渋沢が遠くを見ていたと思ったら、唐突ににっこりと笑った。
ので、隣を歩いていた真田は、びっくりした。

「渋沢さん?」
「え?‥‥ああ、悪い、何だ?」

思わずの呼び声に、はっとしたように振り返った渋沢が、今度は此方を見てこれまたにっこりと笑った。
ので、やや高い位置にある顔を見上げていた真田は、さっと赤くなって俯いた。

「真田?」
「あっ、い、いや、そのなんでもないし!っていうか、何?」
「は?」

突発事項に弱い。そんな真田らしいといえばらしい、なんともいえない慌てた言葉に、さしもの渋沢もきょとんとした顔で真田を見返してきたものだが、かといってその表情にはかけらも馬鹿にした調子はない。むしろ、先ほどの笑みの欠片を瞳の奥に残した優しいものだ。それはもう、くすぐったいほどに。

渋沢の笑顔は、いいと思う。

笑顔が「可愛い」とか、「綺麗」という表現は合わない。
そういう形容は、例えばきれいに整った顔立ちの親友であるとか、どこかのアイドルめいた華やかな印象の渋沢の後輩で真田のライバルであるフォワードにはしっくりくるかもしれないが、渋沢はそうじゃない。

ただ、いいと思う。にっこりと笑う渋沢は、とてもいいと思う。

「真田?」
「笑顔が」
「え?」
「‥‥さっき、どっか向いて、笑ってたから。なんでかな、と思って」

穏やかな表情の渋沢に促されて、慌てた気分を一呼吸置くことで整えた真田の言葉に、ああ、と納得したというふうな声を返した渋沢は、真田から視線を外すと、その視線の移動と同時にすっと腕を伸ばすと、とある方向を指し示した。自然、真田はそれにつられるように視線を移す。
それは先ほど、渋沢が視線を飛ばして微笑んだ方角だ。
そしてその、やや節くれだった指が差す場所にあったものに、あ、と真田は小さく声をあげた。

「ネコだ」
「そう」

短い応えが妙に嬉しそうだったので、視線を返して見上げた渋沢の表情は、これ以上ないというほどにニコニコしていた。ネコよりも、むしろその笑顔のほうに真田は目を奪われてしまった。
しかし、見上げてくる視線に今度は気が付かなかったのか、にっこりと笑ったままの渋沢はひょい、とその大きな身体をかがめると、チョイチョイと軽く差し出した指先を揺らした。どうやらネコを呼んでいるらしい。
チリンと軽やかな音が響き、真田はハッと顔を上げた。みれば、トタトタと遠くに居たネコが近づいてきていた。

にゃあ。

チリリン、と澄んだ音はネコのくびもとからだ。
成猫というにはまだまだ小さいが、仔猫というには既に身体も毛ヅヤも整った、黒猫だった。両の前肢の先だけ白く、まるでふわふわとしたくつしたを履いているようである。
クビにつけられた鈴と、差し出された渋沢の大きなてのひらに懐っこくじゃれる様子はいかにも可愛がられて育った飼い猫らしく、自然と笑みを誘われる愛らしい姿だ。 先ほどまで中腰に屈んでいた渋沢はいつの間にかしっかりしゃがみこみ、見知らぬ人間を恐れる様子もなく懐いてくる黒猫をその大きな手でくすぐっている。くるくるくる、とノドを鳴らす音がチリンと軽やかな鈴の音に混じって真田の耳にまで届いた。

「‥‥ネコ、好きなんだ?」
「ん?んー、そうだなあ、ネコというかこう、ふわふわとしたケモノっぽいのが」
「ケモノ?」
「毛のもの。ふわふわ毛むくじゃら系」
「なんだよそれ」

渋沢のどこかおかしな説明に思わずふき出した真田の笑い声が気になったのか、渋沢の手のひらに懐いていた黒猫が、にゃあ、と一声鳴いて今度は立ったままだった真田の足元にじゃれついてきた。
ジャージを履き込んでいるので直接肌にふわふわの毛が触れることはなかったが、小動物特有の高い体温としなやかな肢体の感触に真田はびくりと身体を固まらせた。

