春眠暁を覚えず、と云うけれど。
「‥‥っちょ、ちょっと何やってんですかッ!!」
コンマ数秒のハイスピードで振り返ってのその台詞は、響き渡った打音と微妙な呻き声に続くもの。
大きなネコ目の少年が振り返った先に広がる景色は、妙に人気のない小道。けぶるような朱鷺色の薄闇に包まれて、酷く潤んだ印象を受ける。
穏やかで眠気を誘う、それでいてどこか艶かしい春の夕暮れは酷く綺麗だ。
‥‥電柱の向こう側で、蹲る陰さえなければ、の話、なのだが。
笠井は目の前(正確には背後なのだけれど)で起こった出来事に、しばし唖然と立ち尽くしていたのだが、うぅ、と尚も聞こえる呻き声に一つ大きくため息をつくと、来た道を数歩、大股で戻った。
着いた先は、電柱の傍。正確には、電柱の傍に蹲る人影の、傍。
「‥‥‥‥‥‥ホント、何やってんですか、三上先輩。」
「‥‥ッせぇよ‥‥。」
あからさまにため息を交えて、問うた応えはやけに下方から。
覇気の無い返事には、日頃の言葉に含まれる揶揄も毒も、今は欠片も見当たらない。
普段は見上げる綺麗な黒髪も、今は足下に見下ろして。
‥‥当たり前と言えば当たり前。
「歩きながら電柱に額から突っ込む人間なんて、俺初めて見ましたよ‥‥?」
「うっさいッ。眠ぃんだよ!」
季節は春。穏やかで眠気を誘う春の空気は、確かに世界を満たしているのだけれど。
だからって、歩きながら本当に寝る人が世界にどれだけいるというのか。
笠井は心の底からそう思ったものだったが、敢えて言うことはせず無言のまま、ちょっと潤んだ目で睨みあげてくるその人に、腕を差し出した。
「眠いって‥‥。春だからですか?だからって本当にそこらで寝ないで下さいよ、先輩無防備なんだから。心配だなぁ、もー。」
「アホか。寝ないっつの。」
「って、さっき現に寝てたでしょうが、歩きながら。」
「だから!それは、」
躊躇いもなく重ねられる手を、手首ごと引っ張りあげて。
己よりも背の高い身体を、なんとかよろめくことなく抱きとめて。
「お前と居るからだろ!‥‥なんつーの、安心、するから、‥‥お前の傍。」
「‥‥‥‥‥‥‥‥。本当に、もー‥‥。」
抱きとめて抱き締めた、恋人の身体は、春の薄闇に包まれて少し艶やかで綺麗だった。
春眠暁を覚えず、と云うけれど。
「ホラホラ、寝ないで下さいっ。帰りますよ。‥‥先輩ってば!」
「んー‥‥。」
半分眠るその人の、腕を引きながら歩く道々。
春眠を貪る恋人に、自分は心配で眠れそうも無いと、ため息をつきながら思った笠井であった。
title/『帰り道2・春暁』
end.