰めた。
「‥‥‥‥痛い。」
「不破君てば‥‥。」
渋沢は苦笑しながら声を掛ける。見上げてくる、拗ねたような、幾分恨みがましげな視線が可愛くて、渋沢はクツクツと声を立てて笑ってしまった。
「毬栗を素手で拾うのは、そりゃ痛いと思うよ?」
「むぅ‥‥。」
座り込んで口を尖らせる様は、普段の何処か超然とした不破とは違う、歳相応の可愛らしさを備えていて、渋沢は内から沸き起こる感情を押さえるのに、少々苦労する。
手を伸ばせば届く距離だけど。
(まだ、だ。)
渋沢は、座り込む不破の横に、同じ様に座り込んだ。
先程不破が手を伸ばしてすぐ引いた、褐色の実を見遣る。
まだ爆ぜていないそれは、固く鎧をまとって静かに其処に在った。
渋沢は手を伸ばし、触れる寸前で指を止める。
隣りに視線を滑らせると、其処には真剣な表情で己の指先を凝視している、不破の姿。
「‥‥‥‥コツがね、あるんだよ。」
視線は不破に固定したまま、渋沢はゆるゆると手を動かした。
不破の視線は、渋沢の手のひら。
押し包むようにされた手のひらを渋沢がそっとひろげると、中には褐色の毬栗がコロリと転がっていた。
不破は瞬きを繰り返しながら、渋沢の手のひらの中を見る。
先程自分の指先に痛みを走らせた其れは、渋沢の手を傷付けることなく、そこに静かに収まっていた。
「‥‥痛くないのか?」
「痛くないよ。」
ふむ。とコトリと首を傾げて言う不破に、渋沢は密やかな声で、同じ台詞を繰り返し、告げる。
「コツが、あるんだよ。」
柔らかな声に、不破は目を上げる。
柔らかな視線に、‥‥不破は言葉を奪われた。
「毬をね、纏った栗は、指先で触っては駄目だよ。そっと、包むように、手のひら全体で持ち上げるんだ。」
優しく、優しく。ゆっくりと。傷つけないように。ね。
‥‥‥傷つかないように、ね。
誰が?
「もう帰ろうか、不破くん。」
「‥‥ああ。」
二人はゆっくりと立ち上がった。
先程よりも冷たさを幾分か増した秋風が、二人の頬をかすめていく。
並び歩き出しかけて、渋沢がふと足を止めた。
「渋沢?」
「‥‥忘れるところだった。」
そういうと渋沢は屈みこみ、手のひらの毬栗を、そっと元の地面に戻す。
コロリと転がりでた栗は、コロコロとその親の下まで転がり、根元にこつりとあたって止まった。
パンパン、と手のひらをはたくようにして腰を伸ばした渋沢に、何となくと言った調子で不破が言った。
「いいのか?」
「いいんだよ。」
「そうか。」
目的語の省かれた質問と応え。
「まだ、時間が足りないからね。」
「うむ。まだ食べられそうではなかったな。」
「そうだね。まだ、だね。」
手を伸ばせば届く距離で交わされる会話は。
それは十分に通じていたけれど、双方の言葉に込められた想いは、幾分異なっていた、かもしれない。
優しく、ゆっくりと。
傷つかないように。
傷つけないように。
その「時」を、俺は待っているから。
できるだけ早く、気がついてね?