戦場だった。
男は震えながら必死に考える。何故、何が原因で、どうしてこうなったのか。
要塞めいた屋敷の奥深くにこの部屋はある。愚かな者どもから吸い上げた金をたっぷりとつぎ込み、施したセキュリティは万全だ。侵入者が自分に危害など加える事態など、仮定さえ笑い飛ばせる、その、筈だ。
なのに何故こんなにも恐怖を覚えるのか。
何故、セキュリティシステムがレッドアラートを鳴らすのか。
‥‥アラートさえ、切断されるのか。
全身が震え、知らずカチカチと鳴る歯がうるさい。
手のひらにびっしょりとかいた汗で声を殺そうと押えた口元がぬめる。
「‥‥コンニチハ?」
その声に、男は肥え太った身体を椅子から転げ落ちさせた。
此処は自分の城。聞き覚えなどない声。
‥‥けれど、噂だけは有り余るほど聞いていた。
「ひ、ひぁ‥‥ッ!お前、おま、えは‥‥ッ」
カタコトの共通語。
黒髪に細身、アジア系の幼い容姿。
闇から闇へ、それは伝説にも似て伝え聞いた、死神の、手。
男は言葉に詰る。
死への恐怖に舌は絡め取られ、それでも何事かを紡ごうとして、けれど命乞いをすることさえ出来ない。
目の前の人間を、呼ぶ言葉を持たない。
『名無き者』
それは、名前を持たない、世界最高の殺し屋。
誰も名を呼ぶこと叶わぬ、死神。
「サヨウナラ。」
幾万の命を売り捌いた奴隷商人の最期は、意外なほどに穏やかな餞と、鮮やかな笑顔に見送られてのものとなった。
「センパイ!」
今時クラシカルな手動のドアが蹴破らんばかりの勢いで開かれた。
一般に普及している感知式無音ドアであればその時点で即セキュリティコールであろう勢いで飛び込んできた少年に、三上は向き合ってきた光学ディスプレイから視線を外し、心底イヤそうな顔を向けた。
「うわ凄い顔。」
「テメェのせいだ、テメェの」
「ひどーい、仕事済ませて返ってきたチームメイトにその顔はないじゃん?!」
「お前以外なら笑顔で迎え入れたぜ」
「それは嘘でしょ」
「嘘だがな」
言葉遊びにも似たやりとりの合間、三上は傍らのマグカップを取り上げる。中身のコーヒーはすっかり冷めてはいたが、気にせずに口に含んだ。
飲み下す際に僅か上げた顎の下、ローチェストの背凭れ越し首筋に腕を回されても気に止めもしない。いつものことだからだ。
「センパイ、コーヒー美味い?」
「お前には苦いだけだろうがな」
「もー、またそーいうこというー。‥‥」
ざらりと硬い指先が頤を持ち上げる。
けれど斜め上からのキスで絡められた舌は柔らかく、三上は適当に応えながらその落差に薄く笑った。
「‥‥やっぱ苦ェ」
「いつまでだってもお子様味覚だよなテメェは」
三上は近距離で呟かれる言葉に動く唇を、舌先で舐めてから軽く笑って、そばにある額をぐりぐりと撫ぜた。短く刈り込まれた黒髪が指先に当たって妙にくすぐったく、三上は再度笑う。
「センパイやめてー髪型が乱れるーっ」
「乱れるほどの髪ねぇだろ」
「その言い方やめてよ俺が薄毛みたいじゃん!てかどうせ乱れるならセンパイがベッドの上でっつーか俺の上で、‥‥イタッ!」
いまだ近距離にあった額を指先で力いっぱい弾いた三上は、そのまま頭を掴むと後ろへ投げ捨てる勢いで押しやった。ドタリと板張りの床へ派手に人間の身体が転がる音を背中で聞いたが、まるで無視してディスプレイへと向き直る。
手に持ったままだったマグカップを置き、高速でキーを打ち始める。
「‥‥もー、センパイほんと酷い。頑張って仕事済ませてきたのにー」
「ったり前だろうが、済ませてなきゃこの部屋に入れねー」
「不破は?もう戻った?」
「とうの昔に渋沢が攫って帰った」
「あはは、身内ユーカイされちゃったらやっぱ取り返しに行かないと駄目?」
「濡れ場に踏み込む勇気があるなら行ってこい。‥‥っし、入金確認。以上で、終了だな」
「うん」
ゆっくりと告げられた三上の声には、いっそ幼いほどの素直な応えが返された。
視線をめぐらせればいつの間に移動したのか、ローチェストに浅く腰掛ける三上の足元ににっこりと笑う顔があった。そのまま膝に顔をこすりつけるように懐かれる。
「イヌみてーだな、お前」
「イヌでいいよ、俺」
顔を伏せているからか少しくぐもった澄んだ声に、三上は口の端に笑みを刻む。
頭を撫ぜてやれば短い黒髪が本当に大きなイヌの其れのようで、腕を伸ばして抱きついてきた身体を拒むことなく受け入れた。
「なんだっていい。イヌだって人間だって、名前なんてなくたっていいよ」
「‥‥おい」
「センパイ以外の人間になんて呼ばれたって意味ないもん。なら名前なんて要らない」
「‥‥‥‥」
「センパイが呼んでくれるなら。センパイがくれた名前だけ、それだけでいい。他はなんにも要らない」
耳元で囁かれるそれは幼い声だった。
幼く純粋で、彼を拾った頃そのままの。
名前と言う言葉さえ知らず棄てられていた頃のまま。
‥‥人殺しの術を持たせ、この世界に引きずり込んだ、あの時のまま。
「‥‥藤代」
「うん。なに、センパイ」
「ごめんな」
幼い笑顔で鮮やかに藤代が笑う。
その笑顔に応える唯一の術とでもいうように、藤代、と三上が彼につけた唯一の名前を、小さく呟いた。