長い歴史を持つ松葉寮の年代物の飴色の廊下は、夏が落とす光と影のとても静かな戦場だ。
その場に連なる窓という窓を開け放って、けれどそこから流れ込むのは潤んだ熱と時雨れるような蝉の声ばかり。涼なんてその気配さえ感じられない。
ぺたぺたと素足で歩く音が、蝉時雨に混じって静まり返った空間に妙に響く。
汗の滴る音さえも聞こえそうな、奇妙な酩酊と錯覚に、藤代は一度強く瞬きをした。

「‥‥‥‥あれ?」

だから、それは最初幻覚なのかも、と思ったのだ。

「珍しーの‥‥。」

大きく開け放たれたドアを、藤代は不思議な気分で見つめたものだ。

夏らしい夏に身を浸している松葉寮では、娯楽室のような共有スペースを除けばエアコンはごく限られた時間にしかつけられない。況してや、帰省者の多い夏休み終盤ともなれば尚更だ。
しかしながら、人数が減ったからとて夏がその攻勢を緩めてくれるわけじゃない。夏は相変わらず夏らしく、居残った少年達にこれでもかと焼けつくような熱を投げつけてくる。
そんな中、すこしでも通気性を良くしようとドアを開け放ったままにするのは、夏のこの寮にありがちな光景だった。端からプライベートなどあってなきが如しの寮生活、それを躊躇するものは少ない。
しかしながら、この部屋に住む住人は、一人は完璧な笑顔で、一人は冷たく研ぎ澄ませた視線で辺りを払う、そんな種類の人間で。
ドアを開け放ったままにするようなタイプではなかったのだけれども、と。

「センパイ‥‥?」




小さく呼びかけながら覗き込んだ部屋は、夏の闇に沈んでいた。




ドアから正面に真っ直ぐ抜ける窓が開け放たれている。
脇に蟠ったカーテンはそよとも揺れることなくじっと窓の縁に佇み、反響する蝉時雨を本物の時雨さながら打たれているようだった。
窓から差し込む鋭角な白光が、逆に昼に澄む闇を際立たせている。
描かれるのは白と黒の鮮やかな文様。

飴色の床と。そこに横たわるひとの、身体とに。

「三上センパイ」

惹き込まれるように踏み入れた部屋は、窓から侵入する蝉時雨にうるさいほどであったのに、奇妙な静寂があった。
素足で歩く足音は、ヒタヒタと水際を歩いているようだ。

「センパイ、ねえ、寝てるの?」

零れた言葉は知らず、密やかな声になった。

傍らに膝をついたが、起きる気配は欠片も無い。
もともと寝起きの悪いひとではあるけれど、それ以前に気配に聡いひとでもあるので、こうして無防備に寝ている姿というのはいっそ奇妙ささえ感じてしまう。‥‥触れては、いけないような。

静かに上下する胸をじっと見る。
ランニングシャツの襟ぐりから覗く鎖骨は汗にじっとりと濡れている。枕も無く寝転んでいるせいで少し仰のいた顎の先、少しだけあいた唇からは寝息は聞こえなかった。蝉時雨に紛れているのか、それとも。

「‥‥ッ、」

掠めた唇の熱さに、藤代は身体を跳ね起きさせた。

自分のした行為に思わずあげかけた声を、慌てて飲み込む。それでは足らず、拳を己の口元に強く押し付けた。汗に濡れた手の甲が唇に触れる。
先ほど触れた三上の唇の、乾いた感触を思い出す。




開け放ったドアと窓、動かない大気を震わせるように響く蝉時雨。
ついた膝からじんわりと、這い登ってくるような温んだ熱は夏に晒された床の体温。
夏の時雨が全身を貫く。内側に染み込んでくる熱は静かにけれど荒々しく身体を浸していく。

「‥‥センパイ、」

この心を、満たしていく。




夏の闇に沈む部屋で、藤代は静かに眠るひとの名前を呼んだ。







title/『夏嵐』
end.(08.27/2006)

ちょっと笠三のリスタートに似てしまいました。もうちょっと別の話だったのですがそれはまた独立させよう。



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