石畳に二人ぶんのやや足早な靴音が響いている。
「そこの角を、左だ」
「はい」
人の気配の途絶えがちな通りを吹き抜ける風は既に冬の横顔をして、何処からか攫われてきた木の葉を気まぐれに走らせては、道行く者の視界を幻惑する。
軽やかに舞い奔る其れは、日の光さえあればきっと鮮やかな紅葉を窺えて、それなりに美しい光景と言えなくもなかったことだろう。だがしかし、すっかりと日の落ちた母国の街は暗く、見上げた空もずっしりと厚い雲に月明かりの欠片さえ窺えない。
吐く息はごく僅かに白く、靴底を通して這い登ってくる冷気は水を含んで、やや足早な歩みの足元に纏いつくようだ。
重く厳しい冬の入り口を思わせる夜に、ドイツはひっそりと息をついた。
そして慎重に歩きつつ、そっと己の隣りを歩く姿を見遣ると、吹き抜けた夜風に一呼吸ぶんの休符記号を飲み込んでから、言葉を紡ぐ。
「すまない、その、こんなに遅くなる予定ではなかったのだが‥‥」
ともかく何か言わなければと、逸る気持ちのままに言葉を紡いでみたものの、それが随分と言い訳がましいものであることに気がつき、ドイツは結局曖昧に言葉尻を濁してしまう。‥‥予定では、とっくの昔に自宅へと戻っている筈である時間帯なのに、まったく、失敗もいいところだ。
そんな事の間の悪さへの自己嫌悪交じりの苛立ちに、落ちかけたため息を飲み込ませたのは、おっとりと甘い、隣を歩く彼の声。
「やだな、ドイツさんてば、そんな謝るようなことじゃないですよ?」
「しかしカナダ、その、寒いし」
「平気です。ふふ、ドイツさんは真面目なんだなぁ。‥‥そういうところも、いいと思います、けど」
「‥‥む、そ、そうか」
苛立ちにささくれ立った言葉に染みた、ふんわりとした甘い声に、ドイツは一瞬言葉を詰まらせてから、どうにか平静を装って頷く。
‥‥不意打ちめいた甘い言葉は、きっと意識してのことではなかったのだろう。何故と言って、彼は、誰にでも優しいのだから。
そう己へと言い聞かせながら、それでも急ぐドイツの足が急に軽くなったように感じたのは。
ふんわりとした甘い声音が、カナダへの恋に溺れる若く熱い想いに優しく染みたから、なのだろう。
少し遠出をしようとカナダを誘ったのは、今日の朝のことだった。
ドイツにしては珍しく確たる予定を立てたわけでもなかった誘いを、それでも朝食時に口にしたのは、特に理由はない‥‥ことも、ない。
朝から彼の膝上に抱き上げられ、手ずからマッシュポテトを口元へと運んでもらえるシロクマに思うところがあったからだとか、どういうわけかカナダと妙に仲の良い兄が「おうマシュー、今日は俺様とゲームしようぜ、ゲーム。フランス経由で日本に貰ったのがあるからよ」などと彼の薄い肩を抱き込んで楽しそうに笑い合っただとか。‥‥改めて思い返せばあまりにも稚拙な妬心からくる誘いに、それでもふんわりと笑って彼が頷いてくれたから。
ニヨニヨと笑う兄に(「ほらヴェスト、いい加減決めてこいよー?」とすれ違い様に耳元で囁かれたのには、目だけで読んだベルリッツとアスターに兄の足を踏ませて黙らせた)玄関先で見送られ、今日はドイツさんちでお留守番しててね、などと彼を見上げてくるシロクマに言い聞かせていたカナダを伴い、ドイツ観光に出かけたわけ、だが。
「‥‥本当に、すまなかった。やはりもっときちんと計画を立てておくべきだったな」
「ですからぁ、謝ることじゃないですってば。ほら、クヌートも見れましたし!」
「まぁ‥‥、そうだが。でもこんなに遅く、寒くなってしまったし」
