笠井は毎日、徒歩で出勤する。
彼の借りるアパートから勤務先まで、そう近いわけでもない。かといって遠いというわけでもない微妙な位置だが、彼が徒歩で出勤していることをこの辺りの地理を解する人間が知れば、それなりに驚くだろうという、そんな距離だ。実際、一つ前の職についていた頃は、これよりずっと近い位置にある(今歩いている方向とはまったく逆だが)駅まで、原付で通っていたのだ。
しかし、今の職について以来、彼は歩いて出勤するようになった。
実のところ、理由らしい理由はない。ただ、この街には現在の職場には、そのほうが似つかわしい気がしたからだ。
彼が歩くのは、閑静な文教地区である。周囲には幾つかの大学や高等研究期間があり、それらに属する人達の住まいが散らばっていた。位置的には名の知れた大都市の辺縁、というのが一番しっくりくるだろうか。
ここは都会であって、都会ではない。
狭く複雑な路地は確かに都会らしく、無彩色な石とコンクリートで構成されているが、不思議な佇まいをしていた。
斜めに延びる石畳の先の陰影も、不意に現れる小さな祠も、規則性を持たない四ッ辻も。ほんの数キロ圏内には世界の不夜城たる大都会があるはずなのに、世界中の雑音をそぎ落としたかのような沈思と厳しいほどの静寂の中にあった。
曖昧な輪郭を持ちながら、鮮やかな存在感で静かに佇む。不思議な空間だ。
それに影響されるのか、行き交う人間もどこか不思議な空気をまとっている。まあそれは、少々変わり者の学生や教授らが多いといわれる大学が集まっているせいもあるのだろうが。
脇には名も知らぬ花が吹き零れるように咲く石階段を降りながら、筒井康隆か小松左京か、SFとファンタジーとリアルの境界上にあるような、不思議な場所だと笠井は密かに思っていた。
そう、自分がこんな場所で働いていることが、不思議で。
そして自分をこの場所へと誘った親友もまた、不思議だった。
凄まじいまでの才気の持ち主だった。
天才とはああいう人間を指すのだと知った初めての人間だった。
好きなことにはとことんのめり込み、驚きを通り越して呆れるほどの結果を生み出すかと思えば、至極簡単な単純作業が苦手であったりした。
周囲がどうでもいいと思うことに目を輝かせ、気がつけば周囲を巻き込んで世界を動かす。
とにかく個性的で、とにかく何にでも手を出して、そして何かを手に入れる。傍にある手の中に、何かを落としていく。
中学高校、楽しい6年間を過ごせたものだと思う。
あまりに共に過ごした6年分の記憶が濃すぎて、居ないという事実をリアルとして認識するまで、多少の時間を要したくらいだ。
卒業と同時、彼の消息はふつりと途絶えた。
それはいっそ奇妙な程で、同時にそんな鮮やかさまでが彼らしいと思った。
『あのね笠井オレ今度お店出すことにしたんだ、一緒に働らこうよ!』
唐突な電話に、即日会社に辞表を提出したのは、あの鮮やかさにもう一度触れたかったからかもしれない。
「‥‥とかなんとか言いつつ、その店ってのがコンビニってあたり、よくわかんない日常っぽさがあるよな」
呟いた声は、遠く聞こえる環状線電車の疾走音に混ざって消える。
耳障りな音の筈がどこかノスタルジックな音に思えるのは、まだ夜も明けきらない早朝なことと、この界隈の雰囲気もあるのだろう。
笠井の働くコンビニエンスストアは、この文教区のほぼど真ん中に位置する。
元あった店を譲り受けたわけではなく、店を新築し新規開業したらしいのだが、一体どんな手段でこんな場所に土地と営業許可を得たのだか、笠井は不思議に思ったものだ。
コンビニといっても、全国津々浦々に店舗を持つ、大フランチャイズ傘下ではない。
同名のコンビニは他にもあり、定期的に支店長会議も招集されていることから会社組織であることは間違いないのだが(さすがにそこまで怪しいところに勤めるわけにはいかない)、なんというか‥‥なんというか。
アイツらしいな、と思ったのは確かだった。その一言で終わらせるのも微妙ではあるのだが、もっとも納得しやすい理由なことも確かだ。
笠井はリズムよく早朝の石段坂を降りていく。そこを降りきり、ショートカットに石垣を飛び越えれば、到着だ。
まだ明けやらない薄闇の中、薄いシェードをウインドゥに掛けているもののそれでも皓々と明るい光が、笠井の視界に飛び込んでくる。
見慣れた構えの店舗に、笠井はわけもなくほっとした。
基本的には24時間営業の店である。昼夜を問わずまんべんなく来客がある辺り、さすが時間に縛られない学徒の街、といったところか。