「うわ、」
「はは、いいなあ真田、懐かれたな」
「ええ?」
「ふわふわで気持ちいいだろう」
「や、服の上からだから判んないし。ってか、ちょ、動けないって、」
「大丈夫だよ、多少足を動かしてもネコのほうで避けてくれるから」
「いやでも、蹴りそうっていうかッ。ちょっと、渋沢これ、どうすれば」

足元を襲う慣れない感触に、困惑しきったその声で助けを求めた。
見下ろせば、自分の髪よりも光を透かしてやや茶色い、ふわふわしていそうな髪が目に映る。

(ふわふわの、毛のもの。だって)

不意に先ほどの渋沢の説明を思い出して、真田がなんとなく笑った瞬間、ぱちりと目が合った。
見上げてきた渋沢は、やはり笑っていた。‥‥とてもとても、いい笑顔で。

「‥‥渋沢?」
「うん?」
「や、あの、何か?」
「いや、うん。‥‥可愛いなあと思って」
「は?ああ、ネコ」
「うん、ネコもだけど、」

そこで唐突に言葉は途切れた。
同時に、真田の足元に触れていた柔らかな感触も途切れ、代わりに己の片手のひらに、温かくて柔らかな、滑らかな毛皮の感触。

「ふわふわだろう?」
「‥‥え、あ」

笑顔に促された視線の先には、渋沢の大きな手に掬い上げられるように胴を抱き上げられたネコが、びっくりしたように固まっている。
そしてその小さな頭の上には、渋沢の手に握りこまれた真田自身の手が、乗せられていた。ぴょい、と動かされた耳に手のひらをくすぐられて、指先がピクリと跳ねた。

柔らかでなめらかな毛皮の感触と、小動物特有の高い体温と。
少しざらついた、渋沢の指先の感触と。

にゃあ。

チリン、となった鈴の音に、ハッと身体を震わせた真田の横を、身を捩るようにして渋沢の手のひらから逃れ跳躍したネコが音もなく優雅に着地し、そのまま走り去っていく。チリチリと鳴る鈴がだんだんと小さくなっていくのを、真田はなんとなく耳で追いかけた。

「ありゃ、行っちゃったな」
「はあ‥‥あの、渋沢さん」
「うん?何」
「手‥‥」
「ああ」

最後まで言うことなく口ごもってしまった真田に、渋沢はさも今気がついた、とでもいった具合に返答してきた。それから握ったままだった手を丁寧な仕草で真田の体側面まで持って降ろし、絡めた指先をゆっくりと放す。それをなんとなし目で追っていた真田は、ふふ、と近距離で聞こえた笑い声に顔をあげた。

渋沢が笑っている。とてもいい笑顔だと思う。

「‥‥‥‥渋沢さん」
「可愛かったな」
「え、ああ、だな、ふわふわだった、し」
「ちょっとびっくりさせたかな?」
「いや俺ネコじゃないから分んないし」
「あっはは、そうだな、真田はネコじゃないなあ」

そういった渋沢は何がおかしいのか、暫くの間顔を伏せるようにくつくつと笑い続けていた。やはりそれは真田を笑っているというわけでもないらしかったが、なんとなく困惑した気分で真田は笑う渋沢を眺めていた。

と、不意に渋沢が顔を上げた。パチリと視線が精巧に組み上げられた歯車のように噛み合ったと思うと、にっこりと、それはもうびっくりするくらいの笑顔で、笑いかけられて。




「ああ、可愛いなあ」
「‥‥ネコが?」
「ネコも、かな」




にっこりと笑う渋沢は、とてもいいと思う。
とりわけ、自分だけに微笑んでくれるときは、尚更に。




「‥‥さ、そろそろ行こうか。郭達も待ってるんじゃないか?」
「え?あ、」

歩き出した渋沢にやや遅れて、真田は歩き出した。
トタトタと、自分よりやや大きな身体を追うようにしてついてくる気配に、渋沢がひっそりと笑み零したことは、真田の知らないことだ。




end.(08.26/2006)

タイトルのワイルドキャッツは、実は渋沢キャプテンのことです。狙った獲物は逃がしませんぞ。

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