朝、窓を開けると翼をつけた三上が矢を撃ちまくっていた。
渋沢の朝は早い。
これは朝練があるからなのだが、それを抜きにしてもやたらと早い。これは勿論本人も自覚していて、まだ眠りの国の住人であるルームメイトを起こすこともなく(さすがに3年目ともなれば慣れたものである)大きな身体で静々と身支度を整え、昨晩から用意しておいたお茶セットで緑茶を飲む、というのが渋沢の朝の日課となっていた。
カーテンをひいたままの窓からはまだ暗い、ぼんやりとした朝の気配が差し込んでいる。
そしてまだ明けやらぬ街の空白にも似た静けさが‥‥
「‥‥何の音だ?」
‥‥静けさが、あるはずの窓向うから聞こえてくる音は、風鳴りにも似た音。否、それよりもずっと鋭い音である。それも断続的に、しかもごく近くで。
渋沢はしばらくその音を聞いていた。やむ気配はない。
チラリと布団にくるまったままのルームメイトを見遣る。起きる気配はない。
渋沢は右手に緑茶の注がれた湯飲みを持ったまま立ち上がると、躊躇うことなく窓へと近づき、カーテンごと鍵をかけていなかった窓を引き開けた。
光の軌跡が、視界を焼いた。それから目を射た、美しい純白。
「‥‥‥‥‥ええと、三上おはよう」
ずいぶんと間抜けなことを言ってしまった気がした。いや、正しいのだろうか。起き抜けに顔を合わせたルームメイトに、朝の挨拶は正しいはずだ。
たとえ今まさに布団の中に存在を確かめた彼が、足場なんて皆無の3階の窓の桟に腰掛けていようと。
光り輝く弓矢を無造作に掴んでいようと。
見慣れたその背に、見慣れない純白の翼を背負っていようと。
現実だろうか、と渋沢は考えた。殆ど無意識に握っていた湯飲みから茶を一口飲んだ。あたたかい。どうやら現実らしい。
その証拠に(というのもおかしな根拠ではあるが)、上空へと弦を引き絞っていた三上(翼付き弓矢付き)は、驚いたように振り返ったではないか。
「何だお前、俺が見えんのかよ」
「見えるもなにも、見えるから声をかけたんだが」
その返答は三上(翼以下略)のお気には召さなかったらしい。驚きに見開いていた見慣れた真っ黒な目を眇めて、渋沢含めた寮内の人間がよく見る不機嫌そうな顔で何事か小さく悪態をついた。
が、それ以上の何かを双方が言う前に、三上は素早く振り返るとそれまでだらりと提げていた弓を一動作で引き絞り、光り輝く矢を空へと放った。
風を斬る凛とした音が渋沢の耳元で鳴る。室内で聞いていた音だ。
ふわりと舞った風が三上を取り巻いて、その背の純白を緩やかに撫ぜて吹き過ぎた。その翼からか、芳しい香りが一瞬渋沢の鼻を掠めた。
そのまま、暫く無言で三上は矢を放ち続けた。
腰に提げた(穿いているジーンズは先週一緒に買い物に行ったときに買っていたもので、足元はお気に入りのスニーカーだ)矢立てから複数の矢を抜き、無駄のないフォームで弦につがえると3本同時に矢を放つ。白い光の軌跡は、まだ明けやらぬ黎明の空を駆けて、中空で不意に消失する。時折り消えないままに地表に落下している矢もあるが、フォームからは想像できない驚くほどの飛距離の其れの落下点を渋沢は見ることができなかった。
「‥‥ええと、三上」
「何だよ」
「何してるんだ?」
「仕事中」
「仕事、か」
「そう。‥‥こんなもんか、な」
最後の一言は渋沢へではなく独り言らしい呟きで、それから一呼吸置いて、三上は構えていた弓をゆっくりとした動作で下ろした。つがえていた放たれなかった矢を、腰の矢立に無造作に放り込む。白い軌跡を描いていた筈のそれは今はごく普通の(に、少なくとも渋沢には見えた。見た覚えなど数えるほどしかなかったが)矢で、カロリと軽い音を立てて矢立の中で小さく跳ねた。
それを見るともなしに追っていた渋沢は、なんとなくぼんやりとした気持ちで顔を上げた。
万が一落ちればただでは済まないだろう高さの窓に、まるで頓着なく浅く腰掛けている、眠っているはずのルームメイト。少し長めの、今時珍しいほどの漆黒の髪を風に弄らせて座っている。眠たげな目、見慣れた少し猫背の細い身体。
背中に翼を背負っていようが、無造作に弓を提げていようが、やはり三上にしか見えない。
だから、渋沢はこれまで数え切れないほど呼んできた名前を口にする。
「三上、」
「ああ、お前には『三上』に見えるんだな」
「え?」
言葉の意味が判らず思わず返した声に、青白い空を見つめていた三上がふっと渋沢へと視線を流した。
口の端には微笑。三上が、ごく限られた親しい人間にしか見せない、とても綺麗な笑顔だ。その美しい、渋沢の好きな笑顔で、『三上』は笑った。
それだけで、渋沢はこの不思議な存在をまるごと認めてしまっていた。
「‥‥仕事、と言っていたが、またずいぶんと朝の早い仕事だな」
そんな渋沢の言葉に、三上は一瞬虚を突かれたようなきょとんとした表情で渋沢を見遣り、次の瞬間破顔した。
「ッはは、そんなん言われたの初めてだぜ!朝早いか、そっか、だよな早朝だもんな!」
「そうだぞ。この寮内だけに限ったところで、そうそう起きてる人間なんて居ないだろう」