腕時計を見る。この曜日のこの時間ならあの先生とあの学生がいる頃だろう、それから‥‥
「笠井」
「あ、不破。おはよう」
既に聞き慣れた声に、仕事意識とプライベートをハーフにした笑顔を向けて挨拶をする。振り返れば、店から漏れる明かりにうっすらと姿を浮かび上がらせた痩躯があった。黒を纏った姿は、無表情とも相まってどこか非現実的な印象を受ける。
といっても、勤め始めてからこちらですっかり馴染みになった今となっては驚くことも無いのだが。
「今日は少し早いね。これから研究室?」
「いや。朝なことに、今しがた気が付いてな。帰るわけにもいかんから、とりあえずのカロリー確保に来た」
「ああうん、なんていうかもう諦めてるけどさ、もう少し人間らしい時間で動いたほうがいいと思うけど」
「む?特に今の通りで支障はないが」
「あーもー‥‥昨日はちゃんと食べたわけ?いつぶりの食事だよ」
「‥‥‥‥笠井、今日は何日だ?」
「もういいよ‥‥」
笠井はため息をつくと、先に立って店の中へと入る。自動ドアではない硝子扉を軽く押えた辺りは、まだ客と言う認識が多少あった。
この不思議な立地にある不思議な店は、やはり不思議な客が多かった。まあ、多かれ少なかれ学問研究に身を捧げたような人間はどこか浮世離れした雰囲気の者が多いわけだが、その中でも今招き入れた客はとびきりだ、と笠井は思う。
詳しい素性は知らない。この界隈に存在するとある大企業の研究機関の職員だというのだけ、一度首から提げたIDに目を留めたときに淡々と説明された。
同い年だということも(これには驚いた。かなりの地位だというのは、一度同道していた部下らしい人間の接し方で解った)。
そしてなによりその放つ雰囲気が、忘れようも無いほどに、似ていた。
「不破!」
「む、藤代か」
どういうわけか聞き逃せない、そんな不思議な力がある、親友であり笠井の直接の上司である支店長の声に、不破が淡々と声を返した。視線を追って、笠井も振り向く。
「なんでお前いるの、今渋沢さんのシフトだろ」
「うわヒドイ笠井さいしょがソレ?!挨拶しようよ、挨拶!」
「はいはいおはようございます店長。で、渋沢さんは?」
「うう、クールなんだからー‥‥キャプテンなら出前だよ。三上センパイんトコ。腹減って動けないってサ」
「まったく、どいつもこいつも‥‥」
カラカラとした声音で軽やかに告げられた台詞に、笠井は緩く頭を抱えてため息をついた。
新進気鋭の画家として評価を得始めている学生時代の先輩が、この付近にアトリエを構えていることは知っている。そして、現在同僚であり過去は部活の主将でもあったひとが、足繁くかよって世話を焼いていることも。
「三上さんも、あの生活能力のなさはどうにかなんないのかな」
「なんないっしょ、キャプテンが居たらなりようがないよー」
「うわ凄い納得できる理由だよそれ‥‥」
一言の反論も出来ない理由をこれまた軽やかに言い切られ、笠井は頭を抱えたままゆるく首を振った。その拍子に、視界の端にすっかり忘れていた黒いコートの縁がうつる。慌てて顔を上げて何事かを言おうとしたのだが、その前にいつの間にか不破の隣りに並んだ藤代が、ニッコリと笑ってその手に何かを押し付けていた。
「不破、寝てないっぽい顔してるねぇ。睡眠不足は美容の大敵。そんなときはビタミンとおいしい水ね!」
「む、」
「あとごはんだね、何がいい?の前にちゃんと食べてる?っつーか、三食うちに来て買ってってもいいからさぁ、せめてカロリーメイトだけとか止めようよ」
「あれで栄養は足りているぞ」
「ダメだって!今日はキャプテンがチョー張り切って『対三上センパイ完食大作戦弁当ウルトラスペシャル!』作ってったからさ、それがいいよね」
言い切った藤代は、不破が何かを言う前に既にその『対三上センパイ完食大作戦弁当ウルトラスペシャル!』を手に取り、レンジに放り込んでいた。
因みにこのコンビニで扱う惣菜その他は、半分ほどは全店共通の惣菜だが、もう半分は店長の裁量で好きなものを並べている。現在の人気ナンバーワンは、栄養士の免許を持った渋沢がつくる弁当類だ。親元を離れ過ごしている学生から薄味好みの老齢の教授まで幅広い人気を誇っている。『対三上センパイ完食大作戦弁当スペシャル!』もそのうちのひとつだ。‥‥本当にこの名前で売り出す辺り(勿論当の三上はそんなことは知らない)、藤代の謎な拘りというかよく解らない度胸に乾杯であるが、それはまた別の話だ。
