‥‥の、だが。
「不破くん。『其れ』、そんなに、気に入ってくれたんだ?」
「ああ。」
妙に言葉を切る口調の渋沢の言葉に、返されたのはそっけない相づちがひとつ。
そっけないといっても淡々とした不破の声音はいつものことで、短い言葉もいつものこと。それを愛しく感じることこそあれ、不満に思うことなどこれまでもこれからもない、と渋沢は心のうちで言い切る。
否、言い切ろうとした。
「渋沢、このビデオは今から観てもいいのか?お前はもう何度も観ているのだろうし、貸してくれるのなら後で独りで見るが。」
「ああ、いや、せっかくだし一緒に観よう。このチームのキーパーは面白い動きをするんだ、とくにこの試合は。解説してあげるよ。」
傍からかけられた不破の声に、渋沢は思考をデジタル処理の如く見事なまでに瞬時中断する。
目の前にいる恋人を放ってまで考えなければならないことなど、彼には存在しない。
よどみなくその声に応え、ニコリと微笑を添えて返せば、そうかと小さく呟いて、本日の渋沢からの手土産である某サッカーチームの試合が納められたビデオを手に、ビデオデッキにいざり寄る不破の後姿を捉えることが出来た。
‥‥少し赤くなった耳が、とても愛しい。
可愛いなぁ、とつくづく思う。
170センチも越えた同性相手に可愛いも何もないだろう、とは自分でさえも思うのだが、可愛いものは仕方がない。
そっけない口調や突拍子もない思考回路、強い意志を秘めた視線、思いの外素直な仕草まで、何から何まで可愛く、愛しい。彼の喜ぶことをしてあげたいと思うし、嬉しそうにする姿を見ていたいとも思うのだ。
未だサッカーに関しては初心者といっていい時期の不破の為に、寮や実家に撮りためている過去のめぼしい試合のビデオを片手に不破家を訪ねるのも、そんな想いの一環だ。
手渡したビデオを大事そうに受け取って、少し首を傾げた後で、ありがとう、と淡々とした口調で言われる、この幸せときたら他の何物にも変えがたい幸福だ、と渋沢は心の底から思っている。
そっと撫ぜれば思いのほかふわふわとした髪、綺麗な肌。幾度かの突き指を経て少しずつGKの其れに作られていく、手。たまに触れることの出来る、くちびるだとか。
愛しくて、傍にいることの出来る幸せをこれでもかと噛み締める渋沢の隣りに、ビデオをセットし終えたのだろう不破が綺麗な足取りで寄ってきた。‥‥その腕にビデオのリモコンと、『其れ』を抱えて。
隣に座ったら抱き寄せようなどと思っていた渋沢の腕が、中途半端な位置で動きを止めた。
「‥‥‥‥不破くん、」
「何だ渋沢?」
ああ神様、不破くんは本当に可愛いです。少し首をかしげて顎の下から覗き込んでくるアングルは最高です。‥‥それに、
「本当にそのクッション、気に入ったんだね‥‥。」
オーシャンブルーの大きなクッションを胸に抱きしめるようにして胡坐をかく不破は、渋沢のそんな言葉にああ、と先ほどと全く同じ言葉を即答したのだった。
贈ったものを喜んでもらえるというのは、贈り主にとって一番のご褒美だ。
これは本当。
気に入ってくれて、大事にされて。別に下心や見返りを求めてプレゼントするわけではないけれど、何気ない瞬間に、其れが大事にされていると感じるのは、とてもとても嬉しくて誇らしい気分にさせられる。
これもまた、本当。
だがしかし。
「心が狭いんだろうか、俺‥‥。」
呟いた言葉は外付けスピーカーから綺麗な音で再生される歓声にかき消された。
己の肩にかるく触れる位置で座る恋人を、渋沢はそっと見遣る。
プラズマテレビの綺麗な映像に集中しきっている姿は恋人としてだけでなく、サッカーを愛する者としても、とても好もしい姿だ。
画面の中は前半終了前のロスタイム、一点を追う形のチームがゴール前での大事な局面を迎えているところである。
「セットプレーか‥‥。」
「ここ、この21番と6番の動きに注意して。ゴール前では個々のマークを良く確認して指示を出すこと、これは俺たちの仕事だから。」
「ああ。」
唸るような歓声、軽くボールに額を当て瞑目した後、慎重な動作でボールをセットする選手。微動だにせずホイッスルを待つその姿は、画面も時間さえも越えてテレビの前の自分達にその緊張と気迫を伝えてくる。