「んだよ、お前は起きてんじゃん」
「俺は早起きが好きなんだ。あ、お茶飲むか?」
真面目くさった渋沢の言に三上が笑いながら、渋沢の右手から湯飲みを左手で受け取った。一口ぶんだけ減っていた緑茶を、かーっと豪快に飲みきった三上は、尚も笑っていた。
笑い声が背中へと振動となって伝わるのか、器用に折りたたまれた純白の翼がふるふると震えていた。先ほど感じた芳しい香りが再び渋沢を掠めた。
「いい匂いがするな」
「は?‥‥ああ、翼か。自分じゃよく分かんねぇけど、なんかそうらしいな」
「‥‥これまでにも誰かに言われたことがあるのか?」
「いや、そうじゃなくて、あー‥‥なんつーか、俺らの共通点らしいから。つっても、他のヤツに会ったことなんて数えるほどしかねーからよく知らねぇけどよ」
「そうなのか?」
「仕事中だからな」
仕事中、といった三上は、同時に口元に刻んでいた笑みを消し、目覚める寸前の空へと視線を滑らせた。
絡めていた視線を外された渋沢の胸に僅かな寂しさにも似た思いが過ぎったが、表情に出すことはなく、三上の視線を追って空へと目をやった。
「‥‥綺麗だな」
「お前は、そう思うのか?」
「ああ」
問いかけに、渋沢は迷わず頷く。
人工物に削り取られて地平線など見る影もない稜線は、けれどこの時間だけは夜と昼の境の暁に等しく染まり、えもいわれぬ美しさと、自然の強さを教えてくれる。
この地上の荒々しさ、厳粛さ、偉大さ。人の、小ささ。全てを無言で教えてくれるような美しい暁が、渋沢が早起きする、密やかな理由の一つだった。
「‥‥俺は、さっき仕事と言ったけど、厳密には仕事じゃねぇよ」
「え?」
次第に暁の紅を広げていく地平に知らず見入っていた渋沢は、僅かにひそめられた声の主へと視線を向けた。
翼を背負った三上は、その全身を暁色に染めながら佇んでいた。
「この矢で射ることができるものは、この世界を害するもの。‥‥お前、矢が射てるものは見えたか?」
その問いに、渋沢は三上の放った矢が中空で消滅していたのを思い出す。
溶けるように消えたあの矢は、あのとき、何を射貫いていたのか。
「‥‥いや」
「そっか」
そのほうがいい、と小さく呟いて三上は微かに笑った。
‥‥それから、とても静かな、とても綺麗な声で続ける。
「仕事なんかじゃない。やんねぇと駄目なことなんだ。俺が、やりたいことなんだ。‥‥だって、綺麗じゃん?」
「‥‥この、世界が」
「俺は、綺麗なままでずっと見てたいよ。‥‥お前みたいなのに、綺麗なモン、見せといてやりたいよ」
「三上‥‥」
暁色の、コンクリートの地平に光が現れる。
それは鮮やかに地上を染め抜き、そしてこの美しい世界を照らす。
‥‥美しい存在に守られて、今日も輝く。
「‥‥ッし、今日も始まったな。そんじゃ俺も行くわ。じゃな」
「三上」
浅く腰掛けていた三上は鮮やかな曙光を全身に浴びながら、軽い動作で桟の上に立ち上がった。
その動作につられる格好で仰のくように三上を見上げる渋沢の視線に、三上は目線だけで笑みを返すと、ふわりと身体を中空に躍らせる。
その存在の不思議さを分かったつもりでも、やはりあり得ない光景に(何せ視覚的にはルームメイトが3階の窓から身投げしているみたいなものなのだ)息を飲んだ渋沢であったが、次の瞬間芳しい香りとともに翼が大きく広げられたのに、再び息を飲む。
先ほどの芳しい薫りが、三度渋沢を包む。
暁の朱金に染められた翼は、これまで渋沢が目にしてきたものの中でも、2番目に美しいと思った。
「茶ァごちそーさん。‥‥ああ、それと」
ふわりと宙に浮く三上は、そのまま室内にいる渋沢に視線を合わせるように少し降下すると、そっと顔を寄せてきた。
口元には、渋沢が見慣れた少しシニカルな、けれど優しい三上の笑み。
「俺の姿な。あんま見えるヤツっていないんだけど、でも見えるときは、その人間の、一番、綺麗な存在。生涯で一番大切になる人間の姿で見えるんだってよ。‥‥『三上』、大事にしてやれよ」
頬を掠めた柔らかな感触が消えきる前に、翼を背負った三上は鮮やかな朝色の空へと消えていった。
「‥‥三上。三上、ちょっと起きろ」
「‥‥‥‥あー?‥‥ンだよ渋沢、朝っぱらから‥‥っつか今何時‥‥朝練‥‥」
「俺、お前のこと大事にするからな」
「‥‥は?」
「ちゃんと、すごく大事にするから。いつか朝日、一緒に見よう。綺麗だから」
「はぁ‥‥や‥‥、ワケわかんねぇんだけど‥‥まぁ、いつかな」
「うん」
「とりあえず今日は、お前見といて‥‥まだ寝るか、ら‥‥」
「うん」
いつか一緒に暁の空を見よう。
美しい翼持つひとが、鮮やかな世界を携えてやってくるから。
end.(04.07.2007)
天使が悪いものを射ち落として人間を守るというシューティングゲームをやっていてふと思いつきました。たくさん感想貰えたので嬉しかったテキストですウフ。
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