「対象者発見」

感情の感じられない淡々とした声が、一言でその場の空気を一変させる。

照明を限界まで絞った室内は暗く、本来なら己の足元さえも覚束無いだろう光量しかない。室内の一角を占める高感度モニターが映し出すクリアな映像がそのまま指向性の無い光源となって辺りを照らしている。
乾いた声にひかれるように顔を上げた瞬間意識の外で身動いだのか、室内を埋め尽くす機器類に接続された無数のコードにカツリと靴の爪先が当たった。その感触に渋沢は己の緊張を感じて、慎重に呼吸を整える。
痺れるような筋肉の強張りは、長時間薄闇の室内に押し込められていた事からくるものでは、決して無い。
たった一言、響いた淡々とした声は機器類の低い作動音と混じりあい、まるでその声自体が機械音であるかのような錯覚を起こさせる。
モニターの正面、放つ淡い光を浴びて佇む、『彼』自身をも。

「リスト4、コード104228、サイトN4E203」
「認証開始。スタンバイ」

彼の声を追って響いた其れは、聞き慣れている少し掠れた親友のものだったが、今は低く抑えられ、やはり機械めいた印象を渋沢に与える。

(事実、自分たちは機械なのかもしれない)

或いは、機関。目的どおりに作動する、一つの装置に過ぎない。浮かぶ思考が渋沢の脳の片隅を掠めては、沈んでいく。
コンソールを叩く高速の操作音を連続した電子音が追従するかのように響く。乾いた音は不思議なほど室内に反響した。機器類を押し込まれ、文字どおり身動ぎさえ出来ないような狭いその場にあって、反響する音が薄闇に沈む足下の床面さえ曖昧にする。
緊張が齎す慣れた高揚。渋沢は己の身体の輪郭を意識的に思い描く。闇に溶けてしまわぬよう。‥‥己が人間であることを、忘れぬよう。

「藤代、」
『対象を視認』

呼びかけには超高感度マイクが驚くほどにクリアな声を返してきた。同時にその背後、藤代と「対象」の居る場所の雑多な音が、室内を水底を浚う高速の海流のようにかき混ぜる。
ざらついた数多の靴音、子供の泣き声、甲高い嘆願。異国の言葉、電子認証装置の作動音まで、都市入管ゲートは普段どおりのざわめきに満ちていた。

人間達の発する熱量、生命活動の音。
そして薄皮一枚隔てた場所にある、冷たい攻防の狂おしさに。

渋沢は軽く身を乗り出して、モニター前に微動だにせず座る彼の肩越しに、そのひとつを覗き込んだ。これまで4分割表示されていた画面は、今は一方向からの映像を焦点調整しつつ映し出している。カメラに気づかない人の波は近く遠く、ぼやけた残像を描きつつ無造作に行き過ぎ、やがて繊細な細工の施された列柱の前、佇む人物にピントが合わされた。
中肉中背の一般的な成人男性、流行を意識しているわけではないが時代錯誤でもないありふれた髪型とスーツ。足元に都市間ビジネスマンにありがちな端末一体型のアタッシェケースをひとつ。どの都市でも当たり前にいるような、民間人だ。

「解かるか?」
『無理いわないでくださいってばキャプテン。解かるわけないっしょーそれは俺の仕事じゃないもん』

クリアな藤代の声は苦笑さえ含んでいて、渋沢はつられる形で口の端に笑みを浮かべた。
こどもめいた、弾むような口調は全く普段どおりの彼の其れで、現場での任務遂行中の人間のものとは思えないほど自然なものだ。
無論そうであることが藤代の任務の、絶対条件ではあるのだが。
実際に動く彼の危険度はこのチーム中、群を抜いて高い。対象との同空間内での潜伏と看視、そして一次接触、ハンティングという任務は、どれだけその場所にあった振る舞いをすることが出来るかがその優劣を、任務の成否を、ハンター自身の生死を決する。
そして藤代は現時点において、この都市最高のエースハンターと言えた。

「認証終了。コード104228、適合率73パーセント。‥‥微妙だな」
「三上」
「資料の質が悪ィ。28日前のデータって、そんだけあれば生体識別信号なんざ簡単に偽装できる。勿論整形も、そうだな無理すりゃ簡易性転換も出来るか」

