出迎えてくれるのは、子どもらしい澄んだ声とたどだとしい挨拶。

「こんにちは、イギリスさん」
「ん、こんにちは、カナダ。‥‥俺は少し仕事したらすぐに出るけど、いい子にしてろよ?」
「‥‥はい」

見上げてくる大きな瞳に視線を返して、従順な返事に頷きを返す。
設えたばかりの執務室に向かう俺の背中を追って来る視線に、気がつかなかったわけではなかったのだけれど。









それから数時間後、俺は舌打ちしつつ屋敷内を闊歩していた。

「ったく‥‥」

ガキっつーのは、目を離すとすぐに居なくなる。
身体はちっせえし、突拍子もないこと考えて突拍子もなく行動するし。まったくもって、一旦見失うと見つけ難いことこの上ない。
思えばアメリカを見つけたときも何度も逃げられたものだが、‥‥ある意味この子どもは、それ以上だ。

「カナダ。‥‥カナダ、おい、どこだ?」

最近改築したばかりの屋敷内を、名前を呼びながら歩いて回る。
名前を呼ぶのはあの子どもを「カナダ」にする為。おかしな言い方だが、そういうのが最も正しいだろう。
手に入れたばかりで未だ不安定な、英領カナダ。こんな風に見失うのも、そもそも存在自体がぼんやりとしているのが原因だ。‥‥当たり前か、少し前までは別の名前で呼ばれていたんだから。
それでもまあ、何だかんだ言っても俺のところの流れも汲んでるし、最近では英語もそれなりに達者になってきたようだ。
いつもであれば、こうして呼んでいるうちにひょっこり現れるんだが‥‥。

「カナダ。聴こえてるだろ。俺はもう出かけるから‥‥出て来い、カナダ」

領内での主だった戦闘は終息しているものの、まだ十分に英国領として落ち着いているとは言えない。ワイン野郎は表向きは諦めた風だが、この先どう出てくるかは正直微妙なところだ。西やずっと南には他国も未だ居座ってやがるし、欧州やインドの情勢も気になる。
万一を考え、カナダには俺以外と一緒には屋敷から絶対に出るなと強く言い含めているが、当の本人はといえば何ら反論も疑問を呈すでもなく、ただこくりと頷いただけだ。
異を唱えない、おとなしく従順で、扱いやすい‥‥否。だからこそ、扱いづらい、子ども。

「カナダ、‥‥どこだ、カナダ」

可愛くは、ある。当然だ、だってカナダは俺の弟だ。
生まれてこちらの経過上あの隣国ワイン野郎の影響がやや強いことは否めないが、それでもやはり俺の弟であり‥‥俺のアメリカの、兄弟なのだ。可愛いに決まってる。当たり前だろう。

「カナダ」

だから、大切にしなければならないのに。




‥‥だから、こんな風に隠れて泣かれては、どうすればいいか本当に困る。




広い屋敷の長い廊下の突き当たり。小さな手で小柄なシロクマを抱き締め蹲り、スンスンと鼻を鳴らして泣いている幼子の姿に、思わず息を詰めた。見つからないよう気配を殺して、とりあえず、カナダが顔を上げても見つからないだろう場所まで引き返す。幸い張り替えたばかりのカーペットは足音を見事に吸収してくれて、角を一つ折れて完全に見えない位置にまで来てから、一つ、深く息をついた。
ため息ともなんともつかない其れは、けれど苦いものだったことは確かだ。

「ッああ、もう」

ため息なような、舌打ちなような。自分でもよく分からない言葉は、自分の感情のよく分からなさを良く分かった音をしている。‥‥いや、言葉遊びをしている場合じゃないのだけど。
あとずさって踵が当たった廊下の壁に、そのまま背を凭せ掛けた。
コツと音を立てて後頭部を壁に預けると、自然視線が上向く。
改装したばかりの屋敷。けれど、それなりに年季の入った天井の縁飾りに彫られているのは、‥‥隣国の、白百合の紋章。

なんとも言えない気分だ。

困惑している、というのが正しいのだろう。そわそわする、心の深いところを緩く抓まれている感じ。或いは、そう、何かを思い出すような。
従順で扱い易そうで、扱い難い子ども。‥‥面倒だと、俺は思っているのだろうか?

