「先輩は、ダメなひとが好きですね」
「はぁ?」
ものすごくイヤそうに顰められたその人の顔に、笠井ははっと口を押さえた。
「ナニ言ってんだ、お前」
「‥‥いえ、」
呟くつもりはなかった。
というか、自分が呟いていたことを、笠井は三上が振り返ったことで知ったのだ。思っていたことを思わず零してしまったなんて、覚えている限り初めての経験で、笠井は無闇に動揺し、顔を伏せて三上から視線を逸らした。
給湯室には人が居なかった。
当然といえば当然の話で、本来消灯時間後の給湯室使用は寮則で禁じられているのだ。けれどそこは実力主義体育会系集団の常というべきか、レギュラーメンバーや一部の人望や役職のある3年生といった、いわば権力ヒエラルキーの上に属する人間の使用は暗黙のうちに認められていた。
だからといって、いわゆる草木も眠るなんとやら、といった時間にわざわざ熱い湯や飲み物を欲しがる人間など、滅多にいない。
尤も、今日はその、滅多にいない奇特者が二人、こうしてかち合ったわけだが。
渋沢が、と三上はそれだけ言って肩をすくめた。
そうですか、と笠井はそれで納得した。
渋沢は妙なところが妙な具合に抜けている、というのは、レギュラー及び彼と親しい同級生のごく一部が知るのみの、いわばトップシークレットだ。
ダメな部分、というとなんだかネガティブな印象が強く語弊があるが、こう、妙に他愛ないことで渋沢は見ている側が驚くような失敗をたまにするのだ。重要な局面での失敗は無い。頼れる、頼もしいキャプテンがダメなのは、それはもう、ごく些細なことだ。
それはもう、周囲が笑ってしまうほどに他愛ない部分で。
周囲が、仕方ないなと手を差し伸べずにはおれないほどに、愛しい一面で。
武蔵森の絶対守護神、中学サッカー界の至宝。神様仏様渋沢様といった具合の数多の信奉者には、決して見えない渋沢のその秘密。しかし此処にいる二名は、しっかりと知っている人間であった。
深夜の給湯室で一人コーヒーを淹れていた笠井の前に現れた三上の手には、その妙な具合に抜けた先輩の愛用のポットが提げられていた。消灯前に渋沢がポットに湯をいれていたのを笠井は見ていたので、また彼の他愛ない失敗でポットの湯をなくしてしまったのだろうと、慣れた様子で親友のポットに湯を注ぐ三上の背中を見ながら、笠井はぼんやりと考えた。
三上は、渋沢の同室者だ。親友でもある。
しっかり者の渋沢に絡んで遊ぶ三上、という構図が寮内外とも一般的なのだが、その実あちらこちらでびっくりするような(ついでに脱力するような)事をやらかす渋沢のフォローをまめまめしくする三上、というのもまた、レギュラーその他の一部の人間にはおなじみの光景であった。
「アイツは何度ポットの湯を零したら気が済むんだ、ッたくよー」
背後の壁に凭れてコーヒーを飲む後輩相手に、給湯器のスイッチを入れながら三上は零す。その背中を、笠井は見ていた。
給湯器の稼動音が静かな部屋にゴゥゴゥと反響する。少量の湯は、すぐに沸くだろう。お茶一杯分、それは本当に僅かな量だ。
お茶一杯分の湯、それが渋沢が必要な量。それだけ。渋沢が余計な落胆をしないよう。渋沢の為に。
‥‥三上先輩は、いつだって。あのひとの、為ばかり。
「笠井」
その声に、笠井は肩を震わせた。片手に持っていたカップの中、冷めかけの琥珀の液体がチャプリと音を立てる。
視線は下に逸らしたままだ。給湯室の床は外を満たす夜の色にあてられてか少しくすんで暗く、それが少しだけ怖いと思った。
くだらない、女々しい事を言った自覚はある。‥‥あるけれど、でも、だって。
はーっと大きく、三上がため息をついた。
視界の外のその音に、笠井はぎゅっと目を瞑る。カップを握る手が震えているのが自分でもわかったけれど、どうしようもなかった。今は三上の視線に晒されたくなかった。‥‥大好きな人の、呆れた視線なんて見たくなかった。
「‥‥あのな‥‥。別に好きだとかどうとかそういうんじゃなくて、単に渋沢がああいうヤツだからこうであれだっつーか‥‥ああもう、なに言ってんのかわかんねーなコレ。‥‥あー、と」
ゴゥゴゥと次第に音が高くなる給湯器音に三上の声が混じる。軽い舌打ち交じりのその声は、呆れというより困りきった風なひどく珍しいもので、笠井は思わずといった具合に顔を上げた。
「三上先‥‥」
言葉よりも早く、引き寄せられた。
冷えてしまったコーヒーは指先からカップごとさらわれて、代わりに絡められた指先はひどく熱かった。抱き寄せられた身体は、ひどく心地よかった。
「別に、渋沢がどうとかってんじゃねーよ。分かってるよな?」
「‥‥ごめんなさい」
「俺が誰を好きなのかも、分かってるな?」
「はい」
己より背の高い身体に抱き寄せられて囁かれた言葉は振動として指先から伝わって、身体じゅうに浸透するようだと笠井は思う。心地よい。短く返した謝罪に、忍び笑って抱きしめてくれたのもやはり笠井には気持ちよかった。
三上は、この自分が大好きなひとは、とても情が深くて優しい。
だからちょっとダメな渋沢をほうっておけないし、‥‥だからこうして、こんなに。
ふと思いついた言葉に、笠井は思わず笑みを零す。
抱き寄せた身体の、少し低い位置からもれたその笑い声に、三上が怪訝そうに恋人の背を撫で叩いた。
「笠井?」
「‥‥‥‥やっぱり先輩、ダメなひとが好きなんですよ」
「ああ?だっからお前、人聞き悪いこというなって、」
「だって俺、三上先輩がいないとダメだから」
「‥‥は、」
「だからやっぱり先輩、ダメな人が好きなんですよ、そうでしょう?」
「‥‥‥ッ」
己の言った言葉がなんだか妙におかしくて、笠井はクスクスと忍び笑う。
二人の背後では、給湯器がゴウコウと唸っている。
お茶一杯分のお湯が沸くまでもう少しだけと、笠井は改めて優しい大好きな人に、抱きついた。
なんともいえないため息が頭上から聞こえたけれど、抱き締められた心地よい腕はほどけなかった。
title/『winter warmer 3』
end.(11.19/2006)
「寒いのが嫌い」という俺設定を大前提にウチのサイトの笠井は成り立っています。
そして相変わらず三笠に見えるっぽいのも大前提。
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