僕が覚えている彼の姿は、とても少ない。
その庇護下にあった時間と記憶を単純に比較数値化すれば、誰もが驚くだろう。当事者である僕以外の、誰もが。
理由はある。彼には当時(或いは、今も)、心から大切にしているものがあったし、自分で言うのも何だけど、僕は手の掛からない子どもだったから。彼も放置しても大丈夫と思った、というより、単に構いつけている暇はなかったんだろう。構うという発想自体がなかったのかもしれない。何にせよ彼は、忘れてしまっている。
だから、僕が覚えている彼の姿は、とても少ない。
少ないけれど、僕は、その全てを覚えている。
見上げた金髪が、太陽を吸い込んだように輝いていた。
高いところにある横顔はよく見えなくて、けれど彼が笑っているのだけは解った。
彼の腰に巻かれたシザーホルダーのベルトが、カチャカチャ揺れていた。
鉄鋏の黒に齧りあとのついた薔薇の花びらがついていた。
それがヒラリと落ちて消えてしまうのを見た。
彼を見ていた。彼だけを、見ていた。
数少ない彼の記憶。けれどそのどれも鮮明な彼の姿。
覚えている。僕は全て、覚えている。あの時も。あの想いも。
彼は、忘れてしまっただろうけれど。
シャキリシャキリと、鉄鋏の音が鮮やかに響いていた。
剪定用の其れは当時の僕には重くてとても大きくて、片手で持つことさえ出来なかった代物で。
だから当時の僕が其れを使うことはなかったし、普段は彼がいつのまにか作った薔薇園の横にある、やっぱり彼がいつの間にか作った納屋に仕舞われていて、だから、その鉄鋏が太陽の光を浴びるのは畢竟彼の来訪したときだった。
「ああ、よく育ってるな」
鉄鋏を苦もなく操りながら、彼は僕の隣りで、優しい声音で呟いた。
彼はいつも優しかった。というか、僕に対しあれこれ言うほど気を向けてなかっただけというのが正解だろうけど(その証拠に、アメリカには当時うんざりするくらい構いつけてたっていうのは、当事者である兄弟のみならず当時を知る他の国のひとにだって揶揄や苦笑交じりに言われてるわけだし)、それでもその時の声の優しさに、酷く驚いたのを覚えている。
驚いて、振り仰ぐように見た彼の横顔も。
珍しかった。何故と言って僕の記憶に最も多いのは、彼の後ろ姿だから。
当時の僕はまだ本当に小さくて、彼のことを見上げるときはいつだって首が痛かったくらいで。颯爽と歩くその後ろ姿を、いつだって懸命に追いかけていた。
僕はあんまり行動が敏捷ではないから(‥‥自分で認めるのもちょっと哀しいけど、事実だから仕方がない)ときどき転んだりもしたけれど、颯爽と歩く足音と、まるで太陽を飲み込んだみたいな金髪は絶対に見失うことはなかったから、その度起き上がっては、後ろ姿を追いかけていた。
だから、僕が彼の隣りに立つこと自体がとても珍しいことだったし、彼がそんな風に声を掛けるのも、本当に珍しかった。‥‥南に住む兄弟と仮に一緒に住んでいたなら、また違ったのかもしれないけれど。ともかく、驚いたんだ。
「地味がいいからかな‥‥少し寒いが、湿度も雨量もちょうどいいし」
歌うように紡がれるのは、綺麗な英国英語だ。
その間もシャキリシャキリと鉄鋏は仕事をしていて、その音が響くたび棘のついた蔓や葉やつぼみが、彼の足元に降り積もっていった。綺麗に花を咲かせる為の剪定作業。エプロンの上から腰に巻かれているシザーホルダーにいくらか茎や葉っぱが滑り込んでいた。棘つきの蔓じゃなければいいな、と思ったものだ。
もう一度、彼を見上げる。
珍しい横顔。けれど僕には高い位置過ぎて、よく見えない。
「きっと綺麗に花が咲く」
鉄鋏の音が彼の声に混じって響く。
歯切れの良い鮮やかな鉄の音は柔らかで鮮やかな彼の声に不思議なほどに似合っていて、だから僕は彼のことをじっと見ていた。
その指先が音もなく伸ばされ、綻んだばかりの深紅の花びらを摘んで、口に持っていくその瞬間まで、じっと。
「イギリスさん」
「‥‥ん?って、おいカナダッ」
当時の僕は、本当にまだ子どもだったから。
イギリスさんは僕の庇護者‥‥宗主国で、大概放任されてたにせよともかく面倒をみてくれていたし。だからまあ、彼のすることを真似たのは、仕方がないことだったんじゃないかなと思う。完全に真似られていれば問題はなかったのだろうけれど。
