x
3
-2x
2
-x+2=0
随分昔にお土産でもらった代入数学の本をパラパラとめくりながら時間を潰す。
久しぶりに入った書庫の奥には他にもそういった本が眠っていて、うちきっかり半分は兄弟が
「イギリスから貰ったんだけど、面白くないんだぞ!」と放り出して僕に寄越したものだ。
実は僕も同じ物を貰っていたのだけど、そうと言い出せなくて結局同じ本が2冊ずつある。
だから『イギリスさんから』と書かれた棚の半分は丸々アメリカの物なのだ。
あの時は要らないと言ってたけど、きっといつか手に取りたくなる日が来るだろうと思って全部取ってある。
だって僕らは兄弟だから。
僕が捨てられないものは、多分アメリカも捨てられないのだ。
それにしても、と窓越しに空を見上げる。
今日は空が荒れてる、着陸に手間取らないといいけど。
……着陸と限定しないまでも、何かで不都合があったから遅れてるんだとは思うけど。
だからこうして時間潰してるんだし。
手元の本を閉じて、窓際に向かう。
ガラス越しに伝わる気温はもう冬が近い、そういえばクマ吉さん最近眠そうだっけ。
そもそも飛行機が飛ばなかった、なんてことないよね?
うん、ありそうで怖いなぁ。
はふ、と呼気を逃がす。ため息にはしたくない。
「幸せを運んでくる妖精はすっごく軽いから、溜息をついたら吹き飛ばされちゃうんだぞ」って
小さい頃あのひとが教えてくれたことを、そのまま信じているわけではないけれど、なんとなく。
数年ぶりに陛下が来て下さるとのことでどこか街中がそわそわと賑わっていた時期が過ぎ、
慌ただしさも一段落したところでイギリスさんから連絡が入ったのが、先月の初旬。
「陛下も戻られたことだし、俺も仕事が落ち着いたからな。やっと遅れに遅れたバカンスをもぎ取った」と
喉の奥で笑いながら――多分「もぎ取った」というのは誇張表現ではなくて、先の仕事まで奪うように終わらせて、 「今終わった書類の期限いっぱいまで休む!」と宣言でもしたんだろう――僕の予定を尋ねたのだ。
カルガリーで何かの競技の大会があったりケベックで週末ごとに紅葉のイベントがあったりで
ほぼ毎日警備と治安の問題で報告が上がってきていたけど、そんなの毎年のことだからと
引き受けてくれた優秀な部下たちに感謝のキスを送って僕も来週までの休みを取った。
そうして今日、10時に着く便でイギリスさんが来るはず、だったのだけど。
律儀なあの人はいつも着いたら連絡をくれるけれど、今日はまだ連絡がない。
見上げた壁掛け時計の針はアフタヌーンティーの時間を指している。
席を外している間に携帯が鳴ってないか何度も確かめたけれど、着信もメールもないままだ。
そもそも空港まで迎えに行かないのも落ち着かないんだけど、1つだけ済ませておく仕事があるとかで、
「迎えに来てもらってもそこで待たせるのは悪いから」と断られたのだ。
それならと、いつでもお茶を淹れられる準備をして家で待つことにした。
したのだけど……来ない、なぁ。
ため息を抑えてまた空を見上げる。
まさか事故に巻き込まれたとか誘拐とかあぁいやそれはないよねだってイギリスさんだもの。
誘拐犯くらいなら素手で倒せるし「国」を巻き込む事故が起きたら真っ先に僕に連絡が入るはずだから。
そんなことをつらつら考えていると、ベルが来客を知らせた。
慌てて玄関に向かうと「よぉ」と片手を上げたイギリスさんが苦笑して立っていた。
ハグと挨拶の言葉を同時に交わす。それから、顔じゅうに降ってくるキス。
「久しぶり。連絡できなくて悪ぃな、携帯失くしちまって……」
「あーなるほど。悪天候で大西洋越えられなかったのかと思ってハラハラしました」
「ん、着陸の時に少し揺れたけど問題はなかった。そうそう、もう仕事も済ませてきたから」
「了解です。それじゃあ、今から一緒に居られますね。今お茶淹れます」
「あぁ。ありがとなマイ・シュガー、そういえばわざわざ休み取ってくれたんだって?」
「貴方の休みが取れる方が珍しいですからね、せっかくだし」
携帯を失くしたことに今更言及はしない。まぁいつものことだし。
彼が僕の所に居ることは本国も知ってるんだろうし、何かあれば僕の携帯に掛けてくるだろうから
とりあえずこの休暇中にイギリスさんの携帯を新しく誂えなくても差し当たって問題はない。
……一応元首に次ぐ重要人(国?)物のはずなのにホットラインがなくて問題がないのもどうかと思うけど。
何しろ彼が携帯を失くすのはいつものことだから(なんたって国民性だ!)、
