さあ、行きなさい。
貴方の後ろに道はない。
歩みなさい。
倒れ傷つき、血を流そうとも。
生きなさい。
頬を伝う涙と共に。
歩みなさい。
行きなさい。
生きなさい。
いつか辿り着く、約束の地へ。
「‥‥聴いたことのない歌だ」
「そうだろうねぇ」
飄々とした声が、呟かれた渋沢の声と先ほどまで彼が奏でていた二弦琴の余韻を消すように、あたりに響いた。
といっても、その声とて絶え間なく響く波音に紛れ消えていくほどの音量でしかなかったのだが。
「知らなくて当然だよ、随分古い歌だからね」
どれくらい古いのか、とは、渋沢は訊ねない。
中西が古いというのだから、本当に古い曲なのだろう。‥‥100年前か、200年前か。もしかしたら、もっと前なのかもしれない。
しかし、渋沢にはそんなことはどうでもいいことだ。
「いい歌だな」
素っ気無いながらも、最大の賛辞を贈る。
中西は笑った。手にしたままだった二弦琴を一つかき鳴らし、唄うように礼を返す。
「お気に召しますれば、望外の喜び」
芝居がかったその口調に、二人は小さく笑いあった。
窓の外からは、絶える事ない波の音。海の声。
声を吸い取り、藍色の海へと溶かしていく。
「‥‥さ。キャプテン、子守唄は終わり。明日にはカンバーランドの領海なんだから、いい加減寝ないと。辰巳が心配するよ?」
「‥‥‥‥ああ」
ややぼんやりとした声ではあるものの言葉を返した船長に、中西は薄く笑うと、半ば腰掛けていた飾り出窓から身を起こした。抱えた二弦琴の弦を緩めながら、船内では最も広く贅沢なつくりの船長室を横切り、扉へと向かう。
まるでその場だけ空気の重みが違うかのような、体重をかけらも感じさせない身ごなしは、彼だけの動きだ。
『歩みなさい』
‥‥‥‥歩け、と。
『行きなさい』
血を流し、振り返ることなく。
『生きなさい』
歩いて歩いて、歩き続けた、その生の果てに、
「‥‥中西」
なぁに?と屈託ない表情で振り返る彼を、窓から差し込むまばゆいばかりの月明かりが、青く白く、染め上げている。
落ちない影は、彼の者が人外の存在であることを主張していた。
「‥‥約束の、地は、」
普段の穏やかで頼りがいのある姿からは想像もつかないような、表情のない声で、渋沢は言葉を紡ぐ。
「約束の、地なんて、どこにも、」
「此の歌を作ったのは俺の古い友人だけれど。」
「‥‥‥‥ッ、」
渋沢は、はっと我に返ったように息をのんだ。
中西は、笑っていた。
永の年月を経て尚、屈託のない、綺麗な笑みを。
「その人はね、笑っていたよ。‥‥‥死の瞬間まで。」
おやすみ、と告げて閉じられる扉をじっと見つめる。
遠ざかっていくその気配を、瞬きもせずに見送った。
「‥‥約束の地なんて、どこにもないのに。」
呟く声が、波音に溶けていく。
「‥‥‥‥ありは、しないのに。」
瞼を下ろす。
『笑っていたよ。‥‥死の瞬間まで。』
そう言った、中西の声。
彼の人は、辿り着けたのだろうか。
ああ、だとしたら。
いつか。いつか、自分も、
「‥‥‥‥いい、歌だ‥‥。」
囁くようなかそけき声は波間に消え、そして渋沢の意識は眠りへと落ちていった。
いつか辿り着く、約束の地平を思いながら。