階段を使いながら手元の勤務表で今日の座学の担当単元を確かめていると、斜め上から声が降ってきた。

「渋沢くん、わき見運転は事故のもと。道路交通法第4章第1節第70条、安全運転の義務、及び同71条 運転者の遵守事項違反だな」
「罰則は?」
「第119条第1項第9号、同条第2項‥‥と言いたいところだけど、特例事項として先輩に対し煙草1本の譲渡、でどうだ?」

上階の階段踊り場から声を掛けてきた、なんとも人を食った物言いの先輩教官に対し、渋沢は笑いながら階段を上りきると、ポケットから取り出した小さな包みを投げ渡した。

「‥‥飴玉?」
「はい」

禁煙中なので、と澄ました答えに、放物線を描いて飛んだカラフルな包みを見事にキャッチした松下左右十は、新人の台詞に「耳に痛いなぁ」と苦笑しながら飴玉の包みを解いた。淡い葡萄色のキューブを口に放り入れると、包み紙を灰皿と一体型のダストボックスへと落とす。
その一連の動作を見届けた渋沢は口の端で再度軽く笑って、携えていたテキストに勤務表を挟み込んでから抱えなおした。

「お疲れ様です松下さん。実習ですか?」
「いや、次の時限は休みで、あと最終限まで全部予約」

松下の台詞は別段疲れているわけでもなんでもない飄々とした口調ではあったが、渋沢は改めてお疲れ様です、と声を掛けたものだ。通常業務として幾ら慣れていようとも、神経を使う仕事にはかわりない。自動車学校の教官には、受講者の安全確保と事故回避という、高い危機管理能力が求められるのだ。

先頃入社したばかりの渋沢は実習教官の免許は持っているものの、今のところ座学中心の勤務で路上実習教官を務めた経験は無い。小規模校だから実習にも早くについてもらうかもしれないよ、と入社試験時に面接をした経営者兼校長(松下と同窓らしい。かなり若いので面接を受けながら内心驚いていた覚えがある)は言ったが、実際のところは渋沢本人の余裕と熟達と気構えができるまでの猶予を与えてくれていた。

「そろそろ講義は慣れたか?」

さり気なく気遣ってくれる先輩の言葉に、渋沢は笑顔で頷いた。
社員への行き届いたケア、小規模校ながらも質の良い教官を揃えているこの『榊自動車学校』に入社できてよかったと、渋沢は心から思っている。

「ええ、今日からは明希人さんのサポートなしで。‥‥まあ、女性受講者には残念かもしれませんけど」

少しおどけた口調で付け加えた渋沢に、松下がのんびりとした笑い声を上げる。
小島明希人は新人である渋沢の指導担当として講義の進行補助についてくれていた先輩である。が、なまじスポーツマン系爽やか芸能人に勝るとも劣らない容姿や雰囲気、優しげな物言いによるものか、僅か数週間でいっそ笑いが出るほどの秋波を受け、そして華麗に(天然に、かもしれない)スルーする姿をいやというほど確認している渋沢もまた、松下に和するように笑ったものだった。

「はは、小島の講義は居眠りが少ないというので有名だからなあ。‥‥ま、今期からはもう一人、居眠りの少ない担当が増えそうだけど」
「え?誰ですか。見習いたいな」
「‥‥あー、天然てのはいいねぇ、本当」

榊もいい買い物したよ、と渋沢にとっては謎の言葉を呟きつつ笑う松下を、天然素材な渋沢はただきょとんとして見るだけだ。

「‥‥はー、笑った笑った。ええと、今日は入校日だっけ?渋沢の担当かな」
「はい、俺です。あの、俺なにか面白いこと言いましたか?」
「いやいや、なんでもないから。そのままでいてくれていいからな。で、今日は何人」
「はぁ‥‥それが、一人です」
「‥‥‥‥‥‥。大丈夫なのかね、この学校」

飄々と、しかし真顔で呟いた松下に渋沢は苦笑した。
就職活動で希望先の企業形態をチェックするのは当然である。その過程で、渋沢はこの会社の健全な業務内容と、一般の利用者‥‥この場合、卒業生や近隣住民の評価が十分に高いことを、恐らくは長く勤めている松下よりも知っていた。だから小規模校であり、少々辺鄙な立地とあとは時期的な問題なのだろう今日の入校者数にも、ただ苦笑しただけだ。まぁ、とはいえ一人というのは、珍しい限りではあるのだが。
出社後、渋沢の新人指導担当である明希人に本日の業務内容表を渡されながら聞いた話をそのまま口にする。

「学生の夏期休暇前になれば増えるんですし、それまでのオフシーズンというか。アイドルタイムでしょう」
「おお、かもな。あ、夏には君にも路上にでてもらうと思うから、頑張ってな」
「はい。‥‥とりあえずは、次のマンツーマン入校説明ですけど。あ、明希人さんが視力検査で来てくれますが」
「ははは、一人ってのはやっぱりやりにくいよな」