なまじ彼の丹精していた薔薇が蔓性の、要するに小さなこどもでも手の届く低位置にまで美しく花をつける品種だったのも災いして、花びらどころか毟った花をまるごと口に放り込んだ僕は、なんていうか‥‥うん、とても、苦い思いをしたものだ。涙ぐむくらいには。
「なッ、丸ごと食べたのか?!」
ガシャンと重い金属の音がイギリスさんの言葉に重なる。
フワリと空気が動いたのが判って、苦さにきゅっと閉じていた目をそろそろと開けたら、至近距離に薔薇の葉のような緑をした瞳があった。着いた膝の向こう側に、ついさっきまで謹厳に働いていた鉄鋏が投げられている。
「‥‥にがぁい」
「ったくもう‥‥当たり前だ、丸ごと食うもんじゃないんだぞ。ほら、泣くな。‥‥つぼみだけか?茎とか、棘は食ってないよな?‥‥ああいいよ、吐き出せ」
イギリスさんの言葉に頷きながら、もそもそと動かしていた口から薔薇を吐き出す。唾液を吸った薔薇は水音を立てて地面に落ちた。幾度か咀嚼された花は、形も色もぐちゃぐちゃになって、其れが本当にあんなにも綺麗だった薔薇なのか、と思った。
彼が口にしていた花びらは、あんなにも甘そうだったのに。
目の前に、深いため息が落とされた。
それに釣られるように花の残骸を見ていた目を前に遣れば、小さな僕と視線を合わせるように膝を突いているイギリスさんが、ため息をつき終わって豪奢な金色の髪をガシガシとかき混ぜていた。
「‥‥ごめんなさい」
「あ?ああ、それはいい。そっか、そういえばこの前ローズティやったよな、あれにつぼみごと入れてたし‥‥ん?ジャムだっけ」
自分の金髪をかき混ぜていた手を殆ど無意識に僕に寄越して、無造作に頭を撫でながら彼が呟く。
僕はじっと黙っていた。なぜなら彼の其れは独り言だからだ。
実のところ、答えようと思えば、出来た。僕はよく覚えていたから。
イギリスさんは滅多に僕の家には来なかったし、滞在期間も短かった。だからその間、その傍に居る間のことは、覚えていた。どんな些細なことでさえ。
彼は忘れてしまうけれど。僕は、覚えていた。
でも、彼は僕に、回答なんて求めない。自分の中で答えを探し、決着する。‥‥そういう、独り言だ。
だから、黙っていた。
ローズティもジャムも、貰ったことはないよ、なんて。
あなたがそれをプレゼントしたのは、南に住む、あなたの大切な、僕の兄弟だよ、なんて。
「‥‥ああ、まあともかく。これはそのまま食べるもんじゃないぞ」
頭を撫でていた手が離れていく。離れていく手を追うように視線を上げれば、立ち上がった彼が苦笑して僕を見下ろす視線とぶつかった。綺麗な、薔薇の葉みたいな緑の瞳だ。
「まあ、毒はないから食べられないこともないけどな‥‥ここ、花びらの根元の白い部分。‥‥そう、ここが苦いから。生で食べるときは、この部分は食べないんだ。食べるのは、花びらの先だけ。覚えとけ」
そう言って眼前に差し出された手のひらには、艶やかな花びらが一枚。
深い紅が根元にかけて色を淡くして、本来は額の中に収まっているだろう突端を、樹液に少し緑に汚れた細い指先がむしりとる。
「ん、」
緑色の指先に摘まれて差し出された花弁と、此方に注がれる彼の目を交互に見遣った。
微笑みに緩められた、鮮やかな緑の目。差し出された、艶やかな赤。
(このひとは、本当に、)
「‥‥あんまり、美味しくない」
むぐむぐと口を動かしながら正直に感想を言えば、彼はこどもの齧りあとが残る花びらを放ってから、珍しく声を立てて笑った。指を伸ばして僕の目の縁に溜まっていた涙を拭うと、そのまま無造作に手を差し伸べてくる。
僕はその指先に、小さな指を絡めるようにして触れた。
彼はなんの衒いもなくとても自然な動作で手を繋ぎなおすと、もう片方の手で投げていた鉄鋏を取り上げ、ホルダーに戻しながら歩き出した。
もちろん僕も、つられて歩き出す。
「帰ってお茶にするか。スコーン焼いてきたから、食べよう。メープルシロップつけて」
「うん」
出来る限り自然に、頷いた。声が震えないように、努力した。
引かれる手は少し強くて、颯爽と歩く足は速くて、僕は少し後ろを走るようについていく。
見上げた金髪が、太陽を吸い込んだように輝いていた。
高いところにある横顔はよく見えなくて、けれど彼が笑っているのだけは解った。
