「‥‥だからぁ!今日は無理だって言ってるだろ?!」
キッチンのオーブンが焼き上がりを告げる太平楽な電子音に、リビングから聞こえてくるこの上もなく苛立った声が見事に重なる。
キッチンとリビングの間にはドアがあるものの、このドアが締められているのをイギリスは見たことがない。恐らく、気ままに行動する大柄なペットを気遣う家主の意向なのだろう。
そんなわけで、恐らくリビング中に響き渡っているだろう声量の其れは、そのままキッチンにも響き渡っていた。
「は?なんでって‥‥そ、そんなの、急に言われたって僕にだって予定が‥‥、‥‥っあのねえキミ、ちゃんと僕の話聞いてるのかい?!」
小さくメイプルリーフを縫い取ったミトンを慣れた手つきではめ、オーブンを開ければ香ばしい‥‥、些か香ばし過ぎる‥‥、いやいや、いや。十分に火が通っている証だそういうことだとも!
とまあ、一体誰に対する言い訳なのか謎の弁明を胸のうちで呟きながら、イギリスは慎重な手つきで熱せられた天板を引き出した。当然その上には、美味しそうなキツネ色(‥‥を、若干通り越した焼き色)をした、お馴染みの焼き菓子の姿がある。同時に、ふんわりと広がった甘く香ばしい(‥‥と、同時にちょっぴり焦げ臭い)匂いに、イギリスは自然と口元をほころばせた。‥‥言っておくが、苦笑いではない、失敗してないんだからな。泣かねぇぞ。
「‥‥‥‥もう、本当に勘弁してくれよ。僕は休日で‥‥え?それは‥‥ああ、うん、それはまあ、そうだけど‥‥、」
キッチンに作り付けられた棚からアフタヌーンティ用の茶器一式を取り出す。それらを乾いたキッチンタオルで丁寧に拭い、マナーどおりの手順でトレイの上にセットしていく。コンロの上ではケトルがほとほとと声をあげ、沸騰間近であることを告げるのを横に聞きながら、冷蔵庫を開けた。
そう、全ては手順どおり。あとは、ケトルの湯でソーサーを温めて、プレートにスコーンを載せて、クロテッドクリームと苔桃のジャムを冷蔵庫から取り出して‥‥
「‥‥‥‥オーケイ、じゃあ今から行くよ。‥‥わかってるよ兄弟。‥‥ああ、それじゃ」
リビングから聞こえてきた、ため息のような「‥‥また後で、アメリカ」の声と携帯を閉じるパチリという音を背に、イギリスは結局クロテッドクリームも苔桃のジャムも取らないまま冷蔵庫を閉じるパタリという音へ、緩くため息を混ぜ込んだのであった。
「本当に、本当にごめんなさい、イギリスさん‥‥」
「や、お前が謝ることじゃねぇだろ。アメリカの気まぐれは今に始まったことじゃないし。仕方ねぇよ」
だから気にしないくていい、カナダ、と。
そう言外に告げて頭を撫でてやれば、唸り声ともため息ともつかない声を上げたカナダがイギリスの肩に頭を凭せ掛けるように懐いてきた。その頭を、イギリスは尚も優しく撫でてやる。
さして体格の変わらない二人が今のように隣り合ってソファに腰掛ければ目線はぴったり同じ高さで合う筈なのだが、しおしおと項垂れたカナダはくったりとイギリスに身体を預けて目を伏せてしまっていた。
悄然とした、という言葉を見事に体現したその姿にイギリスはむしろ苦笑しながら、柔らかな髪を梳いてやっていた。
「で、アイツなんだって?」
「‥‥‥‥知らない、どうせ下らないことなんだから」
すっかり不貞腐れた声を、そう言ってやるなよと柔らかく宥める。
髪を梳く手で頭を緩く引き寄せて、己の頬をメイプルカラーの髪に埋めるようにして言葉をかけた。
「まぁほら、アメリカだしな」
「うー‥‥」
隣国の兄弟からの、急な呼び出し。
こういうとき陸続きの隣国というものはさしたる時差も無く行き来できるぶん結構に厄介で、更には相手があの気侭俺様なアメリカとくれば、電話がなった時点でもう諦めるしかない。なにせ相手は大西洋を隔てた元・保護者にだって同様の電話をかけてくるヤツなのである。
件の呼び出し電話を切ったカナダは、この上もなく、凄まじく不本意な顔で暫く手のひらに収まった携帯を睨みつけていた。
まあ、誰だって完全オフ日の気持ちのよい午後、のんびりお茶とお菓子を楽しもうという時間に電話一本で呼び出されたらいい気はしないに決まっている。
イギリスはケトルを乗せたコンロの火を止め、天板にて焦げ臭い‥‥もとい、香ばしい匂いを立てているスコーンをとりあえず放置して、迎えの車を手配したり、着ていく服や持ち物をあれこれと引っ張り出したりとまめまめしく世話を焼き。
「むー‥‥」
「ほーら、いい加減機嫌直せって。な?」