ハニカムの調査室は何遊んでんだ、とため息混じりに吐き捨てた三上は、どうやら渋沢が見ているモニター機器類の山向こうに居たらしい。自作の立体型キーボードを手のひらにボールのように乗せて立ち上がると、もう片方の肘を積み上げられたモニターの上部について、形の良いあごを軽く乗せた。
モニターの放つ薄青い光を受ける親友を渋沢は見遣って、静かに問う。

「お前ならどうする」
「退く」

間髪いれずに返された答えを、渋沢は表情を動かさずに受け止めた。三上のその言葉は、認証結果がでた時点でそれは渋沢にも判っていたからだ。
視線を半ば伏せた三上は、掠れ声で言葉を継ぐ。

「対象者認証一致率が90パーを切った時点で退くのが一般的なラインだし、俺のデータでも82がギリギリだ。バカ代が動物並の感覚とはいえ、あんま危ないメにあわすのも寝覚め悪いしな。俺は危ない橋は渡んねぇよ。‥‥けど」

三上が言葉を切る。手のひらの上の捜査卓を無造作にモニターの上に置くと、ついと手を伸ばして渋沢の前、静かに座るその人物の髪に触れた。

「今はこの『眼』がある。そしてコイツがそうだと言った以上、それが事実だ」

この親友にしては驚くほどに優しい(もしかしたら己の視線の柔らかさに気がついていないのかもしれない)あやす様な視線が、『彼』に注がれた。
されるまま、三上の細い指先にさらさらと梳かれる髪はディスプレイからの光を受け、夜色に染まっている。
斜め後ろから見るその姿は、いっそ頑ななほどに動かない。まるで血の通わぬ機械であるかのような。
冷たい、このおかしな世界を構成する歯車のひとつであるかのような。

(‥‥けれど、)

「渋沢、こいつだ」

不意の呼び声に渋沢は知らず息を呑んだ。
咄嗟に向けた視線は、いつの間にあげられたのか軽く仰のくようにして振り向いた眼に射貫かれた。モニターの薄青い光を闇色の瞳が反射して強い光を放つ。機械にはありえない強烈な光。
それは人間の、生命の熱だ。

「不破、」

名前を呟いたのは無意識。反応は無い。ただ、ヒタリと返される視線だけが渋沢の全神経を絡めとる。
視線はそのままに、視界の端で画面を確認する。そこに居るのは、どの都市でも当たり前にいるような民間人だ。‥‥否、民間人「を装った」存在だ。多くの命を奪う危険な存在だと。

そう、真偽を見破る強い眼が、言っていた。

『対象、移動します。追跡を‥‥』
「藤代、即時確保。俺も行く」

高感度マイクから聞こえた了解、という声が終わる前に身を翻した。
三上から投げられた爪の先ほどの通信機を片耳に押し込み、ドアをスライドさせる。

途端目を射た人工陽光に、そういえば彼の髪の色は何色だっただろう、と不意の衝動にも似た疑問が渋沢の心に溢れた。





幾度かの戦争と幾度かの平和。

繰り返される、まるで不細工な予定調和めいた流血は、世界を狭く作り変えた。
荒れた大地に点在するかのように築かれた城塞都市はそれぞれが独自の行政、そして軍事機構を持つに至る。
争わずには居られない生き物達は茶番めいた戦争を繰り返し、先鋭化した科学技術は血を流したぶんだけ禍々しく、ある意味純粋に研ぎ澄まされていく。
数多ある都市国家の中、とりわけ大きな力を持つ3都市がでっち上げの大義名分を背負って仕掛けた殺し合いに一応の終止符が打たれたのは、まだ歴史書の最後のページにさえ刻まれないほど、ほんの数年前のことだ。
戦時中幾度も挿げ替えられた都市代表が、作り物の笑顔で握手をしながらマスコミのフラッシュを浴びた。停戦条約を結び、段階的に友好な都市間交流が再開されると謳いあげる。言葉どおり、年を追うごとに有機無機を問わず様々なものが都市間を流れるようになり、人々は少しずつその生活を安定させていった。

‥‥少なくとも、表面上は。





「で、どうだったよ?」

エスプレッソメーカーを火にかけている三上は、音も無く開いたスライドドアを潜ってきた渋沢に目を向けもしなかった。
長い付き合いで今更「ただいま」の挨拶もなにも無いとは渋沢自身心得ている。此処暫くの住み家と定めた家のまだ家具の少ない広めのリビングキッチンを突っ切りながら、俺にも、と軽く声を投げたものだ。