彼の腰に巻かれたシザーホルダーのベルトが、カチャカチャ揺れていた。
鉄鋏の黒に齧りあとのついた薔薇の花びらがついていた。
それがヒラリと落ちて消えてしまうのを見た。
数少ない彼の記憶。彼との、記憶。
僕は覚えている。僕は全て、覚えている。この時も。この想いも。
彼は、忘れてしまっただろうけれど。
初めて繋いだてのひらは、少し冷たかったことも。
シャキリシャキリと、鉄鋏の音が鮮やかに響く。
剪定用の其れは丁寧に手入れが為され、本来の持ち主ではない僕の手にもしっくりと馴染んで快適な使い心地だ。
切れ味の良い音を立てて葉や蔓を落としていく鉄鋏に、降り注ぐ太陽の光が反射して鋭い光を放った。
この国では珍しい部類に入るよく晴れて澄んだ空はどこか母国を思わせて、僕は少しだけ笑う。
「何だ、機嫌がいいな」
「イギリスさん」
ガサリと垣を掻き分ける音と一緒に響いた声を、僕は名前を呼ぶことで返事とした。
「‥‥また突拍子もないところから現れて‥‥ていうか、危ないですよ」
「ばぁか、俺が傷つけられることなんてありゃしねーよ」
そう言って笑った彼は、片手でごく軽く服をはたく。いくらかの小さな葉や花弁が庭作業用のエプロンから振るい落とされたけれど、その発言どおりどこにも傷を作っている様子はない。薔薇の生垣を掻き分けてきたくせに。
まあ、確かに彼の言葉ももっともと言えば、もっともだ。
彼自身が心を込めて丹精してきた薔薇たちが、その主を傷つけることなどあるはずがない。
隅々まで手入れされた彼の屋敷の広大な英国庭園は、年間を通して美しく鮮やかに彩られる。そのなかでもとりわけ美しい夏咲きの薔薇の季節に合わせて、今日は剪定作業の、いわばお手伝いだ。
落ちつかない欧州の情勢。とりわけここ暫く不穏な動きを見せるドイツの動向に、イギリスさんはずっと神経を尖らせていた。何らかの動きが必ずあると踏んだ彼は、その為の根回しを怠らない。近日中に、非公式の会合が開かれる。彼の意思に賛同する(‥‥というより、ドイツ側に敵対する国というべきかな)国が、この屋敷を訪れることになっていた。
そう、彼の大切な大切な、‥‥僕の、兄弟も。
「ま、まぁ俺がもてなす以上、どんな時でも手の抜いた歓待なんてあり得ねぇからな!誰のためでもないぞ、俺の為だ!」
‥‥まぁ、イギリスさんの言葉はいつものこととして。、ともかく、その議場や各国の面々を泊める邸内を彩るべく、開花時期なんかを調整しているのだろう。意気軒昂と庭に向かったその後ろ姿を僕は追いかけて。そうして現在の庭園内は鋏を入れられた緑の濃厚な匂いに満たされている。
イギリスさんはまるでその空気に声を掛けられたみたいに顔を上げると、一渡り辺りを見回して、微笑んだ。
『ああ、よく育ってるな』
シャキリと鳴った鉄鋏の音に誘われるように、イギリスさんの目が僕の手元に向けられる。
「なんだ、カナダお前、薔薇の剪定上手いんだな。これまでもしたことあるのか?」
「‥‥‥‥‥はぁ、まぁ。家で少し」
曖昧に言葉を濁して、僕は頷く。
自宅前の薔薇の生垣は、イギリスさんの家に来る前に手入れを済ませてきた。少し気温の低い家では、まだ春咲きの薔薇が美しく咲いている。
「へぇ。‥‥そうだな、お前んところ気候もいいし、確かに向いてるよ」
そういって朗らかに笑うイギリスさんに、僕は曖昧な笑みを返す。
『地味がいいからかな‥‥少し寒いが、湿度も雨量もちょうどいいし』
シャキリシャキリと、鉄鋏を動かす。
時折イギリスさんの短い指示が入って、それに従ってつぼみを摘んだり、枝をうったりする。この辺は生食用にと、薬剤を使わないで育てている品種だから、とりわけ入念に手を入れないといけない。
イギリスさんはイギリスさんで、素手で絡み合った垣の中に手を突っ込んで、蔓や葉の整理をしていた。‥‥いくら作業用に厚い素材の袖長い服を着てるからって。
「‥‥イギリスさん、危ないですよ、棘。手袋つけてくださいよ」
「平気。つか、手袋越しだとうまく手加減が効かねぇんだよ」
「でも、」
「ちょっとくらい痛くても、それでコイツらが綺麗に咲いてくれるならどうってことない」
垣の中を丹念に探りながら、彼は僕の隣りで、優しい声音で呟く。
『きっと綺麗に花が咲く』
「イギリスさん」