頑張れー、と軽い言葉に合わせてヒラヒラと指先を振った松下に、渋沢は会釈をして話を切り上げた。腕に着けた愛用の時計を見る。そろそろチャイム代わりのクラシック(オペラ好きな校長の趣味らしい)が流れる頃だ。
渋沢が上がってきた事務所に直通の階段は受講生は使わないため、本日の入校者とはまだ会っていない。これまで何度か経験した入校説明担当の日は講義室への道々で名前と年齢、性別程度のことはチェックしていたのだが、今回は松下と立ち話をしていたためそれもしていなかった。もっとも、この最少人数では自身の紹介をしている間に書類に目を走らせることもできるだろうし、体力視力測定などは当番の事務技官いる別室へ案内するだけなのだが。渋沢の役目は、受講や実習の予約の入れ方、時間割や卒業までの簡単な流れを説明することである。
渋沢は滑らかに足を動かしながら、頭の中で言うべき事項を軽く浚う。
記憶の引き出しから無理なく掬い上げてくることの出来たそれらを反芻しつつ、渋沢はふとこみ上げた笑いにクスリと笑った。

「‥‥そういえば、何度も練習に付き合ってもらったっけ」

感謝しないとな。と、そんな渋沢の小さな声の独り言を聞くものがいたなら、きっとそのやわらかな語調に驚き、苦笑したことだろう。或いは照れくさくなったかもしれない。
やわらかくて、それはとても甘い声だったから。

職場に就職して暫くは、目が回るほど忙しかった。
どんな職業でもそうなのだろうが、新人はあらゆる業務をとりあえず一とおり頭や身体に叩き込まなければならない。仕事を任される為には、任されるだけの基礎、土台が必要となるのである。
渡される資料を読み込み、教えられることをメモし覚えて、自宅に帰って復習する。況して渋沢は『教官』として教える立場になるのだ、生徒に言い教えることは出来て当然、質問には答えられて当然になっていなくてはならなかった。
効率よく、単元で教えるべきことを全部詰め込んで時間どおりに収めるには、ある程度の練習が必要であり。

(‥‥そう、例えば今日これからの入校説明も、何度も何度も繰り返したっけ)

時間を計ってもらいつつ、実際の講義のつもりで。
自宅リビングで教書と書類を片手に、同居人の前で模擬講義をしたことを思い出す。
彼は彼で仕事をこなしながらではあったが付き合ってくれていた同居人は、『人にものを教える立場』と言う意味では、渋沢より数年早く就職した小学校教諭の彼に一日の長がある。

「あー、おもしれーガキどもの3分間スピーチ見てる気分だぜ」
「うるさい」

言い返した渋沢にシニカルな笑みを浮かべながらも、なかなかに的確なアドバイスをくれたものだ。

「よし、まぁ時間内には治まってんな。マイクねーんなら上向いて話せ、声が通らねーからな。あと、台詞噛むなよ」

とはいえ、教職についてから掛け始めた素通しのメガネの向こうで笑う視線に何か仕返しがしたくて、

「‥‥噛むのはお前の舌だけにする」

と舌ならぬ唇に噛みつくような唐突なキスを仕掛けたのは、まぁ笑い話と言うか甘い秘密、というか。

歩きながらクラシックの1フレーズを聞き終えたところで、講義室までは5メートル強。
まさか一人きりの入校とは知らず、誰もいない講義室で不安に思っているかもしれないと渋沢は足を速めてドアへと向かう。入室前に閉まったドアの手前でひとつ大きく息を吸って、吐く。
力抜いていけよ、と同居人の‥‥恋人の。笑顔と、声がした気がした。

そしてカラリとドアを引き開けて。




「どうしてお前がいるんだ三上」
「オイ、自宅で練習してたときと台詞がちがうぜ渋沢センセイ?」




新品の教科書類を前に席に着き、先ずは挨拶じゃねーのかよとニヤニヤと笑いながらこちらを見遣る姿と声に、思わずへたりこみそうになったのは、秘密だ。




「‥‥何でまた今更免許なんだ、三上」
「あー、今年は担任じゃなくて副担になったから、日中もちょっとずつ時間とれそうなんだよな。で、桐原のおっさ‥‥じゃなくて理事長に相談したら今のうちに免許取っておけとか言うからよ。こうして来たワケ。今日は有給とったけど」
「‥‥それで『今日は朝遅いから』とか言っていたのか‥‥。」
「ええとー?自己紹介と校内案内と予約の取り方と履修数と高速教習と支払いと送迎バスについてだろ?これらを笑顔でまとめて時間内に。もう何十回も自宅で聞いてるけど。聞いてやろうか、本番。ついでだしダメ出しもしてやるぜ」
「結構だ」
「次は視力検査と体力検査だっけ。お前測定すんの?」
「いや、明希人さんが‥‥担当が別室にいる。けどお前、視力1.2と1.0だったな」
「お、正解。つか何で知ってんだよ」
「この前定期健診の結果郵送、俺に開けさせたのお前だろう」
「ああ、そーだったっけ」
「健康でなりよりだ。体力は‥‥昨夜俺に付き合えるくらいの体力があれば平気だしな」
「渋沢教官、セクハラです」
「ハイハイ申し訳ありません。で?今日はどうするんだ?」
「おう、この後最終まで全部講座取って、お前と帰ろうかなと。クルマで待ってるからカギ寄越せよ。なんかメシ食って帰ろうぜ」
「‥‥やっぱりお前免許要らないんじゃないのか」





title/『生徒諸君!』
end.(05.//.2007)

4:新任の先生と入学したばかりの生徒。先生は?

『王道変換バトン』より。ソウさんがちょっと人気で嬉しかったです。