趣味というものは、基本多種多様なものだ。
料理が趣味、写真撮影が趣味、切手や鉄道模型のコレクションが趣味。ちょっと変わったところでは身体を鍛えるのが趣味であるとか、寝るのが趣味、なんてひとがいるのも知っている。
趣味に没頭している姿というのは、どのような趣味であれ誰しも楽しそうであり、幸せそうだ。それが多少奇異な趣味であったとしても、本人が幸せならば他人が口出しする事ではない。
だから、手芸が趣味、と聞いたところで、別段おかしいとも不思議だとも思わない。よくある趣味のひとつ、むしろ優雅な趣味だなぁ、と感心さえするのだ、けれど。
「‥‥イギリスさん。それってもしかして、ウエディングドレス、ですか?」
「ああ」
僅かにあけたドアの隙間から室内を覗き込み、恐る恐るの体で聞いた自分に、さも楽しげに、幸せそうな笑みで至極あっさり頷かれたときには、さすがにそれは趣味の範疇を越えていますよ、と言いたくなったのは、仕方がないんじゃないかなぁ、なんて。
カナダはつくづく思ったものだ。
聞けば、古い友人の孫娘が結婚するらしい。
「彼女によく懐いている娘でな。『どうしてもお祖母様の婚礼衣装が着たいの』といって聞かなかったらしくて。彼女も物持ちが良いから衣装は問題ないんだが、やっぱり最近の流行とは違うからなぁ‥‥。で、せめて刺繍なりして華やかにしてやりたいって、頼まれたんだ。‥‥ああ、サンキュ」
「いえ‥‥。あ、メイプルシロップいれます?」
「二杯目にな」
そんな会話をしながらも、イギリスの手元は欠片も狂わず正確な縫い取りをしていく。
チリン、と繊細な磁器特有の美しい音を奏でた茶器を慎重にサイドテーブルに置いたときも、普段ならば視線を合わせて言葉をくれるのに、一瞬たりと視線を動かさなかった。‥‥まぁ、無理もないことだとは思う。いかな刺繍が趣味のイギリスであろうが、これほどに精緻な刺繍を片手間にできるものではないのだろう。
カナダは自分用のカップにメイプルシロップを垂らしながら、美しいシルクを膝の上に乗せて手仕事をするイギリスを、ぼんやりと眺めた。
イギリスの服装はシャツにネクタイ、ベストにスラックスに革靴という、カナダの兄弟いわく「堅くるし過ぎてアレで休日だなんてちっとも休めないよ!」というスタイルだ。
カナダとしては、もしも自身がその格好で休日を過ごせと言われたならば兄弟と同じ感想を抱いたことだろうが、そんなクラシカルな衣装をごく自然に着こなすイギリスを見慣れているのもあり、彼がそうしているぶんにはさほど違和感はない。むしろそのかっちりとした出で立ちでお茶を楽しむ姿は一幅の絵のようで、密かに気に入りの光景であったりもする。
薄曇りの昼下がり、少し骨っぽい細い指先が繊細な茶器を携える姿というのは、いわく言い難い美しさがある。
もっとも、今は彼の手元にあるのはカナダが淹れたお茶ではなく、淡い鳩鈍色をした年代物の絹と、よく手入れされた針にかけたやはり極上のシルク糸なわけだが。
「手袋‥‥?」
「ん?ああ、まぁ、手垢をつけるわけにはいかないしな。普段は気にしねぇけど、やっぱり婚礼衣装だからなぁ‥‥」
言いながら絹に針を入れていくイギリスの手には、白い手袋が填められていた。礼装用の其れに似た、ごく薄いやはり絹製のものであるようだ。
見れば彼の膝とテーブルの上に置いたドレスの下にも、布地を汚さない為の布が敷かれている。いかにもドレスらしい、たっぷりとした布地はけれど今は主不在で、少し所在なげに刺繍を入れる彼の膝やテーブルの上にわだかまっていた。
イギリスの手は片時も止まらない。瞬く間になにかの意匠のようなものを縫い取り、新しい糸を掛けては傍で見ているカナダにはまるで解らない針の動きで、また新しい縫い取りをしていく。玄人裸足とは正にこのこと、文字どおり熟練の、見事な手さばきである。
「すごいや‥‥」
「あー、まぁ長年やってるからな。お前だって時間積めば、出来るようになるぜ?」
「あはは、無理ですよぉ」
事も無げに言うイギリスに、カナダは苦笑する。
