世界の死に往く音を、独り黙して聞いている。
「辰巳」
触れた感覚と呼び声に、辰巳はゆるりと意識を浮上させた。
それは暗闇の底から眩しい光の下への移動にも似た感覚だと彼は思う。
実際には視覚も運動器も持ち合わせない、タイオスと呼ばれる一族であり、樹木である彼には、移動や光の感覚など、文字どおり知識上での擬似感覚に過ぎない。しかし、地深く張り巡らされた根や幾千と繁らせた枝葉から伝わる『世界』を知る彼は、ある意味人間型の種族と同じ感覚を持ち合わせていた。‥‥簡単に言えば、目を覚ました、といったところか。
「‥‥中西か」
「そう。おはよ〜」
呑気な声音と一緒に、ぺちぺちと樹皮を叩かれる。人間が20人いても囲うことはできないだろう辰巳の身体(幹のことだ)にはどうということもない衝撃だが、なんとなく「くすぐったい」感覚がする。長い長い年月を経るうちに覚えた感覚の一つだ。不思議なものだ、と辰巳は考えた。
そんな哲学的だか単に呑気なのだか分からない辰巳にはお構いなしに、中西と呼ばれた者は、辰巳の周りをヒョコヒョコと歩いては、時々幹を撫でたり、また軽く叩いたりを繰り返していた。そのままくるりと、辰巳の周りを一周してしまう。そして最初に叩いた幹の真下あたりに、ストンと座り込んだ。
「‥‥何をやっているんだ、お前は」
「ん〜?いや、別に?」
「別に、か」
「そう、別に、だよ」
そういって笑った、中西のふわりと長い、白い耳が、ふんわりと揺れた。
柔らかな毛が幹に触れる。「くすぐったい」感覚が、辰巳はおかしかった。
「久しぶりに会うな、中西」
「そうだねぇ」
他愛の無い会話は、辰巳に心地よい感覚を齎すものだった。
それは、良く晴れた日に己を撫でていく風の感覚にも似ていた。
またそれは、羽根を休めに訪れた小さき生き物たちの、美しい歌声にも似ていた。
「元気だったか」
「相変わらずだよ」
声と一緒に、中西の長い耳が揺れる。
ふんわりとした柔毛にくるまれた耳は、その根元を覆う艶やかな黒髪とは対照的な純白で、優美で愛らしい、ドモスと呼ばれる彼ら種族のなかでも、特に美しい色をしていた。
「‥‥世界は、まだ生きているか」
「生きているよ、まだ」
そう言って笑った中西の声を、辰巳はなにより美しいと感じた。
二度と射すことのない陽の光よりも。
既に死に絶えた、空を舞う小さき生き物たちの歌声よりも。
世界が変わったのは、そう遠くない日だ。
空を厚い暗雲が覆い、地は日に日にその力を失っていった。
行き交っていた様々な生きもの達は次第に姿を消し、世界を満たしていたありとあらゆる美しいものは、世界を彩る歌声は、失われた。
「‥‥‥‥東の森の、歌が途切れた」
「そう」
「北はもうない。おそらく、森ごとスパイダンの海に沈んだんだろう」
「そう」
「もう、居ない。俺しか」
「‥‥そう」
淡々と、辰巳は語る。
彼らタイオスと呼ばれる一族は、樹木でありながら各々が意識を持ち、同時に地に根張り巡らせる樹木であるからこそ、千里も遠くの同族を一瞬で知ることが出来た。‥‥その、生死でさえも。
「俺しか」
「じゃぁ、俺と一緒だね」
ハッと辰巳は、傍に座る中西に意識を集中させた。
幹に背を預けて座り込んでいる中西は、ぼんやりと遠くを見ていた。
小高い丘にひとり生きる辰巳のそばからは、ほんの少し前までは、銀をまぶして七色に輝く美しい草原が見晴るかすことができた。今はもう、ない。
そこにはただ、『無』と呼ばれるものが、枯れた草木を大地をゾロリと舐め『侵食』していく姿が見えるだけだ。やがてアレらは、世界を覆いつくす。
色彩の落ちた世界。歌声を失った世界。
‥‥同族を失った、自分たち。
「最後の、ドモスに会ってきた。耳が良いからね、俺ら。居たら判る。迷いの森の、裾野に居た。森と野原自体はまだ生きていたけれど、ソイツは死にかけてた」
「中西」
「腹と脚を食い千切られていた。耳もね。『侵食』にあったんだろう。俺たちは脚が早いけど、それでも、アレには敵わないんだね、やっぱ」
「‥‥中西」
「だから、一緒だよ。俺たち」
「‥‥ああ」
「一緒にいようね。俺たち」
「ああ、そうだな」
そんな言葉を返せば、中西はぴたりと身体を幹に寄せ、仰のくようにして辰巳を見、笑った。
中西の柔らかな耳が辰巳の身体である幹をかすめた。やはりそれは「くすぐった」く、そしてどこか、痛い気がした。
「藤代は、まだ生きている」
「うん」
「三上も」
「渋沢の声が、もう聞こえないんだよね」
「‥‥けれど、死んだとは思わない。彼の傍にはイーノゥがいる。それに渋沢が‥‥王が死ねば、この世界は一瞬で消えたはずだから」
「ま、じわじわと死んでるけどね〜」
カラカラと笑いながら言った言葉はずいぶんなものだったが、いっそ中西らしい物言いだったので辰巳は何も言わずにおいた。まぁ、ワサワサと枝を揺らして、葉っぱを数枚その頭に落としてやったが。
酷い!と喚く中西の耳がふるふると震えて、葉が払い落とされる。そして、その葉が既に『侵食』の影響を受けてか、乾き色を失いつつある地に落ちるより早く、すっくと立ち上がった。まだ鮮やかに青い葉が、ふわりと舞った。
「んー、ちょっと探してくる」
「藤代?」
「アキのほう。たぶん、迷いの森ん中に居る‥‥と思う。藤代もいると思うけど、アイツは大丈夫っしょ」
「‥‥入るのか?」
「まぁ。俺は耳いいし、大丈夫」
軽い口調で中西は言ったが、辰巳には額面どおりに受け取ることはできなかった。
迷いの森は、生きている。常に動き、姿を変える森だ。文字どおり『迷い』の森なのである。一度踏み込めば、歩きぬけることは並大抵のことではない。
「大丈夫だってば、俺、耳いいからね」
「‥‥しかし」
「一緒に居ようねって、俺言ったでしょ?」
辰巳は言葉を飲んだ。それに、中西はニコリと笑う。ふるふると耳が揺れた。
「帰ってくるよ。だから、辰巳も待ってて」
「‥‥わかった」
ピタピタとやはり幹を軽く叩いて、中西は振り返らずに走り出す。ドモスという種族は慨して脚が早い。あっという間に、その気配は消えた。
途端、静かになった世界で、辰巳はゆっくりと、意識を広げる。
光の下から闇の中へ。地を奔り水を駆け、『世界』を知る。
既に、どこからも歌は聞こえない。同族は全て失われた。この世界は、死に向かって進んでいる。
‥‥ああ、けれど。
『一緒に居ようねって、俺言ったでしょ?』
『帰ってくるよ、だから、辰巳も‥‥』
「‥‥ああ、待っている。待っているよ、中西」
呟いた声は歌となり、静まり返った世界の束の間の彩となって、消えた。