暖かき潮の流れに生いたちし なれは真珠よ
幾年を海にきたえて 色映ゆる なれは真珠よ
黒須グループ本社プレジデントルームは、冴えた夜の闇と静寂に満たされていた。
どこかアンティークに整えられた瀟洒な内装とは裏腹に、最新の防音構造と幾重ものセキュリティの網に包まれた広い室内は、外界のあらゆるものを遮断し、沈黙と夜闇だけがその場に存在することを許されているかのようだ。
ただひとり、その彼ら主を守る為に。
黒須京介は、ソファに深く身体を預けたまま、ゆるりと瞼を上げた。
微かな身動ぎに合わせるように、丁寧に梳られた長髪がソファの表地を音もなく撫ぜ落ちる。
闇の中にあってさえ鮮やかな黒曜の目は、冬の夜色を吸い込んでますます深く、美しい。
その目がひたりと捉えているのは、フロアガラス越しの夜の都市だ。
床から天井まで継ぎ目のない、磨きぬかれた特殊ガラスは、まるで存在しないかのように夜の色を室内へと招き入れている。
実際には、高層のビルに叩きつけるように吹き荒れる冬の嵐から、静かに確実に、その主を守っているのだが。
一年を締めくくるその夜は、嵐だった。
とはいっても風雨吹き荒れるというわけではない。逆に、その冬嵐が大気中の塵を洗い流し、陰鬱な雲ごと根こそぎ浚っていってしまっていた。おかげでいつにもまして大気は冴え、その底にある地上の光たちは鮮やかなきらめきを夜の闇に放っている。
京介は、強風に鮮やかにまたたく光をじっと見下ろしていた。
深い海のようだと、不意に思う。
激しく逆巻く大気は一種のレンズ的役割を果たし、まるで本物の水越しの風景を眺めているようだ。
‥‥瞬く地上の星はあたかも深い水底、阿古屋貝に抱かれ育つ、柔らかな輝石のように。
不意に過ぎったその考えに、京介はひっそりと笑みを零した。
「京介」
呼び声に、京介は振り返る。
深い夜闇の向うの姿は朧だが、しかしその人を京介が見紛うはずもない。
やんわりとした微笑を口の端に乗せたまま、京介は優しく問いかけた。
「食事はできたか?」
「ああ」
素っ気無いほどの返答と同時、すたすたと暗さをものともしない足取りで京介の傍までやってきた少年に、京介は頷くことで返答とした。
「大地」
呼び声は、限りなく優しい。
そしてこの声は、その人ただひとりだけに向けられるもの。
「しかし、俺が混ざって良かったのか?社員の慰労の為のパーティ‥‥というほどでもないか、ともかく、食事会だったのでは?」
「気にするな。もともとこの日に社に残って働いてくれる者達への、一足早い祝儀めいたものだ。家族を呼ぶのも許可しているしな。お前は私の家族。これでおかしくはなかろう?」
「む、それはそうだが‥‥」
尚もどこか納得がいかないという風なはとこに、京介は軽く笑って見せた。
世界中に支社を持つグループ企業本社ともなれば、いつ各国からの問い合わせ、緊急事態が生じるとも限らない。その他様々な理由から、この本社ビルは年中眠ることなく常時社員が詰めているという状況では在るのだが、さすがに12月31日という年の瀬に、年を跨いでの勤務シフトになってしまった社員は少々気の毒というもので。
そんな彼らを少しなり慰撫しようと、毎年京介のポケットマネーで開かれているのが年末のミニパーティである。といってもそう堅苦しいものではなく、単に議場フロアに出張ケータリングを頼み、仕事や時間が空いた者達が普段より豪勢な夕食だか夜食だかにありつく、という軽いものだ。また時間は限られているものの家族を呼び寄せることも許可しており、フロアには社員の配偶者や子ども、あるいは親といった社外の人間も食事を楽しんでいた。
そう言う意味では、あの場に総帥の身内である少年一人いたところで、特に問題はない。
それでも尚どこか納得いかないような少年の様子に、さすがの京介も不思議そうに見上げて問いかけた。
「大地?どうかしたのか」
「‥‥京介は?」
「ん?ああ、まぁ確かに私も参加しても構わないだろうが、しかしそれでは他の者が食事を楽しめないだろう」
「‥‥‥‥俺の今の格好では、一緒だと思うが」
その言葉に、京介は思わずふきだしたものだ。
現在彼の少年がまとっているのは、京介のスーツだ。
同伴者なしでパーティに混ざるのに、あまりにカジュアルすぎる服では浮いてしまうかもしれないという、いつも優秀な第一秘書の言のもと、本社内に作られている京介のプライベートルームにあるスーツを着せて送り出したのである。
その後ろ髪には、ご丁寧にも京介そっくりの付け毛までつけられている。
確かに此れでは、グループトップが居ると一瞬でも勘違いして驚くものもいただろう。
その面差しからすれば、若き総帥の血縁であることは一目瞭然なあたりをまるっと無視してにこやかにスーツを薦めたあたり、志喜屋も面白がっていたのかもしれないと京介はこっそり思ったのだが、それは口にせず。
確かに、己の服を着せた少年は京介に良く似ていた。
ここ暫くで急激に身体が出来てきた彼は、年上のハトコの服にもそう身幅が余るほどではなくなっている。良く似た面差しは昔からで、志喜屋の悪戯心でつけられた後ろ髪がさらに雰囲気を良く似せていた。