「エスプレッソだけど」
「カプチーノがいい」
「藤代が買ってくるクリーム待つんならな」

クラシカルなコンロの前で、エスプレッソメーカーのたてるコトコトという柔らかな音を彼なりに楽しんでいるらしい親友の応えに、そういえば先に戻らせたはずのひとつ下のメンバーが足りないことに気がついた。

「何だ、藤代は一旦戻ってからまた出たのか?元気だなぁ、相変わらず」
「テメェは疲れきったオヤジか」

ついでにメシの材料も買わせにやった、と続けられた声を背中で聞きながら、渋沢は羽織っていたジャケットをドアをとっぱらった寝室のベッドへと投げ遣った。ネクタイのノットをぞんざいな仕草で崩しながら三上の背後へと歩み寄ると、第六都市事務局で落としてきたデータ入りのスティックメモリを親友の尻ポケットへと手のひらごと突っ込む。

「キャプテン、セクハラ」
「気色悪いこといってるとそれ以上の何かするぞ」

やはり振り向きもせずの茶化した軽口に此方も軽口で応じると、渋沢はそのまま三上の足元に足を投げ出して座り込んだ。
コトコトとエスプレッソメーカーのたてる音を暫く聞いた後、辺りに漂う馥郁たる香りを深呼吸するように吸い込む。香ばしい嗜好品の匂いはそのまま文化の匂いだ、とぼんやりと思った。

「‥‥で?」
「的中だ。コード104228、3都市指名手配、レベル2。生体確保で25パーセント、ついでに色つけてプラス10パーセントのボーナスつき。明日は何か美味いものでも食いに行くか」
「ぁあ?『最新』データだとレベル4だったぜ」
「6日前に第一都市市庁舎直下地下道にて爆弾テロ、及びコンピュータクラッキング。サブコンピュータに侵入の疑いで一気にレベルアップさ。レベル2からは生死不問だけど生体確保だし、となれば万が一第一都市のデータ入手に成功してたら、ここ第六都市としては万々歳、ってね」

だから色つきのボーナス、と最後に付け加えると、さすが28日前の最新データ‥‥と、げんなりしたため息が頭上で零された。

第一、第三、そして現在渋沢らが一応の腰をすえている第六都市・通称『ハニカム』が引き起こした、ここ四半世紀で最大の戦争は、つい数年前に停戦および友好条約を結んで終結したばかりだ。
各都市上層部はその友好ムードを過剰なまでに演出し、民間においても商業や物流ともにその交流は問題なく進んでいる、と、されている。

「まぁ、停戦なんてそんなものだろう。銃弾が飛び交わなくなっただけマシさ」
「代わりに情報と爆弾抱えたテロリストが飛び交ってるけどな。‥‥ハッ、バカらしい」

軽い口調の最後に吐き捨てられた三上の言葉が、全てを物語っていた。
優しい笑顔の奥で交わされる透明な刃は隠微な情報戦と、凄惨な暗殺合戦。
美しく澄んだかに見える透明な水は、決して飲めない死んだ水だ。

第一都市の情報を手に入れた第六都市は、相応の『交流』に打ってでるだろう。
歪み枯れ果てたこの世界から戦場が消えることは、恐らく永遠に、無い。

そんな世情が渋沢達の仕事を生んだというのは、皮肉な話だ。

彼らは一般的に「賞金稼ぎ」といわれる存在だ。
各都市独自の刑事警察機構は確立しているが、都市間の連携となると心許無い。何せ事あるごとに戦争をする相手同士なのだ。しかし犯罪者は都市を渡り歩き、都市を渡ることでその犯罪暦を洗い、活動する。軽微な者なら尚更、都市を跨いで組織されたテロリスト集団ともなれば、都市ごとの刑事機構ではとても追いきれるものではないのだ。
そこで登場したのが、「賞金首制度」である。
形式上、まったき民間会社に丸投げする形で請け負わせ、犯罪者リストを集中管理させる。たとえその背後に各都市が控えていようと民間機構である以上、都市間にある政治的軋轢は「ない」ものとみなされ、各都市の情報を自由に入手し、賞金首を「狩る」。
賞金稼ぎという職業ハンターとして事務局に規定の登録料を納めれば、それぞれの功績に応じたライセンスが発行され、行動が認可される。一人から最大6名までのチーム登録も可能で、個人のハンターが仕事ごとに連携しての随時チーム行動も認められている。また功績が認められれば、チーム若しくは個人として「指名」を受けることもある。
彼らには各都市や企業お抱えのハンターも居れば、都市間を渡り歩いて仕事をするフリーランスも多い。その内、渋沢達は後者に属していた。