「‥‥ん?って、おいカナダッ、‥‥痛ッ」
驚いたように目を見開いた彼は、次の瞬間痛みに顔をしかめた。それでも咄嗟に引きかけた腕をなんとか止め、慎重に垣の中から引き抜いていく。
少しだけ緑に染まった指先に、ほんの少し赤味を帯びた線。
「もう、だから言ったのに」
「や、これくらいなんでも‥‥ていうかカナダ!」
「はい?‥‥これ、生でも食べられるんでしょう?」
ちょっと苦いけど。そう言い添えてむぐむぐと口を動かせば、妙に呆れたような視線と深いため息が返ってきた。まぁ、当然かな。
「苦くて当たり前だ。つぼみごと食うやつがあるか。‥‥苦けりゃ吐き出してもいいぞ」
「いえ、大丈夫です」
「そうか?」
にこやかに返せば、尚も呆れたふうな視線が寄越されたけれど、気にしない。
苦いのなんて、解ってたし。
(覚えて、いるし)
「‥‥まあ、そうは言ってもお前、つぼみごと食べるもんじゃないぞ。‥‥ほら」
言いながら彼は手近にあった花を一輪摘み取ると、そこから更に一枚、花弁を引き抜く。
綺麗な赤。そこから続く淡い色の根元を、緑に汚れた指先がむしりとる。
(覚えている、覚えているんだ)
「根元の白い部分は苦いから。生で食べるときは、根元は食べないんだよ。食べるのは、花びらの先だけな。覚えておけよ」
綺麗な、薔薇の葉みたいな緑の瞳だった。
あの日見た、覚えているとおりの瞳だった。
‥‥貴方だけが、忘れてしまった。
「イギリスさんは、」
(『このひとは、』)
「‥‥本当に」
(『本当に、』)
「‥‥‥‥い、ひとだ」
「‥‥って、え、ちょカナダ?!」
これまで聞いたことがあるようなないような、慌てた声をあげたイギリスさんを、僕は呆然と見つめる。
千数百年の輝かしい栄光をそのまま宿したような金の髪を。
膝をついてくれなくても合うようになった、薔薇の葉のような緑の瞳を。
口の中の苦みなんてどうでもよかった。
ほたほたと零れ落ちる涙なんて、どうでもよかった。
「え、あ、どうした?どこか痛いのか?ていうか薔薇が苦かったか?」
困惑したような声が、指先と一緒に差し出される。
目の縁に触れてくる指先。‥‥泣くなと言って、拭ってくれたあの日と寸分違わない指先。こんなにも変わらないくせに。
(このひとは、本当に、)
「‥‥苦い、です」
「って、やっぱり薔薇か!」
だから言ったのに!
まるで怒ったような口調で言うなり、ガシガシと金髪を掻き混ぜる。それから深いため息をついて、‥‥それから、笑って。
「お前は味覚までのんびりなんだな、ったく。‥‥ほら」
笑って、差し出された手に、おずおずと指先を伸ばす。
苦笑したイギリスさんは、僕の手から鉄鋏を取り上げて、自分のエプロンのポケットに無造作に放り込んだ。
それから、指を絡めるようにして強く手を繋がれた。
「イギリスさん、」
「剪定、手伝ってくれてありがとな。今日はもう終わって、お茶にしよう。スコーン焼いてるから。あ、メープルシロップもあるぞ」
「‥‥‥‥はい」
ぐすぐすと鼻を啜りながら返事をすれば、「ほら、泣くな」といつかと同じ台詞を言われた。手を引かれて屋敷のほうに一緒に歩きながら、僕は少し後ろから彼を見つめた。
袖の長い園芸用のシャツ、ポケットの中には鉄鋏が音を立てている。
少しだけ笑っていた、エプロンの裾には薔薇の花びら、芝を食む足音。
数少ない彼の記憶。彼との、記憶。
覚えている。僕は全て、覚えている。あの時も。この想いも。
彼は、忘れてしまうのだろう。
ローズティやジャムをプレゼントした、彼の大切なアメリカが訪れれば。
きっと彼は、僕のことを忘れてしまうのだろう。
繋いだ少し冷たいてのひらに、僕がどれほど嬉しかったかを、知らないまま。
「ほら、泣くなよ。‥‥ったく、仕方ねぇなぁ」
そういって笑ったことさえ、なにもかも。
貴方がくれたこの涙の味でさえ、僕は覚えているのに。
ワイルドローズの残影
the end.(2008.07.21)
イギリスは、カナダのことをとても可愛がってるんです。
けれど、忘れてしまう。
いろんなことを、忘れてしまっている。
大切にしていたアメリカに裏切られた痛みを、忘れてしまいたいから。
たとえそれで今この時大切なカナダを、忘れてしまったとしても。
可哀相なのは、どちらでしょうね。