趣味の良い服を着て、物柔らかな笑みを浮かべている。
やや甘めの整った顔立ちはモノクロ写真であっても損なわれることはなく、シンプルな椅子に腰掛けて組んだ脚はすっきりと長い。
なかなかいい腕のカメラマンだ、などと益体もない事を思いつつ、渋沢は開いていた雑誌を閉じると元どおりに新刊がズラリと並ぶ書架に戻し、脇にはせて持っていた大判の写真集を腕に抱えるように持ち替えた。
購入を頼まれている資料はまだ数冊残っている。それらを探しに行こうと渋沢は書店内表示を参考に足を踏み出しかけ、何かに引かれたようにふと振り返る。
数種類の雑誌が重なってあるラックの前面に挿された雑誌は、表紙が通路からも見えるようになっている。モノクロームの絵が描かれたその表紙に、その人の名前が載っていることを視界の端に認めて、渋沢は少しだけ笑ってから、その場を後にした。
「ただいま、‥‥っと」
ドアを取りはらった戸口から踏み入れるなり、踏みつけかけた物体を、渋沢は抜群の反射神経を持ってなんとも際どいところでかわすことに成功した。結果、おかしなところに着地することになった足が床を相手に騒々しい音を立てる。
「うるさい、渋沢」
「‥‥すまない」
途端に足下から‥‥文字どおり、大きく歩幅をとって跨ぎこす形になった足下の人物から発せられた不機嫌な声に、渋沢はとりあえず謝罪した。戸口の真ん前などという非常識なところに寝転がっていたことについて言いたいこともありはしたが、いっても仕方がないことだというのは長年の付き合いでいい加減わかっていた。なによりこの部屋は、彼の『聖域』だ。どう過ごそうと主の勝手なのである。
渋沢は慎重に体勢を立て直すと、跨いでいる身体を蹴飛ばさないようにそっと足を動かす。足元を確認すれば足下の人物がつけているエプロンの端を踏みつけていたのが判ったが、目を閉じているらしい彼が何も言わないのを良いことに、渋沢はそ知らぬふりで無事向こう側へと足を着地させた。なんとなく、ほっと息をつく。すると、ふわりとこの部屋独特の匂いが渋沢の嗅覚を刺激し、渋沢は一度、緩く息を吸ってから細く長い息をついた。
「三上、これ、頼まれてた資料。悪い、一冊取扱がないって言われた。他も当たったんだけど、どこも取り寄せになるって。どうする、予約しておこうか?」
「ん‥‥いや、いい、無いならないで」
なんとかする、との声はほとんど囁くような小さなもので、僅かに動いた口元でそれと判ったような声だった。
その仕草に渋沢は眉を顰める。
「三上、お前ちゃんと寝てるのか」
「今、寝てる」
「そうじゃなくて、」
その場に膝をついてしゃがみ、渋沢は尚も仰向けに寝転んだままの三上に手を伸ばした。閉じられたままの目の上に手のひらを当て、撫で滑らせるように額を経て、髪へと指を差し入れた。指先に伝わるじんわりとした体温を揉み解すように緩く地肌をマッサージしてやると、ふう、と三上が息をつくのが見て取れた。
「仕事、忙しいのか?」
「あー‥‥いや、全然」
「本当に?」
「‥‥まぁ、そこそこに」
「で、寝てないわけか」
「だから今寝てるって」
「寝てなくて。‥‥メシは」
有無を言わさぬ口調で押し切れば、黙り込んだあとでやはり囁くような小さな声で食ってない、という返答があった。
「まったく、お前は‥‥」
ため息と共に落とした言葉に返事は無い。それでもとりあえず正直に答えてくれた友人に、渋沢は安堵とも呆れともつかぬ言葉を返したものだ。
三上亮というこの親友が、絵本作家だと渋沢が知ったのは、実はごく最近のことである。
十二で出会ってから高校卒業まで、机をともにどころか全寮制の学校の為、文字どおり寝食を共にし、分かち難い距離で過ごしてきた。勿論それ以降もだ。そんな長年の付き合いにも関わらず、長じて後の職業を知らないままだったというのは間抜けだといえば間抜けた話ではあるが、三上に言わせれば「なんとなく言いそびれてた」だけらしい。
濃密過ぎる中高時代を経て別々の大学へと進学後は、確かに様々な環境の変化が彼らを取り巻き時に嵐のように吹き荒れた。かといって疎遠になるでもなく付き合いはあったわけだが、ある時本当に偶然目にした美術系雑誌によく見知った姿が写真入りで掲載されていたときは、渋沢はそれはもう驚いたものだ。その写真と記事に添えられていた名前は渋沢の知った其れとは違うものであったが、他人の空似などと親友その人の姿を見誤るはずもない。
妙に慌てた気分で連絡をとってみれば、「あ、それ俺。」という、至極あっさり過ぎる肯定を貰い、妙に気が抜けてしまったのを覚えている。
「まさか三上の姿を雑誌でみることになるとはなぁ‥‥。しまった、記念に買っておけばよかった」
「‥‥‥‥俺はお前の姿を毎週のように雑誌だのテレビだので観てるんですけどー?ええ?Jリーガーさん?」
そんな会話を今居る部屋で交わしたのは、まだ記憶に新しい、近い過去の話だ。
ここは三上のアトリエである。
アトリエ、と呼ぶと三上は何故だか良い顔をせず、単なる作業場だと言うのだが、渋沢はやはりアトリエと呼ぶに相応しい、と考えている。
堆く積まれた資料の山、様々な画材と三上の手による数々の絵と言葉。