「それは、違う」

脳裏を掠めた考えを否定する声は、思考と同時に零れ落ちた。違う。それは違うと、こればかりは言い切れる。
だって、カナダは俺の弟だ。可愛い、俺が守るべき俺の弟。
カナダも、俺のことを慕ってくれている。
‥‥同時に、俺のことを疑っている。

不思議なもので、カナダから嫌われているとは全く思わない。
かなりの無理をして養い親から奪い取ったにも関わらず、カナダはどうやらそれなりに自分のことを好いてくれている、というのは、‥‥うん、自惚れではない。と、思う。‥‥多分。
ただ、疑っている。
本国と新大陸との往復は容易ではなく、どこもかしこも問題は山積している。処理しなければならない問題も懸案事項も次から次へと降っては湧いて、息をつく間もなく。
それでも時折会いに来る俺を。

隠れて泣く弟の、頭を撫でてやる余裕すらない俺を、‥‥この先いつまで傍にいてくれるのかと、疑っている。

「‥‥はぁ、」

ため息をついた。これは主に、自分の情なさにだ。
例えばこれが、本国に帰ろうとする俺に縋って泣いたアメリカほどはっきりしていたらならば、やり様もあったろう。

カナダは決して、俺の前では泣かない。きっとこの先もそうだ。
弱みなんて見せたくないのだろう。寂しいなんて言いたくないのだろう。俺は其れを解っている。何故と言って、

「‥‥‥‥ああ、なんだ」









それって、昔の俺に似てるんじゃないか。









それはもう、遠い昔の話だ。
俺はまだ小さくて、世界は目まぐるしく、いつだって痛みばかりだった。
弱みなんて見せたくなかった、寂しいなんて言いたくなかった。
だって、言ったからって何になる?周りにはひとなんて居なくて、居たと思えば剣を弓を向けられて、上司は次々代わるし、漸く会えた兄達は俺のことが大嫌いで、‥‥フランスは、始終居てくれるわけじゃなくて。だから。

「‥‥バカだよなぁ」

小さく呟いて、天井の白百合の紋章を見つめる。

最近改装をしたこの屋敷は、実際のところ建物も内装もしっかりとした作りで、やや華美過ぎる部分を除けば本当は手をつける必要は殆どなかった。
あの野郎は‥‥フランスは、カナダを慈しんでいたんだろう。アイツがカナダの為に作った屋敷一つ見ても、それがこんなにもうかがえる。
いつも傍に居て、大事にしていたのだろう。




(だって、俺も大事にされたから。)




「‥‥‥‥まあ、よく殴られたしコキ使われまくったけどなッ」

誰に言うでもない言葉が零れて、それが微妙に取り繕ってる風なのは、気のせいだ。うん。気のせい。
けれど、言えばよかったのかもな、とは少し思う。あの時、あの頃。
嫌わないでって、帰らないでって、‥‥寂しいって。
言えばよかったのかもな。言いたいのかもな。‥‥なあカナダ、違うか?

「なんつーか、さすが俺の弟だぜ」

いっそ笑いたくなった。そうだ、カナダは俺の弟。

言いたくないんだよな、そうだろう?
それがお前の矜持。「カナダ」として立つためのプライド。
だってお前、俺の弟だもの。解るよ、その気持ち。解るんだよ、俺はお前の兄だから。




「カナダ、‥‥出て来い、カナダ」

俺は再び、屋敷の中を探して歩き回っていたときと同じ声でカナダを呼びながら、けれど歩くことはせずにその場に佇む。
その場に立って、ただ名前を呼ぶ。

「スコーンを焼くから。‥‥もう暫く居るから、一緒にお茶にしよう。カナダ」

スン、スンと廊下の向うから、小さなか細い泣き声が聴こえる。
‥‥ああ、泣かなくていい。寂しがらせて悪かった。広い屋敷にひとりで放り出してごめんな?
けれど、お前は何も言わないんだろう。
これからも、また今日みたいにひとりで泣いて、けれど「なんでもないです」って言うのかもしれない。
俺のことを、まだ信じきれないんだろう?そりゃそうだよな。

でも、傍にいるから。
お前が大きくなるまで、きっと傍に居る。

「聴こえてるだろ。カナダ。おいで」

お前が俺を信じられるかどうか、それは知らない。どうでもいい。
ただ、俺は傍に居ると俺は決めた。
だから、お前の心はお前が決めろ。

「カナダ」

可愛い俺の、俺に似た弟。
一緒に居て、守ってやると約束したから。
泣きやんだら出ておいで。‥‥此処に居るよ、おいで、可愛い俺の弟。









「‥‥い ぎりす、さん?」
「カナダ。‥‥ん、お茶にしよう。行くぞ」
「‥‥はい」









抱き上げた小さな身体。
泣き濡れた目はいつか乾くだろう、その時笑ってくれたらいい。

大丈夫、お前は俺が守るよ。
大丈夫、俺はお前が好きだよ。









 Meissa al Maliki





the end.(2008.08.30)

帰らないで、寂しい、もう少し一緒に居て
好きだよって、言って
遠い昔願っていた 抱き上げてくれる腕を待っていた
だから、