「平気ですって。それより、可愛かったですねぇ。クマ吉さんもとっても可愛いけど、ふふ、あの子も可愛いや」
ふんわりとした口調で話すカナダは、溢れんばかりの人波でゆっくりと会うことは叶わなかったシロクマとの短い対面にそれでも満足した風に見えて、ドイツはとりあえず安堵の息をつく。
出かけるに際してとりあえずの主目的としていたシロクマにはかろうじて会えたわけだが、その後も何やかやとまるで魔女か何かに図られているかのようなタイミングの悪さを連発し。食事場所の確保や慣れた地元の移動にすら手間取っているうちに日は暮れ、そうしてこの寒空の下、人気の耐えた通りを歩いて帰ることになり。
ドイツはちらちらと横目で隣りを歩く相手を窺いながら、安堵の吐息を就いたその一瞬後にはまた、内心で頭を抱えんばかりに己の不手際を恥じ、うなだれたものだ。
通りを吹き抜ける風は冷たく、尚更にドイツの焦りを煽る。
「その、カナダ。寒いだろう?」
「いいえ、そんなには。僕、北国ですし」
こう見えて寒さには強いんですよ?なんて。笑みを含ませた軽やかで柔らかな口調に、思わずつられて笑いかけたドイツであったが、かといってたいした防寒もせずに秋も深まった夜道を歩かせていることには変わりない。
ドイツはもう一度だけ短く謝罪の言葉を口にしてから、隣を歩く彼を急かさないように促して、足早に歩く。
「ともかく、早く家に帰ろう。‥‥ああ、ここを右にいけば近い」
「はい」
すっきりとした立ち姿は特に疲れた様子もなく、ドイツの足に遅れることなくついて来る。
己に比すればかなり細身なカナダだが、かといって女性のような華奢さは窺えない。背丈こそドイツの其れには足らないが、歩幅は大して変わらないようだ。
寒さに強いと言った言葉どおり、冷たく吹き抜ける風にもこれといって寒そうな様子も見せず、彼独特の、どこかおっとりとした空気をまとって優雅に歩いていた。‥‥見惚れそうになるのを、ぐっと堪える。
「ここを抜けてもう一度右、それから曲がり角を三つ過ぎて‥‥、どうした?」
自宅へと続くもっとも短い道筋を、確認がてら口にするドイツの横。不意にごく小さな、けれどどこか楽しげな笑い声が聞こえたのに、ドイツは思わず足を止めてカナダを見遣った。当然のように隣を歩いていたカナダもまた、足を止める。けれど、小さな笑いは尚も彼の口元から零れ落ちていた。
「その、カナダ?」
「ああ、‥‥ごめんなさい。急に笑うの、おかしかったですよね」
「いや、おかしいというか‥‥何故笑ったかの、理由がまずわからないのだが」
そう素直に言えば、その青灰色の瞳をぱちりと一度瞬かせた後、ほんの少しだけばつの悪そうな風に眉尻を微かに下げてから、瞳を逸らされる。‥‥その仕草が、無性に気になった。
「えっと、その、別にたいした理由じゃないんですよ?」
「だが、気になる」
淡い街灯の光と秋夜風に、メイプルシュガーカラーの髪がふわりと揺れたのに。
本当に唐突に、ドイツの心が震えた。
違う。それは、必然だった。
膝に乗せられて食事をするシロクマに、なんの衒いもなく彼の肩を抱いて笑える兄に、嫉妬して。ただ、自分のことだけを見て欲しくて、ただ、自分の傍に居て欲しくて柄にもなく無計画に外へと連れ出した、今日の朝から。
‥‥カナダと出会い、その恋心を自覚した、瞬間から。
この震える心がいつか溢れ出すことは、必然だった。
「気になるんだ、君のことが」
その言葉に、困ったように笑っていたカナダが息を呑んだのが、わかった。
けれど、止まらない。