まったくもって余談だが、普段は『ウルトラスペシャル!』ではないので、本当に今日の弁当は‥‥というか、三上の状況が切羽詰っているのだろうと笠井は思った。
のめり込んだら飲まない食わない、そんな先輩の姿を思い出す。
彼もまた、鮮やかなまでに激しい才能の持ち主なのだ。多分に迷惑であるが。
笠井は二人から離れると、今は無人のカウンターに入った。手早く身支度して店内を見渡したが、現在はどうも客は不破を除けば居ないらしい。
一通り店内に視線を走らせたあと、カウンター内を軽く整理する。
昼間より少し光量を落とした照明が、少し淡い色で手元を照らす。笠井はカウンター下に置いてあった申送り用の店内ノートを取り出してパラパラとめくった。中には異なった書体の文字が箇条書きや短い語句で綴られている。最も新しい記事は、きっちり整った渋沢の字で書かれた本日の惣菜についてと、あとはシフト中に抜けることを笠井にわびる文が短くついていた。店長である藤代には口頭で伝えているのだろう。
とりあえず掃除でもしようかと思っていると、チリンとレンジから温め終了のサインが響いた。
「藤代」
「はいはーい」
振り返りもせずに呼びかけた声には軽やかな返事。温め専用のレンジが開けられる音に、棚から割り箸とパウチされた手拭きをセットしたビニール袋をカウンター上に置けば、にゅっと背後から伸ばされた腕がそれらを浚っていった。
ガサガサとビニール特有の掠れた音が静かな店内に響く。
「不破、水持った?うんこっちにも入れとくから。これはバナナとオレンジのミックスジュースね、ビタミンちゃんと摂って。サプリは重ねて飲む必要ないからね。今日のウルトラスペシャルはちょこっと高カロリーだからね、ちゃんと食べて。肉食べて、お豆さんも食べて。あ、よく噛んでね」
藤代の流れるような台詞を笠井は遠く聞く。
誰かの世話を焼く親友というのは不思議な光景だと、不意に思った。
藤代の周りには常に人が居た。それは笠井自身であるし、渋沢や三上といった親しい年長者でもあったし、それ以外にも『藤代』という個人の放つものに惹きつけられて集った無数の人間達が、常に居た。
彼は、その中心。
決してじっとしているわけではなく、嵐のように周囲を巻き込んで、鮮やかに輝いていた藤代。
だから、少しだけ不思議なのだ。
「不破ァ、起きてるー?もう、ちゃんと寝て起きて、ご飯食べて、それから仕事しなよー?倒れないでよ、ホントに」
真ん中に居て、全てを持っていた藤代。
‥‥その彼が、『彼のものではない』ものの世話をする光景。
それはとても、とても不思議で、
「あーもう、なんか足りない顔してるなぁ」
「む、何かとは、何だ。具体的に言え」
「‥‥‥‥‥‥愛とか?」
(あ、納得した。)
不思議な空気。親しげなやり取り。それでいて、どこか噛み合っていないような、噛み合い過ぎておかしいような。それはとても、鮮やかな。‥‥甘やかな。
「む、愛か?つまりバソプレシン、一般に他者に対する愛着や心の絆にかかわる脳下垂体から分泌されるペプチドホルモンの発現についてだな?バソプレシン受容体遺伝子の上流部に位置するプロモーターにおけるマイクロサテライト構造が同受容体遺伝子の読み取り能力を調整することによってバソプレシンが分泌、つまり愛と呼ばれる情感が」
「不破、不破!ストップ!ていうか俺不破のその台詞1行も理解できてない!」
「ぬぅ、そうか‥‥事象を噛み砕き説明できてこそ真の理解というものなのだが」
「うん俺が馬鹿なだけなんだけどとりあえず不破には俺が愛を継ぎ足してあげたいんだけど、って聞いてる?不破ー?」
背後のやり取りをさらりと無視して、笠井はラックから箒を取り出してガラス扉へと向かう。
押し開けたガラスは体温を落としていて、笠井の指先に朝の温度を与えてくれる。外はまだ薄明かり。けれど鮮やかな太陽は、冴えた青はすぐそこに。
ふと、思い出した。
そういえばアイツは昔から、世界の中心で鮮やかに輝いて、そして好きなものを必ず手に入れてきたヤツだった。
ふ、と息をつく。
不思議な友人。不思議な、今の境遇。
『あのね笠井オレ今度お店出すことにしたんだ、一緒に働こうよ!』
「‥‥俺もお前にとっての、手に入れたいリストにいたのかなぁ」
ほろりと呟いてから、なんともいえない気分になって。
それから、なんともいえない笑いがこみ上げてきて。
不思議な友人。今は好きな相手を手に入れようと奮闘中の、鮮やかで、嵐のような、太陽のような。
鮮やかな日々は、当分続きそうだ。
title/『朝焼けパルティータ』
end.
意外な職業パラレル2。いつ書いたのか忘れました‥‥