何度も観たシーンにも関わらず、渋沢の身体にもほんの僅かに緊張が走った。
そして、それは不破も同じだったと見えて。
シャリ。
軽い、涼やかな音がその胸元から零れた。
クッションの中に入れられた微粒子のパウダービーズが鳴いた音だ。
別段渋沢は、そのクッションに特別なこだわりを持ってプレゼントしたわけではなかった。同室の三上がパソコンで遊んでいる間、膝や腰に添えているのを見ていて、そういえば不破も同じようにパソコンをよくしているっけなんて、そんなぼんやりとした思いだった。
‥‥けれど、それと同時に目の冴えるようなオーシャンブルーが、モノトーンで統一された不破の部屋に、渋沢という人間がいた証のように置かれることを。
その痕跡を彼の部屋に残すことができればと、ほんの少しだけ、思ったことは事実。
「‥‥渋沢?」
「うん、何?」
不破の呼び声に音を立てて渋沢の思考が切り替わる。
ゆったりとした普段どおりの動作で隣に座る不破を見遣れば、此方を覗き込む視線とかちあった。ほんの少しだけ、心臓の音が増す。
「‥‥何?」
努めて普段どおりの、やわらかい声を出そうとした。それはほぼ成功して、此方に向けられていたいつだって強い視線はふわりと解けて、前半終了した、と短い言葉が代わりに寄越された。
みれば、確かにロッカールームに引き上げていく選手たちの姿が映し出されている。たしかこの後は後半が始まるまで、某国の代表チーム監督を招いての解説が挿まれていたはずだ。興味深くはあるがさほど実のある話とも言えない其れは早送りでとばしてもいいが、リモコンを取る様子は不破にはないようだった。
一緒に観ればいいか、と渋沢は再び不破へと言葉を向ける。
「どうだった、なかなかだろう?このチームはディフェンダーの対応が巧く噛みあった試合では負けなしなんだ。」
「そうだな、特に前半36分のカウンターの対応が興味深い。中央へ絞る場合の‥‥」
真剣に検討する不破に、渋沢も真剣に応じる。
まだまだ経験値の足りない不破を補うことも、渋沢にとって大きな喜びであった。サッカー談義はいつ誰としても楽しいが、こうして不破と語り合う楽しさはそれら全てと別格だ。
「‥‥から、視界を広く保つことは常に意識しないと。認識できる幅を意識的に増やしていくっていう、これも訓練次第だからね。」
「そうだな、たしか先日購入した理論書にもそのようなトレーニング方法が記載されていたぞ。‥‥けれど、実際に実践している渋沢の話は、それの倍ほどにも参考になる。」
「はは、どういたしまして。」
率直過ぎるほどのその言葉に、渋沢は照れ笑いというのが最も近い笑い声をあげた。それにつられたのか、不破も口の端で小さく微笑む。
恬淡とした表情の多い不破がときに見せるやわらかな感情は、渋沢を捕らえて話さない。
「‥‥ね、不破くん、」
「‥‥‥‥ん」
そっと名前を呼びながら顔を寄せれば、素直に瞼が下ろされる。
触れるだけの軽いキスを幾度も繰り返して、息を継ぐその瞬間にするりと舌をもぐりこませた。
歯並びを確かめるように舌を滑らせて、触れた舌先で甘やかな攻防を。口の端から零れる息が唇を掠めて心地よかった。引き込むように己の口腔内に導いた不破の舌を歯先でさわりと撫で上げれば、不破の身体が震えるのが判った。
と、同時にその手元で軽やかな音も。
「‥‥ええと、不破くん、」
「な、んだ?」
そうして暫く楽しんだキスを軽く唇を食んで終了させたあと、渋沢は暫しの逡巡後、口を開いた。
「その、クッション。‥‥離さない?」
「む、何故だ。」
「いや、何故と言われると、まぁ‥‥何でなんだろうねとかいうそんな感じなんだけど‥‥?」
とんでもなく歯切れの悪いそんな渋沢の言葉を、未だキスの距離を保ったまま不破は無言で眺めていた。そして、目の前の渋沢に気づかれないほどの、本当にごく僅かなため息を落とした後、すいとその身を引いて、曰く。
「このクッションは、やわらかくて気持ちが良い。」
「‥‥‥‥‥‥‥‥そうですか。」
それ以外にどんな言葉が残されているというのか、いやいない。
国語の教科書にでてきそうな反語表現が脳裏を過ぎって、渋沢はかくりと肩を落としたものだ。
不破が気持ちが良いと言うクッションの贈り主は、自分。
大事にしてくれる、その姿はとても愛しい。愛しいのだけれども。