その姿を薄く笑いながら眺めていた京介であったが、その口の端の笑みに気づいた少年の眉間がむっと寄せられたことに、一先ず笑みを収めて話を代えることにする。
「ああ、後ろ髪が気になるのだろう。取ってあげるから、こちらへおいで。‥‥ここに」
そう言って、淡い夜闇の中傍らに立ったままだった少年に手招きをする。
指摘されたとおり付け毛が気になるのか、うなじ辺りをしきりに触っていた少年は、京介の言葉に素直に応じて、言われるままに示された足元に座り込んだ。足元と言うと当然床なのだが、もっとも丁寧に清められ上質なカーペットが敷き詰められた部屋ではさしたる問題にもならない。また、この少年は問題にも思わないだろう。
生まれてから今この瞬間まで優しく慈しみ、両親を除けば誰よりも傍に居てくれた京介に、彼は全幅の信頼をおいている。
躊躇いもなく近づいてきた身体に、京介は淡く微笑んだ。
開いた脚の間に挟みこむようにして座らせた少年の頭を柔らかく撫ぜる。見上げてこようとする少年の頭をやんわりと押さえ、見た目よりふわふわとした髪をゆっくりと梳いた。慣れた体温が指先から伝わる。
「じっとして」
「ん」
ゆるゆると髪を梳っていた指をすべらせ、うなじを辿る。
まだ少年らしい、肌理の細やかな肌と曲線を描く首筋を指先でなぞるように辿れば、ふるりとその身体が震えたのがわかった。
「大地」
「‥‥ん」
顎のラインを辿り、呼び声と共に頤を緩く持ち上げる。
仰のかせたその顔、覗き込んだ瞳は夜の色と京介を映しこんで、決して逸らされることなく。
大地、ともう一度囁くように呼べば、ふわりとその瞼が落とされた。
付け毛の外される小さな音は、密やかに響く水音に紛れて聞こえなかった。
くちづけの終わりに濡れた唇に息を吹きかけると、京介の膝に乗せられていた少年の手が微かに震えたのが、布越しに伝わった。
支えていた頤から指を外すと、まるで猫が懐くように頭ごと京介の膝に預けてきた。その温かな重みと熱を、心から愛しく思う。
髪を梳っていた手に触れてきた指先を逆に握りこみ、身体ごと強引に抱き上げた。上質のソファは二人ぶんの身体を静かに受け止める。
そのまま、室内を満たす海のような夜色に、二人で沈んでいく。
ずっとその成長を見守ってきた。
さして多くはない自分の血縁で、迷いのない眼差しを向けてくれるこども。
躊躇いもなく触れてくる温かな熱を、京介は大切に慈しんできた。
時を追うごと美しさを増す、それは淡い海の輝石のような。
京介、と熱に潤んだ声が耳を打つ。
それは自分だけに向けられる、特別なもの。
慈しんできた年月、自分だけが見ることの出来る最上の呼び声。
「風祭たちと初詣に行くのだ」
「そうか。では、終わったらまたここに来なさい。何か美味いものでも食べに‥‥どうした?」
此処に来たときのカジュアルな服装に着替えた恋人が、京介の台詞に不意に眉を顰めた。
己の台詞に特におかしなところはないが、と内心で検証しつつ素直に疑問を返してみた。そういえば、ミニパーティの会場から戻ったときもどこか不満げに眉を顰めていたのを思いだす。
やはり、あの食事の際に何かあったのだろうかと思いつつ、重ねて言葉を掛けようとしたところに、キッとばかりに真正面から視線を返され、京介は思わず言葉を飲んだ。
「お前、今日は此処に食事に来いと言ったな」
「‥‥ああ、確かに言ったが。家には誰も居ないのだろう?一人の食事は味気ないだろう」
「確かに味気ない。だが、お前の居ないパーティ会場で食事するほうが、遥かに味気ない。それなら自宅で一人カロリーメイトでもかじってたほうが虚しくないぶんいくらかマシだ」
「‥‥大地、」
「次は一緒に食うからな。でないとどんな食事だろうと美味くない」
言葉と同時、ふい、と逸らされた顔に、京介は目を見張る。
その隙に、身体を翻したハトコはスタスタと歩みをすすめ、パタリと静かなドアの開閉音。
暫くの間、京介は固まったように閉じられたドアを見たまま動かなかったのだが、ふ、と一つため息のような笑いを落とす。それに釣られる形でくつくつと、堪えきれない忍び笑いが零れ出た。
不満げだった‥‥否、拗ねていたその人の顔を、思い出す。
一緒に食事をしなかったのは彼に語ったとおりの理由で、また彼を此処に呼び寄せたのも言ったとおりの理由だ。
ああ、でも。
「‥‥確かに、味気ないし、美味くないな」
ずいぶんと可愛らしい拗ね方に、笑いながら零した言葉は、押え切れない愛しさに溢れていた。
笑いを収め、窓の外へと視線を遣る。
そこには数刻前と変わらない、海のような鮮やかな夜色が大気を満たしている。
今頃あのこどもは、数多の光がまたたく、この美しい夜の水底を歩いているのだろう。
迷いのない視線でひたすらに前を見据えて。
そして時に嵐に曝され、風に洗われ、それでも折れることなくきっと彼は歩いていく。
磨かれて、美しくなっていく。
それをずっと、見守っていこう。
傍にあって、慈しんでいこう。
密やかな決意を知っているのは、ガラス越しの夜の海だけ。
end.(12.31/2006)