そもそもイギリスさん宛ての大抵の電話連絡は最初から携帯以外に入るらしい。
自宅に居る時なら家の電話に、オフィスに居る時ならオフィスの電話に、そして本国以外で仕事がある時には
その国の――つまり今なら僕の――携帯やオフィスホットラインに掛かってくるようになっている。
連邦の国にはお馴染みのことで、フランスさんやアメリカももはや慣れっこで何も言わない。
一分の隙もない仕事を出来る様でいてそんな抜けた所もあるのが彼の魅力だと、みんな知っているから。
話が逸れたけど、とにかくそういうワケで理由を聞いて僕は胸を撫で下ろした。
要するに彼のいつものことだから、心配する必要はなかったってことだ。
ケトルを火にかけながら明日の予定について話しつつ、何もなくて本当によかった、と呟いた。
***
紅茶を淹れて戻ってくると、ソファに身を預けた彼が何やら目を細めて本を読んでいた。
読んでいたというか、パラパラと捲っていたというか。
緩んだ口元と慈愛の溢れる眼差しに、さっきまで僕が読んでいた本だ、と気付いた。
多分このひともそうと分かったのだろう――なにしろイギリスさんの記憶力は凄まじい。
捨てられなかったのは確かだけどいつ頃着ていたのか自分でも咄嗟に思い出せなかった服だって一目見て
「これ、お前が俺の肩より少し小さい頃のだな……なかなか背が伸びなくて、結構長い間着てたよな」って
なんということもなく言い当ててしまうのだから。
思わずその光景に見入ってしまっていたけど、ふとイギリスさんが顔を上げて笑った。
「砂時計がもうすぐ落ち切りそうだぞ?」
「あ、」
「あぁ、焦らなくていい。怪我とか火傷をしないようにな、俺の可愛い子」
……あ、呼び方が200年くらい昔みたいになってる。
本がほどいた記憶に引きずられたのかな。
たまにフランスさんと「あれからまだたった300年しか経ってない」って喋ってるけど、
300年を「まだ」って言えるんだから、あんな本見たら感覚も記憶も一瞬で戻っちゃうんだろう。
僕にはまだまだ分からない『ほんの200年』という感覚に不思議になりながらカップに紅茶を注いだ。
「どうぞ。ミルクかメイプル、入れますか?」
「ありがとう――それは2杯目に頼む、両方な」
「はい」
まだ結構熱いのにこくこくと飲み干す姿に、結構喉渇いてたのかな、なんて思う。
仕事を済ませてきたからか、この乾いた風の強い日だからか――あぁ、どっちでも。
イギリスさんが、僕の淹れたお茶で笑顔になっているのが、嬉しかった。
自分のカップを持ってソファーへ、イギリスさんの隣に座る。
触れる膝が一瞬緊張して、だけどそれからそっと擦り寄ったら笑って肩を抱かれた。
あ、薔薇と土の香りがする――それから、海の風の匂い。
飛行機で来る時代になったのにこの人はやっぱり海の香りがする、って、懐かしいようなホッとするような、
でも少しもどかしい気分の泡が心の底から浮かんできて、ぱちんと弾けた。
「――この本、懐かしいな。まだ取ってたんだな」
「はい、本棚を探していたら出てきて。他にも沢山、イギリスさんから貰ったお土産は取ってありますよ」
「結構凄い量になってるんじゃないか? あの頃は羽振りも良かったしなぁ……」
「そうですね……来てくれる度にいつも、僕達の手では抱えきれないほどの服とおもちゃと本と、
世界中で見つけた綺麗なものや珍しいものを持ってきてくれましたよね」
「俺もフランスもまだまだ現役でヤンチャだった頃だからなぁ」
今となってはそれが海賊行為や植民地からの略奪で手に入れたものだって分かるけど、
あの頃はただただ強くて大きくて温かくって素敵な兄達で、僕達はその裏側を知らずに享受していたけれど。
今にも降り出しそうな空にどうしても連想するあの雨の日の、「その前」を思い出したくて取りだしたこの本は、
どうやらこのひとにも同じ感慨を抱かせたようだった――僕の肩を放して、表紙を穏やかに撫でる。
「うーん、お前が2で俺が1で、アメリカが-1かなぁ」
「何の話……です?」
突然零された文脈も何もかも謎の発言に面食らう僕に「あぁ済まない」と笑いながら彼が指差したのは。
「この、表紙に載ってる例式の答えが俺達みたいだなって。 x
3
-2x
2
-x+2=0ってことはxは2か1か-1だろ?」
「……答えは分かるんですが、なんでその配役なんですか?」
「まず俺が1、まぁこれは『基準』だからだ。で、アメリカはそれを否定しようとするから-1だろ?