(‥‥どうせ抱きつくなら俺にして、とか)
さて、そんな感じに妙に項垂れてしまった渋沢を、暫し繁々と眺めやっていた不破であったが、渋沢の視線は床に落とされていて此方を向いてはいない、其れを確かめると口元になんともいえない笑みを刷いた。‥‥強いて言うなら、呆れと恥じらいと、悪戯心をミックスしたかのような。
しかし一瞬でその笑みをそぎ落とすと、普段どおりの淡々とした口調で恋人の名前を呼び、
「渋沢。‥‥ちょっと、」
「え?って、え、不破?」
慌てる渋沢の声は完全無視で、不破はするりとその身を渋沢に預ける。
項垂れた首元に腕を回して、胸元に滑り込むようにして渋沢の上体を巧い具合に起こさせた。膝先で渋沢の脚を割り、膝立ちでいざるようにしてその間に身体を持っていくと、頭を胸元に抱きしめるようにして一度だけキュッと渋沢を抱きしめる。
「え、あのちょっと、」
突然の不破の行動に、渋沢はされるがままだ。
動かし方を忘れてしまったかのように投げ出されている腕に、不破は声を立てずに笑うと、渋沢がどんな行動をとるよりも早くくるりと身体を反転させて、渋沢の胸元に背を預ける形で座り込んだ。‥‥所謂、恋人座りだとか、人間座椅子だとか、そういう体勢である。
「不、破くん?」
「渋沢、後半が始まる。」
「え、」
顎先を逸らすようにして向けられた視線と声に、渋沢は半ば無意識に視線をテレビへとやる。確かにピッチ上にてプレイヤー達が円陣を組んでいるシーンが大きく映し出されていた。
‥‥いやいやいやていうかそれよりも、ね?
「不‥‥」
「あ、クッション。」
意識してだかしないでだか、不破は渋沢の言葉を悉く遮って言葉を紡いだ。
渋沢の胸元に座ったまま、不破はスイと手を伸ばすと、例のオーシャンブルーのクッションを引っ張り寄せて、抱きしめる。
シャリシャリと、涼やかな音。
同時にスピーカーからは後半開始を告げる、長いホイッスル。
「ねぇ、不破くん。」
「何だ。」
呼び声にはもう振り向かず、不破の視線はしっかりとテレビ画面に固定されている。それと同じくらいに、不破の腕は胸元に引き寄せたクッションを抱きしめていて。
「‥‥‥‥‥‥そのクッション、離さない?」
少し前に言った科白と全く同じ言葉を、胸元に寄り添う不破に、渋沢は繰り返した。 すると、テレビに固定されていた不破の視線が一瞬だけ渋沢に向けられて。
「気持ちがいい。好きなんだ。」
「‥‥‥‥‥‥‥‥そうですか。」
返されたその言葉に、渋沢は先刻と一言一句違わない言葉を返すしかなかった。
腕を回して、胸元の恋人を軽く抱き寄せて抱きしめて、その肩口に顔を埋める。
不破はそれを意に介した様子もなく、試合に集中しているように見えた。
肩越しに見遣ったその胸元には、オーシャンブルーのクッション。
(いいなぁクッション、いっそ俺と代われ!その場所を!!)
そんなことを思いながら、渋沢はスピーカーから届く歓声と、腕の中のぬくもりに身を沈めたのだった。
カシャン、と音を立てて表門が閉められる。
今日は両親祖父ともに帰宅しない事を脳内のスケジュールブックで確かめて、玄関扉にも丁寧に施錠を施した。
軽い足音を立てて階段を上り、先ほどまでとは違って静寂を保つ自室へと戻る。
自動巻き戻しされたビデオをDVDに落とすか否か暫し考えて、ふと見遣った先にあったクッションへと足を向けた。
何処にでも売っているような、ありふれたクッション。けれどその冴えた青はモノトーンの室内にあって、それは異質なまでに存在を主張していた。
『その、クッション。‥‥離さない?』
「誰が離すか。」
呟いた声は静かな室内にひそりと響く。
拾い上げた其れを、不破は静かに抱きしめた。‥‥やわらかくて気持ちが良い。
「まったくあれほど言っているというのに。案外、察しの悪いヤツだ。」
気持ちがいいクッション。抱きしめて、‥‥抱きしめられて。
「‥‥まぁ、アレは、やわらかくはない、が。」
そう、やわらかくはないけれど。
そっとまわされる腕も、触れてくる唇も、放たれる熱も、その匂いさえ。
「‥‥『気持ちがいい。好きなんだ。』」
ひそりと呟かれた言葉は、彼の人へは届くことはなく。
抱きしめたクッションが、シャリと代わりに軽やかな声を返したのだった。