「それで、事務局は結局、何だって?」
「このまま第六都市に残ってくれ、とのことだ。指名者は『第六都市』。期間は20日、第二都市幹部が来訪しての会談終了まで。指定テロリスト及び要危険人物の洗い出しと拘束その他。報酬はA1クラス警護費、後は出来高」
「受けたのか?」
「ああ」

軽い調子で頷けば、ふぅん、といつもながらの気だるい返答だ。エスプレッソメーカーを火から下ろすカチャリという音に、渋沢は緩く仰のいて三上を見遣った。
シンクの向こう、どうやらデミタスカップに出来上がったエスプレッソを注いでいるらしい液体の跳ねる篭った音が緩く耳に届く。

「良かったのか?」
「イイも悪いもあるかよ。テメェがウチのキャプテンだろ?」

見上げれば、両手にデミタスサイズのカップを携え、そのうち右手にあるほうを傾けて淹れたばかりのコーヒーを啜る三上の視線にぶつかった。その瞳に自分にしか解らない笑みを見つけ、もともとは三上と自分、二人のユニットで初めてハンター登録をした当初のことをふと思い出す。
生命の切り売り、なんて表現される職業にあって、随分と長い年月を共に過ごしてきたものだと思う。
数年前、三上が拾ってきた(というか三上にくっついてきた)藤代を加え3人のチームとなり、その時々で臨時メンバーを換えつつ、長い時間を共に過ごしてきた相手だ。
視線を合わせたまま腰を屈めてきた親友のうなじに手をやり、引き寄せるようにして軽く唇を合わす。深みのあるエスプレッソの薫りが唇越しに伝わり、二人して思わず笑ってしまった。

「‥‥というか、俺にはないのか」
「オマエがカプチーノがいいっつったんだろ」
「じゃぁ、その左手にあるのは?」
「これは、不破の。」

至近距離での言葉に、渋沢は軽く目を見開いた。
その驚いたことを隠さない瞳に満足したのか、三上はニンマリと笑うとキスを交わしながらも見事な筋力と平衡感覚で零さなかったデミタスカップのうち、口をつけていない左手のカップをシンク上に手を伸ばしてソーサーに載せると、ヒョイと渋沢の手に押し付けてきた。
そのまま身体を起こして右手のコーヒーを啜ると、不意に苦虫を噛み潰したように眉を顰めスタスタと歩きだした。
その方向には、渋沢が入ってきた玄関に通じる廊下へでるスライドドアがある。

「え、あ、三上?」
「ったくあのバカ、どこほっつき歩いてやがんだ‥‥」
「三上、不破って、」
「あ?だからテメェのは藤代が戻ったら作ってやるから、カプチーノだろ?それ不破に持ってってやって」
「いやそうじゃなくて彼何処に居るんだ」

妙に慌てた口調の渋沢の其れに、綺麗なウォーキングでリビングを横切っていた三上が呆れた風を隠すでもない顔で振り返った。

「‥‥テメェの目は節穴か。目の前にいるだろ」
「え?‥‥あ?」

目の前、と言われ素直に座った体勢から目の前、と呼ばれるだろう位置に視線をやると、確かに、人が居た。‥‥といっても、髪の先がほんの僅か見えているだけだったが。

「‥‥あ」
「帰ってからずっとそこで寝てんだよ。いい加減起こしてコーヒーでも飲ませとけ。藤代が帰るまでに起こしとかねーとうっせぇからな。駄目っぽいなら寝室にでも放り込んどけよ。あ、それと中西に繋ぎとっといたから今日中には来ると思うぜ、じゃぁちょっとバカ捕まえに行ってくっから」

歩きながら流れる水の勢いで用件を立て続けに言い置き、三上はカップを持ったままドアをくぐって行ってしまった。自動で開閉するスライドドアのエア制御のシュンという涼やかな音が最後の伝言だ。