それでお前は、アメリカが否定した分まで俺を肯定してくれるから、2だ」
アメリカが否定した分を打ち消すためにまず1、それからお前自身が俺を肯定してくれるから更に1。
だからお前は2で――まぁ俺にとっての配置であって、お前から見たら違う答えがあるかもしれないけど。
解説してから「俺の感性は独特らしいから、ちょっと分かりにくいかもしれないけど」と
頬を掻きながら付け足した彼に、大丈夫ですなんとなく通じましたと肯く。
確かに、独特の感覚で紡がれるその言葉はまるで魔術書の一節を読み上げるかのようだ。
どうしてそんな例えを思いつくのか少し不思議だけど、それ自体は聞き慣れた単語で紡がれていて、
本人も迷わず滑らかに口にする、そしてその理論で導き出された結果は明確で納得のいくものだ。
けれどどこか不思議な心地がするのは――多分、イギリスさんの言うとおり感性の違いなんだろう。
だけどそれは、彼の示した方程式の答えを否定するものでは全くもってなくて、
感覚の共有が出来るのが当然ではないのだから、多分それは僥倖と呼ぶべきことだ。
けれどまぁそれは本題じゃないから今はいい。
差し当たって今、僕が言いたいことはと云うと。
「その解釈には納得です、ちょっと照れるけど、嬉しいですし。
けど、出来れば僕を-1にキャスティングしてくれませんか?」
「ん? じゃあアメリカと俺の立ち位置はどう変わる?」
「アメリカは2で、イギリスさんは1のままです。
こう、イギリスさんが『基準』なのは確かなので1で間違いないと思うんですけど、
アメリカはそれを越えようとしてたまに暴走しちゃうから2、そこに僕がブレーキかける役で-1です」
「あぁ、それは傑作だな。なるほど、その方が良いかもな」
くくっと肩を震わせるイギリスさんに、受け入れてもらったと分かって安堵する。
それから、心もち小さな声で付け足した。
「……それに、1と-1って足したらちょうど0になって調和するじゃないですか。
それってまるで対等に向き合ってるみたいで……その役どころをアメリカに持っていかれるのは」
ちょっと、妬けます。
そう続くはずだった言葉は、音になる前に霧散した。
れる、と拭ったその唇が滴り落ちそうなほど濡れていたことで理由は察してもらえると思う。
「――本当にお前は可愛いな、カナダ」
可愛すぎて、今すぐお前と溶け合って調和していまいたい。
唇がギリギリ触れる距離と悪い大人の目をした森色に囁かれた言葉が蕩けた脳髄を揺らす。
僕の唇はその直前に拭われたけど、湖水色と彼に称される目がそれ以上に濡れていただろうから
多分今鏡は見ない方が賢明だ――細身の割に力強いこの腕の中から出られればの話でしかないけれど。
『銀色と金色のお伽話』
の灯 千鶴 様よりいただきました!
なんという‥‥英加‥‥ッ!!
ハァハァしすぎて血圧上昇率がヤバイのも仕方のない話だと思います
灯様、本当にありがとうございました!!
灯様のサイトはコチラ→
『銀色と金色のお伽話』(制限/15歳以上)