フロントガラスの端に捉えた後ろ姿へ声を掛けようと思ったのに、理由らしい理由はない。
大事な弟のチームメイトであるとか。
中学生が一人で出歩くには遅い時間であるとか。
凛と伸びた背筋に、ただ目を惹かれただけとか。
「‥‥不破大地くん?」
低く囁くようなエンジン音の隙間を縫うように、カチリと無機質な音が一度。其れをスターターに、風祭功はアクセルを踏み込んだ。
身体にかかる慣れたGを受け流して、滑らかなハンドル捌きで走行車線へと戻る。決して多くはない交通量は、深夜と言うには早いが夕方というには無理がある、そんな時間的なものなのか、あるいは幹線道路から外れた住宅地へと伸びる路線の為か、その辺りは普段この付近を走らない功には分からなかったが、疎らにすれ違うヘッドライトが妙に眩しく感じられた。
「ずいぶん遅い帰宅だね。何かあったのかな?‥‥ああ、シートベルトはちゃんと留まってるから」
対向してきた車のライトから目を逸らすタイミングで、助手席へ沈むように座る人物へと少しだけ視線を流す。付け加えた言葉に、一呼吸ぶんの間の後、ベルトの留め具部分を触っていた指を引いたのを見てとった。車線越しの光に照らされた長い指先は、随分と白く見えた。
中学生である弟と夜の仕事に従事する自分とでは、基本的な生活サイクルが違う。
そのため一緒に暮らすようになってからもなかなか兄弟水入らず、といった時間はごく限られていたのだが、その限られた時間の中で聞く弟の話はどれも微笑ましく、温かな気持ちになるものばかりだった。
大切なサッカー、部活動、河原での特訓。おやっさん、新しいコーチ、部を止めた先輩達との和解。
そして、個性的で、大切なチームメイトの話。
ふ、と功が零した笑いは声を立てないものだったが、気配を察したのか、運転席へ視線が向けられる。
決してあからさまなものではない、しかしその意図は十分に伝わる仕草。
大人びた態度や視線は、とても自分の弟と同年齢とは思えない。
「‥‥君の話をね、よく将はしているよ」
その視線に促されるかたちで発した言葉は、自分でも不思議なほど低く、囁くような口調になった。
それはフロントガラス越しのすっかりと夜に沈んだ街並みの静けさに感化されたのかもしれないし、或いは疎らにすれ違う車のヘッドライトに白く浮かび上がる、静謐な面差しに影響されたのかもしれない。
「君や、主将の‥‥そう、水野君の話なんかを、いつも話してくれてる。楽しそうにね。聞いてる俺のほうが楽しくなってくるくらいで、‥‥ああ、そういえば君のこと早とちりで川に突き落としたとかなんとか言ってたっけ。悪かったね、どうもアイツはときどき妙に落ち着きがないというか、」
「それはかまわない。おかげで、‥‥」
功の言葉を遮るかたちの声は、凛と澄んだ音をしていた。
車内の空気を低く震わせるエンジン音よりも小さく、しかし何故か、響くような。
不意に対向車のヘッドライトが、夜色の車内を白く染めた。
功は一瞬だけ視線を、眩い光を直視しないよう横へと流す。
‥‥あるいは、予感めいた何かを感じたからかもしれない。
「‥‥サッカーを知ったから」
まるで手のひらに包み込んだ二つとない宝物を、そっと見せるかのような。
車内を満たす白、囁くような声、
一瞬の光に閃いた、微笑。
「‥‥ここでいい」
淡々とした声に、功はゆっくりと減速して車体を路肩へ寄せることで応えた。ハザードランプを灯し、停車する。ひとつ大きく息をしてから助手席へと目を向けると、シートベルトを外した少年が足元に置いた荷物を取り上げようと屈んでいるところだった。
窓から差し込む微かな街灯の光に、うっすらと浮かび上がる制服の白いシャツに包まれた薄い肩や背中を見るともなしに眺めていたのだが、不意に彼の真っ暗な手元に気がつき、車内灯の光度を上げる。計器類の微かな光に慣れていた目には車内灯の薄明かりも眩く感じられ、功は軽く目を眇めた。
それは隣に座っていた彼も同じだったのか、荷物を手に身を起こした後、目を緩く伏せて光に慣れようとしていた。
伏せた瞼を縁取る睫毛が、頬に淡く繊細な陰影を落としている。
車内灯の薄明かりだからこそ際立つ、肌理細やかな頬の白。
‥‥目を逸らしたのは、理性と良心が反射で命じた無意識。
「風祭、の‥‥兄」
「あ、ああ、功でいいよ」
呼び声に内心の動揺をどうにか最小限に押し留め、笑顔で振り返ってから、そういえばまともな自己紹介をしていなかったなと今さらのように気がついて、今度は本当に笑った。
笑い声に不破は淡々とした表情の中にもどこかきょとんとした風に見返してきたので、功は笑い声を収めてから、優雅に笑ってみせた。
「いや、そういえば、きちんとした自己紹介をしていなかったと思って。‥‥風祭功です。弟がお世話になっています」
「ぬ。‥‥不破大地です。お世話になって‥‥いるのか?」
その台詞に功はまたふき出してしまう。
「くく‥‥っ、いや、うん。将とこれからも仲良くしてやって」
「無論だ」
チームメイトだからな、と軽やかに言い切る姿は年相応に見えて、微笑ましささえ感じる。
微笑ましさというか、可愛らしさというか。
「‥‥なんだ?」
「いや、よろしくねって、ね」
手を伸ばして、頭を撫でる。
やわらかくはないがサラリとした髪が手のひらをくすぐって心地よい。
にこにこと笑いながら頭を撫でる功の「よろしくね」に納得したのか、はたまた手を振り払うのが面倒だったのかは判らなかった。が、大人しく撫でられてくれながら、こちらに視線を返してきた不破に、功はもう一度、自分の中で最高の笑顔を返したのだった。
「じゃあ、気をつけて帰って。もう遅いと暗くなる時季なんだから‥‥って、ああそうだちょっと待って」
挨拶を交わし、後は細い路地だからと自宅方向へ歩き出そうとしていた不破を呼び止める。
無言で振り返った少年の手に、ジャケットの内ポケットから取り出した紙片を握りこませた。
「?」
「携帯のナンバー。男だからって中学生があまり夜道を歩くのは良くないぞ。掛けてくれたら、迎えにいくから」
「しかし、」
「いいから」
顔を上げて何事かを言い募ろうとするのを目を見つめて押し留め、営業用の名刺で悪いけどね、と軽く笑えば、諦めたのか納得したのか、不破は軽く息をついた。それを確認してから、名刺を握りこませるついでに握り込んでいた彼の手を、そっと離す。
今度こそ背を向けて歩き出した後ろ姿を、車に緩く凭れ掛かって見送りながら、功はひとつ、大きく息をついた。そのまま、夜空を見上げる。
街の明かりに負けた空には、幾ばくかの星が弱々しい光を灯しているだけだったけれど。
目を閉じた。
白い光に閃いた、まるで煌めく星のような微笑を、眼裏に思い返す。
ゆっくりと目を開けて、視線を返した先の後ろ姿が、握りこんだままだった紙片をポケットに入れたのを見て、功はそっと、微笑んだ。