(この人は、僕を忘れる、僕を間違える、とても格好良い、すごく優しい、この人 は 、 )
窓にぺたりとはりつけた手のひらを通して、微かな振動を受け取る。ああ、叩きつけるように扉を閉めたんだ。
音はしない、声も。手のひらから流し込まれた震えは、この館が石造りであるが故。きっと、以前住んでいた総木造りの家であれば、さぞ派手な怒鳴り声が聞こえたことだろう。‥‥主に、自分と良く似た声、一人ぶんの。
そんなことを思いながら、僕は窓から小さな手のひらをそっと離す。
綺麗に磨かれた窓から覗く空は、昼だというのに重く垂れ込め今にも泣き出しそうだ。
傍らに置いていた豪勢な作りの厚い本を両手でしっかりと抱きかかえるように持ち上げて、窓際から身を離した。
窓向こうの視界の隅に、駆け出していく自分よりずっと成長した兄弟の後ろ姿を捉えながら。
重厚な両開きの扉が荒々しく開く音を、視線を本に落としたまま耳で捉えた。
足音。颯爽と歩く普段からは考えられない、苛立ちも顕わな荒れた其れ。室内を横切り、彼の為だけに誂えられた特製の椅子に身体を投げるようにして座る。椅子の軋む音。それから、重い、ため息。沈黙。
僕は膝に乗せた本の頁を繰る。
柔らかな天鵞絨の感触が心地好い大きな長椅子はまだ小さい僕を半ば沈ませるように身体を包み込んでくれて、だから靴を脱いで両脚まで全部引き上げて、揃えた足の上に大きな本を広げていた。角ばったアルファベットを一つ一つ目で追う、インクの渋い匂い。学術書にも拘らず硬い表紙と背には華麗な縁金細工の装飾が施されている。
ゆっくりと文字を追いながら、何となくその装飾を指先で擦ったら、思った以上にザリリと、大きく不愉快な掠れた音が響いてしまった。
頁に落としていた顔を上げたのは、椅子に身体を投げ出して目を閉じていたあのひとと、全く同じタイミングだった。
目が合う。大きく見開かれた、鮮やかな薔薇の葉色の瞳。
‥‥ああ、やっと僕がいるの、気がついてくれた。
「アメリ‥‥ッ、」
‥‥そしてやっぱり、間違えた。
「イギリスさん」
僕は出来うる限り可愛らしい、「子どもらしい」声を出す。
実際、まだ全く子どもの自分には、対した苦でもなんでもない筈だけれど、それでもいつもこの瞬間だけは、出来る限りの「子どもらしい」声を作る。‥‥このひとの望む、このひとが愛している、「子ども」の声を。
「‥‥ああ、そうか、カナダ‥‥」
「はい、イギリスさん」
名前を呼ぶというより、殆ど独り言めいた茫洋とした声に、けれど僕は子どもの声で素直に応じる。彼の名前を添えて、従順に。
この人は、僕を忘れる。この人は、僕を間違える。
けれど、こうすれば、この人は漸く、僕を「カナダ」として扱ってくれるから。
忘れていた僕のことを、思い出してくれるから。
此方に視線を遣った彼は反射的に微笑んで、それからだらしなく大きく組んだ足を慌てて正した(僕としてはとても格好好いと思うのだけれど、このひとのいう『紳士』はそういう振る舞いはしないのだそうだ)。
背筋を凛と伸ばして座り、それから改めて、綺麗に笑いかけてくれる。
「ああ、ごめんな、そこに居たの気づかなかった。‥‥勉強してたのか?」
「はい」
膝に広げた本に気がついての言葉に頷けば、そうか、偉いなと褒められた。
それは本当に僕に向けられた優しい声音で、僕だけに向けられた優しい笑みで、だから嬉しくてぎゅっと膝の本を抱き締めた。その仕草が可笑しかったのか、彼が軽やかな声で笑う。
「コラ、そんなにしたら本が傷むぞ」
「ご、ごめんなさい」
「謝らなくてもいい。それより、何を読んでるんだ?」
重厚な椅子から立ち上がった彼は、先ほどの乱雑な歩き方とは打って変わった優雅な足取りでソファへと歩み寄ってきた。綺麗に磨かれた革靴と上品な仕立てのスーツを纏ったそのひとは、とても大きく堂々として、僕はソファの上から彼を見上げた。この人は、本当に格好良い。
視線に気がついた彼は品良く微笑み、僕の頭をわしわしと撫でながら隣に腰を下ろした。ソファのスプリングが弾んで、半ばソファに沈み込んでいた僕は反動で彼のほうへと転がってしまった。
「わぅっ?!」
「っと、大丈夫か?‥‥ああ、お前はまだ軽いなあ」