段取りの悪い観光につきあわせて悪かったと、思っているのに。
冬を混じらせた冷たい風に、早く温かな場所へと連れ帰らなければならないと解っているのに。
今だと、思った。今しかないとさえ思った。
思わず伸ばした手が、自分のものより幾分ひんやりとして小さい彼の手に、触れてしまったから。
振り払われない指先に、眩暈がしそうなほどに、期待してしまったから。
「その‥‥、カナダ、」
「‥‥近道、が」
「え?」
ぽそりと零された小さな声に、ドイツは告げようとしていた言葉を思わず飲み込んだ。
仄暗い街灯の下、自分より若干小さいカナダは俯いている。綺麗に扇状に広がった睫がその微かな光を弾いてシュガーカラーに揺れ、ほんのりと色づいた頬に、影を落としていた。
‥‥否、ほんのりと、ではなかった。
ほんのりとした街灯にさえ色づいているのが解るほどに、滑らかなカナダの頬が、染まっているのだ。
(其れは、何故、)
想いが渦巻く。
冷たい夜風も暗い路地もまるでどこか遠く感じられるほど、ドイツの視線は心は、目の前の恋する相手へと向かっていた。
ふっと、俯いていたカナダの顔が上がる。ぱちりと、青灰色の瞳に、視線が合う。‥‥ああ、其処に宿っているものは。
「近道、ですよね」
「‥‥え?」
「さっきから、僕らが歩いてる道」
「‥‥あ、ああ。そうだが」
殆ど無意識にドイツはカナダに答えていた。無意識というか、フル稼働する思考の片隅でそれでも片恋相手の言葉を最優先しようとする部分が、オートマティックに応えたというべきか。
きゅ、と指先を引かれる。繋がれた手のひらが、外気に遮られ互いの体温を混ぜあわせて、熱を上げていく。
意を決したようなその声を、熱に浮かされて、聞く。
「僕が教わった道とは違う道で、‥‥その、普段歩かない場所を案内してもらってるっていうか‥‥、ぼ、僕の知らない、貴方を、教えてもらってるみたいで、ちょっと、‥‥嬉しくて。あの、僕。ドイツさんの、ことが、」
ドイツは、その言葉を最後まで聴くことは出来なかった。
正確に言えば、最後まで聴かずに己の想いを真正面から告げた。
‥‥後々、その告白を最後まで聴かなかったことを惜しいとことあるごとに思ったものだが、それはまぁ、贅沢な悩みというものだろう。
告げた言葉に青灰色の目を微かに見張ったカナダが、一呼吸置いて、はい、と一言応えた瞬間の、最高に甘く愛らしい笑顔を見れたのだから。
「‥‥その、とりあえず帰る、か」
「え、あ、えっと、はい」
促した声に、妙にぎこちない、けれどふんわりとした声が返される。
再び並んで歩き出した小路地はやはり暗く、空はずっしりと厚い雲に覆われて吹く風も冷たい。冬が間近なのだと、吹き抜ける風たちが口々に伝えていく。‥‥しかし。
「今日は、その、慌しかったのだが、‥‥よ、よければまた、どこかに出かけないか?」
「は、はい!そ、そうですねッ、あの、出かけたいです!‥‥ドイツさんと」
「ああ。そうだな、また、‥‥二人で」
「‥‥ふふ、はい」
「その、‥‥寒いな」
「はぁ、そうですね」
「手は、温かいのだが」
「‥‥そうですね」
漸く手に入れた恋人と手のひら越しの温みを分け合いながら歩く家路は、ひどく甘く軽やかに。
石畳を行く二人ぶんの靴音は、甘さを伴ってごくゆっくりとしたものに、変わっていた。
ロマンティックハイウェイ
the end.(2009.10.04)
ごく個人的なロマンティック街道
リク用に書いてたらルートさんが告白しちゃったのでダメになりましたあれぇ?(笑)