それは精密なスケッチからモチーフ画、詩作やラフや色彩見本まで様々だが、どれ一つとっても渋沢を取り巻く環境にはないものばかりだ。
画材を変質させない為に一定に保たれた湿度の部屋は深々と、この部屋を訪れるたび、言いようのない情動を渋沢の心に齎す。
その中心にあって絵を言葉を紡ぎ出す三上に、心を動かされる。
渋沢は三上の髪を梳くように撫ぜる。
指の間をすり抜ける感触は記憶にあるより少ししっとりと、長い。
画材を扱う作業の間は必ずつけているエプロンには、真新しい絵の具の色が落ちている。濃紺の布地の其れは、渋沢が買ってきたものだ。
渋沢の手の下で、三上は目を閉じたまま動かない。
寝ているわけでないのは、投げ出した腕の指先が一定のリズムで緩く床を打っているので分かった。その指のすぐそばには、おそらくずっと握られていたのであろう絵筆が無造作に転がっている。絵筆の先には白の強い桜色の絵の具がついていて、床に掠れた乱雑な文様を刻んでいた。濃紺のエプロンにも、同じ絵の具がところどころ散っている。
深い青に散る桜色の絵の具は儚いようでいて、同時に鋭角な鮮やかさを宿している、と思う。
意図しないものに不意に表れる鋭利で激しい美しさ。だからこそ目を奪われる。心を奪われる。
‥‥それは例えば、写真の中の、物柔らかな笑みとは対極にあって。
「‥‥何、」
「いや、モデルみたいだったなぁって思って」
「は?」
「雑誌のインタビュー。本屋で見たよ」
「‥‥‥‥ああ」
不意に零された笑い声に、三上がうっすらを目を開けたのを渋沢は手のひら越しに見る。
少し下がった目尻と相まってか、薄く開けて渋沢を見る目は酷く険悪なものに映る。が、長い付き合いでその表情を見誤る筈も無い。今は単純に、顔を作るのが面倒なのだ。
親しいが故の無表情に、渋沢はにっこりとした笑みを返した。
「うん、モデルっぽくてな。随分とにこやかで、面白かった」
「面白いってな、お前‥‥」
「いやはや、貴重な笑みだったな、うん」
「‥‥チッ」
尚も鹿爪らしい表情で頷く渋沢を、今度こそ険悪な表情で睨みやった三上は頭の上の手を鬱陶しげに払った。その勢いのまま肘をついて、上半身を起こしネコめいた大きな欠伸をした後、ばりばりと首筋を掻く。渋沢はそれを笑いながら眺めている。
「あはは、100年の恋も冷める仕草だな」
「うっせぇ、お前相手に今更だろうが」
「もっともだ」
そんな相づちに三上は軽く鼻を鳴らすと、先ほどまで指先の向うに転がされていた絵筆に手を伸ばした。
筆の先に付いている、乾きかけた絵の具を検分するように目の高さまで持ち上げ、ヒタリと視線をあてる。そのまま暫く、動かない。
渋沢はそれを、じっと見つめていた。
「‥‥この色、かな」
「綺麗な色だな」
「そう思うか?」
挟んだ言葉に、三上が視線を渋沢へと向ける。
それは鮮やかなまでに強く激しい色を宿す、創造者の目だ。
真っ直ぐ向けられる作家の目を、渋沢は正面から見返して、応えた。
「綺麗で鮮やかな、強い色だと思うよ。目を奪われる」
(心を奪われる、まるでお前のような)
視線を絡ませたままの一瞬の沈黙は、そう、と呟いた三上が再び絵筆へと視線を移したことで終了した。
それに合わせる形で軽く俯いた渋沢は、三上のエプロンに散った絵の具へと視線を向ける。
淡い桜色は濃紺の上で、潔いほどに存在を主張している。儚く強く、鮮やかで潔い。
「‥‥これでこそ、かな」
「は?何か言ったか、渋沢」
ちょうど思考から覚めた瞬間だったらしい三上が、傍らの呟きを聞きとがめたのか、緩く視線を渋沢へと向ける。
その視線に、渋沢は僅かに笑みを含ませた目線で返した。
「いや、何も。‥‥三上、メシ食ってないんなら、何か作るぞ」
「あー?‥‥あー、いや、ウチ帰ってからなんか作って。ここの冷蔵庫、なんも入ってないし」
「先に行って作っておこうか」
「いい、俺も帰る。眠いし、ハラ減った」
「ちゃんと食って、寝ろよ。‥‥何か食いたいものとかあるか?」
「お、今日はリクエストオッケー?まぁお前のメシ何でもウマいけど」
「褒めてもメシ以外は出てこないぞ」
「プリンは?」
「‥‥メシとプリン以外は出てこないぞ」
「いやメシとプリンで十分だし。ていうかそれ以外って何」
「‥‥何だろう?」
「いや、俺に訊くなよ」
そう笑って手にした絵筆を遊ばせるように振りながら、立ち上がる姿を目線で追う。
一度強く目を閉じてから大きく伸びをした三上が、バチッと音がしそうな勢いで渋沢を振り返った。
不意に正面から合わされた視線に、一瞬面食らった渋沢に、三上が笑う。
‥‥モノクロの写真の中、万人に向け品よく微笑む姿も、彼ではあるけれど。
「んじゃ、帰ろうぜ」
「‥‥ああ」
自分に、自分だけに向けられたその言葉に、渋沢は短く応えた。
ニッと笑ったその顔がとても鮮やかだと思った。
隣を歩くその姿が、とても愛しいと思った。
title/『ワイルドチェリーの肖像』
end.(2006.10.24)
意外な職業パラレル1。着地点を間違えました。
シリーズになる筈。コンビニ店長藤代、保父さん不破とシゲ、セレクトショップ店員渋沢と書道家真田!