横合いからぶつかってきた僕をなんでもないように支えた彼は、そのまま一旦僕を抱き上げて、後ろから抱き込むように自分の足の間に座らせてくれた。僕の身体はまだ小さくて、このひとの腕の中にすっぽりと収まってしまう。ああ、背中が温かい。囲い込むように僕の前で組まれた彼の手にそっと触れたら、そのまま絡めとるように指先を握りこんでくれた。大きな手。強い手。温かい。
この人は、凄く優しい。‥‥だから僕は本当に、凄く嬉しい。
「‥‥うふふ、」
「ん?何だ、機嫌がいいな。何読んで‥‥『数学的原理』?」
ソファに投げ出された本の表紙を見たのか、彼が本の表題を声に出す。‥‥少しだけ声が掠れたのは、聞かない振りをする。明るく可愛い声を、心がける。
「うん。借りたんです」
「そ、うか‥‥」
誰から、とは訊かれない。だから僕も、誰に、とは言わない。
代わりに、この部屋の本も読んでいいからな、と言われたのでそれにも素直な声で返事をした。
この屋敷、ひいてはこの部屋の主は彼なのだが、同時に「僕たち」の執務室でもあるので、出入りは自由だ。もっとも、僕の兄弟をこの部屋で見たのは、もうずっと以前のことだけれど。
そう、まだアイツが、僕と同じくらいの、小さな身体だった頃。‥‥「こんな本要らない」とアイツが投げ捨てた本を拾ったのが、最後だったかもしれない。
ふと、後ろから抱き締められる腕が緩められた。
僕の手を絡めて組まれた拳もやんわりと解かれて、なんとなく心許無くて抱き締めてくれているひとを見上げようとして‥‥その前に、指先で顎をすくい上げられるようにして、仰のかされた。
その指先に欠片も逆らわずに、素直に上を向く。
強く輝く太陽の色をした金髪が、額を掠めた。
「‥‥イギリスさん?」
「‥‥‥‥ああ、お前も、青い瞳なんだな」
そう呟いて覗き込んでくる彼の薔薇の葉色の瞳を、僕はじっと見つめる。
鮮やかな緑だ。少しくすんだ(以前の保護者は、それを「お前の大地が湛えた湖水色だよ」と歌うように美しい声で言ってくれたけれど)僕の瞳とは全く違う、冴え渡った硬質な色。
僕には無い、鮮やかさ。
同じ青い瞳の、僕の兄弟が持っていて、僕には無い、鮮やかさ。
「‥‥イギリスさん」
「何だ?」
「青い瞳が、好きですか」
「ああ‥‥そうだな、青い瞳は、とても綺麗だからな。好きだよ」
嘘つき。「青い瞳」がなんかじゃないくせに。
「青い瞳のアメリカ」が、好きなくせに。
このひとの好きなアメリカは、もうすっかり大きくなった。
このひとの好きなアメリカは、もう彼を疎ましく思っている。
連日続く、アメリカと彼の喧嘩。
本当は喧嘩ですらない。アメリカが苛立って、彼は困惑して昔はそうじゃなかっただろうなんて言って、アメリカは更に荒れて。その繰り返し。
アメリカはもう子どもじゃない。それがこの人には理解できない。
「俺の可愛いアメリカ」でなくなったアイツを、この人は絶対に理解できない。
もう一度、きゅっと後ろから力を入れて、強く抱き締められる。
小さな僕の身体は彼の腕の中にすっぽりと収まって、‥‥だからこのひとは、安心する。従順な、彼の「可愛いアメリカ」に似た僕を抱いて、安心する。
「イギリスさん」
「‥‥ん?」
僕を抱きかかえた彼は、じっと目を伏せている。
温かく、優しく、強い腕。太陽のような金髪が時折頬を掠めて、くすぐったい。
この人は、嘘つきだ。この人は、‥‥本当に、可哀想な人だ。
窓越しに見た泣き出しそうな空の下、走り去る兄弟の後ろ姿を思い出しながら、僕は身体を捩って彼に抱きついた。
抱きついて、かつて僕の兄弟が、小さかったこのひとの「愛しい子ども」が。彼に告げていたのだろう言葉を、告げる。
「イギリスさん、好き。大好きだぞ」
「‥‥ああ」
強く抱き締めてくれたこの人が、僕の名前じゃない名前を呼ぶ声を、僕は黙って、受け取った。
彼の上品なスーツに零れた涙のあとなんて、きっと彼は気がつかない。
ヒトカタ、革命前夜
the end.(2008.08.17)
この人は、僕を忘れる。
この人は、僕を間違える。
この人は、とても格好好い。
この人は、凄く優しい。
この人は、嘘つきだ。
僕の大好きなこの人は、本当に、可哀相だ。
(可哀相な僕を、抱き締めてくれる人は誰もいない。)
ヒトカタ:ひとがた。人形。狭義では形代、身代わり。