そして今は郊外のこの家へと呼んだリムジンの待ち時間を、ぐずる恋人を宥めて過ごしている、というわけだ。
思えば、カナダは手の掛からない子どもだった。
恐ろしく可愛いものの、同時にやんちゃできかん坊な兄弟とは全く正反対な、けれど容貌だけは瓜二つなこどもで。ちっともじっとしていないアメリカを叱ろうと追い掛け回すイギリスの、翻る上着の裾をそうっと掴んでくるような、おっとりとした性格をしていた。
手が掛からないというか‥‥、いっそ懐かれていないと表現したほうが的確だったのかもしれない、あの頃。
それでも、アメリカの独立革命時にも小さい身体ながら凛然と立ち、彼の意志で宗主国たるイギリスの元に残り、その後も緩やかな過程を経て主権国家としての全ての権利を手に入れた後も傍に居てくれて‥‥。
おっとりと穏やかで物分りの良い子どもを、それまでとは違った意味で抱き締めたいと思ったのはいつだったか。
そう遠い過去のことではない筈なのだが、あまりに緩やかで自然すぎて、実のところイギリスは記憶が曖昧だった。都合よく言えば、なるべくしてなった結末、とでも言おうか。‥‥ああしかし、それにしたって。
「‥‥なに笑ってるんですか、イギリスさん」
口の端だけで笑ったつもりが、ゼロに等しい距離が伝えたのか、先程よりも不機嫌な声がもそもそと問うてきた。それに「なんでもない」と伝えた言葉もまた気に入らなかったのか、凭せ掛けていた頭を押し付けるようにして、イギリスに抱きついてきた。
カナダ本人としては嫌がらせというか、不機嫌を表現したかったのかもしれないのだが。
‥‥可愛いだけだっての、全く。
そうだ、昔は、こんな風に懐かれなかったのだ。
まだまだ小さかった身体、ふっくりとした手がイギリスへとそっと伸ばされることは確かにあったし、ときおり抱き上げてやってはいたものの、その度にどこか居心地が悪そうに、けれど離れるのも心許無いとでもいうように、服の裾をきゅっと握ってきていた、カナダ。‥‥あの頃も、こんな風に懐いてきたかったのかもな、なんて甘いことを考えなくもない。
もっともあの頃の自分は、もうひとりの幼子で手一杯だった面もあり、‥‥本当に、可哀想なことをしたと思う。
「‥‥けれど、まあ、な‥‥」
ほろりと零れたイギリスの言葉に、ぎゅうぎゅうと抱きついてきていたカナダがもそりと頭を動かして、視線を合わせてきた。
盛大なしかめっ面。‥‥なんとまあ、可愛い顔が、面白可愛くなってるぞ?
「何笑ってるんですか」
「いや‥‥、まあなんだ、アメリカの気まぐれなんざこれまでもあったことだろ?だから‥‥」
「‥‥リスさんはッ」
「え?」
「イギリスさんは、アメリカのことばっかり言ってて、アイツにばっかり甘いし、僕すっごく楽しくないです」
‥‥ああ、おっとりと控えめで諦めの良かったこどもはもういない。
‥‥ただ、おっとりと甘えたで俺のことが大好きな可愛い恋人が、いる。
「‥‥帰ったら紅茶淹れてやるよ、とびっきり美味しいヤツな。お前が頑張ってる間にクッキーも焼こう。ジンジャークッキーとメイプルクッキー。他にも好きなものあればなんでもやってやるよ」
「‥‥‥‥。」
「あとは、そうだな‥‥じゃあ、お前だけ」
「?」
「帰ってきたら、あとはお前の名前だけ呼ぶ。他の誰の名前も呼ばない。‥‥どうだ?」
「‥‥‥‥仕事、頑張ってきます。‥‥それ、約束して」
「おう、約束な。ほら、行ってこい。待ってるから」
きゅっと抱きついてきた恋人を、イギリスからもやんわりと抱きしめ返す。ほんのりと甘い匂いは昔も今も変わらないままだな、なんて益体もない事を考えたり。
玄関ポーチに滑り込んだリムジンから、低いエンジン音とカナダを呼ぶクラクションが聞こえた。
けれどまあ、あと少し。
兄弟の我が侭に付き合う恋人の、ほんのひとときの我が侭に、あと少しだけ時間を。
ついばむように交わした恋人達のキスは、天板の上に放っておかれている甘い焼き菓子と同じくらいに甘かった。
‥‥うん、スコーンは焼き直そう。断じて今作ったのが焦げたとか、失敗したからじゃないんだからなッ!
そんな風にやはり誰に対する言い訳ともしれない呟きを胸に落として、イギリスは再びキッチンの住人へと軽やかな足取りで戻っていったのだった。
Afternoons,Kisser
the end.(2008.09.15)
あ、焦げたって認めちゃった!(笑)
でもたぶん、また焦がす(‥‥。)
少し収まりよく書き足しました。誤字修正(09.15)