「名を、つけよう」
凛と響いた主の声に、闇に沈むように控えていた黒猫はふるりと長い尾を揺らした。すんなりと滑らかな肢体を起こし、伏せていた琥珀の瞳をゆうるりと上げる。
「御身様、」
応えはない。
闇に蕩けていく密やかな声、けれど確実に主に届いた筈だ。何故と言って、彼こそがこの空間の創造者なのだから。
あらゆる事象事物の輪郭を蕩かす漆黒、光届かぬ水底にも似た果て無き空間は彼の本質、或いは彼そのもの。その絶大なる力の証。
しなやかな肢体に長い黒衣を纏わせ、肩から腰へと流れる髪は時を止めた清水のように凛冽と。
表情を落とした白皙の頬に今は淡い光を受け、ほの青く輝いている。
長く整った睫が、その花臉に夜色の影を落としていた。
「御身様」
応えはやはりない。視線さえも返されない。
黒猫が彼のただ一人の主を見つめるように、彼の者もまた、ただ一つの存在をその眼へと映していたから。
それは闇に浮かぶ巨大な円柱形の水槽であるかと思われた。
淡く発光する濃青色の水溶液を湛えた‥‥否、槽ではない。水溶液自体が、円筒形を成しているのだ。細かな気泡が下から上へ、ほろほろほろ、と鈴語の如き清かな楽を奏でつつ、溶液を揺らし、弾けて、消えていく。
その胎の深きに、一つの存在を抱いて。
「御身様、それは」
「『京介』、と」
主の声に黒猫は口を噤んだ。
ひたりと宛てられた視線は、越してきた星霜の重みを持って黒猫の全身を絡めとる。
彼が何者であるかを、黒猫も知らぬ。
ただ、識っているだけだ。
時に畏き賢者と、時に闇の魔の者と。見る者によってその存在は流動し、この世界を為さしめるあらゆるものとすれ違い来た、永劫の時を漂ってきた存在であると。
ただ、独りで。
「京介と。友より貰った名だ、志喜屋。その名を」
「‥‥京介様」
搾り出した黒猫の声は、震えていた。しかし京介と呼ばれた存在はその事に頓着することなく、その名の響きにひっそりと笑みを零す。主の笑みにぬばたまの闇が震え、夜光珠の零れ落ちたが如き光を辺りに振り撒いた。
もしこの場に芸術を為すものがあったならば、その者は恐らく二度と絵を描くことも、美文を紡ぐこともできなくなっていただろう、それは至上の美しさ。
(この方は、)
「京介様」
「此れも、傍に居て私を呼ぶ名がなければ困ろうよ」
玲瓏たる声に辺りの闇が再び瞬く。
黒衣から差し伸べられた指が、そそり立つ濃青の溶液に触れた。ほろほろほろ、と緩やかに立ち昇っていた気泡が、歓喜にも似た華やかな音で創造主の指を白く細かな泡で包み込む。一瞬その指先に蟠った泡は、次の瞬間いくつもの螺旋を描いて、その深きに眠る「もの」を柔らかに包み込んだ。
濃青の水に、ふわりと漆黒の髪が舞った。
細かな白泡達が、鮮やかな螺旋を描いて其の「もの」を包み込む。
象牙色のふっくらとした頬を、薄く綻んだ花唇を掠め、まだ細く柔らかな輪郭をなぞるように愛撫して、一瞬で消えた。
「ああ、良い具合に育っている」
言葉と共に、濃青に浸していた指先を抜き出す。緩い曲面をえがいて垂直に立つ水面に、淡い波紋がついと現れて美しい文様を描いた。
「京介様、」
「今日は随分とお喋りだな、志喜屋」
「‥‥‥‥。」
「名を持つと、やはり呼びやすいか?‥‥おいで」
その言葉に、空間が主の命に従い、志喜屋の前に無形の階段を作り出した。
微かに光る輪郭を頼りに志喜屋は滑らかに四足を操り、主の胸元近くへと寄る。
伸ばされた片腕が、黒猫の耳辺りを柔らかく擽ってきた。志喜屋は反射的に目を伏せる。暗くなった視界と前後して、主の声が彼の耳へと届いた。
「お前の心配することは、何もない」
「‥‥、私は」
「あれも、そういえば何かと心配ばかりしていた」
その言葉に、闇に美しく瞬いていた光が水底に沈んだ蛍のように瞬いた。
「会えば、いつでも口うるさく」
耳の後ろから喉元を擽るように指が撫ぜていく。
「なにかにつけ笑って、急に怒り出しては、直ぐに忘れて」
視線は青い溶液にひたりとあてたまま。
微かに動く唇にあわせて、その青が表情を落とした白皙の美貌に閃く。
「名前をくれて、そして、死んだ」
「京介様」
「‥‥名前を、」
(ああ、この方は、)
傍らを往き過ぎる世界、星霜の時を彼はその瞳に映し。
流れていく、自分以外の全てを見送ってきた。
強大な力を持ってしても叶わぬ、それはこの世界の理。
全てが零れ落ちていく。
彼一人を残し。独りを、残し。
‥‥友さえも。
(この方は、寂しいと、言っているのだ)
ほろほろほろ、と濃青にゆらめく気泡が、やわらかな歌にも似た楽を奏でている。その水の中にたゆとい眠る「もの」の為の優しい子守唄。
艶やかな黒猫の毛並みを辿っていた指先はいつの間にか黒衣の内に収められていた。今はじっと、その存在を見つめている。
ただひとりの存在が、其の傍にと願い作り出した、たった一人の存在。
黒猫の視線の先で、その主は緩やかに微笑んだ。
「名を、つけよう」
「‥‥‥‥何と、なさいます?」
「そうだな‥‥」
繰り返された言葉に、志喜屋は問いを返した。
主の視線は片時も離れることなく、ひたりとその存在へ向けられている。
空間を満たす闇が、淡くまたたくように、さんざめくように、創造主の言葉を待っている。
ややあって、京介は一度だけ目を伏せ、再び視線を眠る子に戻すと、ひっそりと囁いた。
「この地に生きるもの全てが、彼を愛するよう。‥‥大地、と」
title/『call me name』
end.
絶対のひとり、そんな京介様。
世界そのものの存在が己を殺す存在を作るという矛盾みたいなお話です。
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