「起こしてコーヒー、と言われてもだな‥‥」

誰に言うともなしに渋沢は呟く。勿論、返事はない。返事があるとしたら「目の前」の存在からだろうが、彼はといえば先ほどと変わった様子もなく、見えるものと言えば微かに髪の先だけだ。
広めのリビングの真ん中辺り、かなり低いタイプの紺色のソファが置かれている。 此方に背を向ける形のソファに横たわっているのだろう、片側からヒョイヒョイと幾らかの髪の毛が除いていた。緩やかにふわふわと揺れる其れは、恐らく寝息に合わせて揺れているのだろうな、と思う。

(そうだ、髪の色、茶色だった)

ふと、三上に言い置かれたあれこれよりも先にそんなことを思った。

「‥‥三上の拾いもの、というか今回は藤代の拾得物か?」


『良い「目」を拾ったから持って帰ったぜ』
『は?三上、目って』
『キャプテーン、可愛いでしょー不破っていうんスよ!そこで拾ったんデス!』
『いや拾ったって藤代ネコやイヌじゃないんだから』
『うーんどっちかというとイヌかなぁ、いややっぱネコ?三上センパイはネコですよね!』
『テメェはバカ犬だな』
『おいお前ら』
『いいから、黙ってりゃ解る。直ぐに配置だ、行くぞ』
『はぁい♪』


黙ってりゃ解る、と言った三上は正しかった。
三上が言った、『良い目』の意味も。

「‥‥スポッター、か」

呟いた自身の言葉に、渋沢は改めてその人物(まぁ髪の先だが)を見遣った。





『スポッター』とは、ある意味特殊能力者だ。といっても、念動力や精神感応力者のような特殊性とはまた違う。

極論すれば、「ずば抜けて目と記憶力の良い人間」とでも言うべきだろうか。

人間の目は、色を見分ける能力が生まれた時点で違うという。似た色のパレットをグラデーション状に1から10まで並べたとき、Aという人物は1から4までが同じ色をしている、といい、Bという人物は1から10まで全て同じ色だと言う。この違いは彼らが嘘をついているのではなく、それぞれが本当にそう見えているのだ。
そして、稀に1から10までの色の違いを全て見分けてしまえる人間も存在する。さらには、それぞれのパレットのなかの微妙な色の違いさえも見分けてしまうことができる人間が、ごく稀に存在する。
特殊なのは、これがある程度の修練をつむことで一定レベルまで誰もが鍛えることの出来るものだ、ということである。そのため、其れが脳と視神経という運動機能と抜群の識別能力による、いわば身体的優劣のものなのか、はたまた精神感応のような超能力といわれる分野に属するのか線引きが曖昧であり、この部門の研究に関してはまだまだ未踏の部分が多い。
『スポッター』はそれに似た存在だ。ただし此方は、色だけではない複雑に絡み合った物の識別能力を指す。それは同じ角度同じカメラで撮られた風景写真の違いを見分ける能力であり、数万の良く似た人物写真の中から高いパーセンテージで同一人物を探し出す、といったスキルだ。ただし、色彩の判別より個々人の生来の能力が左右するらしいが‥‥正しく「目が良く、記憶力がいい」人物、といえる。

目の前で眠る彼は、どうやらそんな存在らしい。

‥‥綺麗な、闇色の目をしていた。





フワリと薫りたった琥珀色の存在に、渋沢はハタと我に返った。
妙に慌てた気分で手の中のデミタスカップを見遣る。‥‥少し冷めてしまった気がする。一体どれくらいの時間ぼんやりしていたのかと渋沢は自分に些か呆れて、苦笑した。そんな声を出しての笑いに、少しだけ気分が落ち着かされた。

「‥‥せっかくの、エスプレッソだし、ね」

誰に言うでもない台詞をポツリと零すと、思い切ったように立ち上がる。そうすると低いソファの背越しに、三上のブランケットに包まって眠る姿を見ることが出来た。それは文字どおり「包まって」いる状態で、ブランケットの端を抱き込むようにして丸まる姿が、藤代の言ではないがネコみたいだ、と妙に可笑しく、和やかな気分になる。
少し冷めてしまったコーヒーを片手に、そろそろと足音を殺して近づいた。起きる様子はない。渋沢はソファの正面に回りこむと、やはりそっと腰を下ろす。カップを床に直に置き、そろりと手を伸ばした。

あの目をもう一度、向けられてみたいなと考えながら。





title/『edge/seventh heaven』
end.(01.22/2006)

ためし書き。
三不破っぽいけどちゃんと渋不破、になる予定。