カナダには針の嗜みはない。ニッティングは少しだけ出来るが、それとて随分昔に少し覚えた程度で、今では毛糸の掛け方すらあやふやだ。それで普段の生活に別段困った覚えはないし、趣味というほどの熱意もそもそもそこになかった。
けれど、イギリスは違う。彼の針仕事は、紛れもない彼の趣味だ。それも相当に年季と情熱の入った。
カナダは刺繍をするイギリスの横に持ってきた椅子に座り、紅茶を飲むふりでそっと彼を窺う。
鳩の羽毛に似た少し鈍い青銀色のシルクに木製の枠を填め、イギリスは一定の速度で針を動かしている。速過ぎるでも遅すぎるでもない。手慣れていることが解りつつ、しかしごく丁寧な、針さばきだ。
そう、この衣装への刺繍を託した相手への、深い愛情と敬意を感じられるような。
実際、彼はその古い友人を愛しているのだろう。彼は『イギリス』であり、イギリス国民を無条件に愛しているが、同時に個人として存在している以上、そこに特別な相手が出来ることはそう珍しいことでもない。
そして、その相手もイギリスのことを、深く愛しているのだろう。婚礼衣装という人生の節目に着る衣装を、プロの針職人や親族に任せるでなく「姿を変えない古い友人」である彼に任せたのは、深い敬愛と親愛、信頼の証だ。
イギリスは、自分たちは『国』だが、同時に個人であってそこに生じる感情は、一般の其れとなんら変わらない。
‥‥願うことは、きっと一つだけ。
静かに紅茶を飲むカナダの横で、イギリスは一針一針を確認しながら間違いのないように針を入れては、布をたぐっていく。薄い白手袋に包まれた細い指先が、木枠の位置を代えるたびに引き攣れて僅かに皺になった部分を、まるで何か小さな生き物を宥める様に撫でていた。
ごく優しい、繊細な仕草だった。
扱う布を傷つけることのないよう、そしてこの衣装をまとうだろう相手に思いを致し、ひたすらに一つのことを希うような。
カナダはその仕草に、記憶の深い場所を触られた気がして、思わずイギリスの顔を見た。そして目を見張る。
それは柔らかな木漏れ日のような。溢れる豊かな愛を形にしたような、美しい微笑だった。
(あ。)
不意に、その仕草に、笑顔に。見覚えがあることに、カナダは息を呑む。
刺繍や針仕事は、イギリスの昔からの趣味であった。
それこそ嘗て七つの海を駆け巡り、貪欲に、傲然と、世界に覇を唱えていた時代から、ずっと。
フランスの腕の中からイギリスの手元へと引き取られ、自分に良く似た顔の兄弟と引き合わされて一緒に過ごした短いながらも穏やかな年月、忙しい時間をやり繰りして大洋を越え会いにきてくれる兄が、カナダも兄弟も大好きだった。小さな身体で彼にまとわりつき、今思えば決して立派な体格というわけではなかったイギリスの腕に抱き上げられてあやされる時間を、心待ちにしていた。
柔らかな声で、自分たちを呼ぶ声。
本国から両手では携えきれないプレゼントを渡されて遊ぶ自分たちを視界に入れながら、瀟洒な椅子に深く腰掛け、手仕事をしていた姿。
子ども達の服を仕立てながら、気まぐれにじゃれつく小さな頭を撫でて、微笑んでいた。
『アメリカ、カナダ。可愛いお前達。どうか幸せにおなり。』
美しい微笑。ひたすらに、ただ一つだけ。
子ども達の幸せを願っていた、イギリス。
「イギリスさん」
「ん?」
思わずの呼び声は期せずして大きく、妙な緊張感を持ったもので、其れまで一度も顔を上げなかったイギリスが針を止めてカナダへと緑の瞳を向けてきた。
が、逆にカナダはその視線に言葉を詰まらせ、口ごもってしまう。
イギリスが新大陸での真に憩える時間を過ごせたのは、ほんの短い間だけであった。
彼の存在してきた年月を思えば、それこそ瞬きほどの時間と言っても過言ではないだろう。そもそも当時の彼は欧州はおろか世界中に火種を抱え、本国においては産業の大転換期を目前にして心が休まることがなかった時期だ。‥‥そして、その最中に最愛の子どもに銃口を向けられた。
雨と血と鉄錆にぬかるんだ大地に蹲ったその背中を、覚えている。
幸せは遠く、穏やかな日々は終わりを告げ、着る主を失った刺繍入りの服は彼自身の手により焼き捨てられた。
「どうした?カナダ」
「えっと‥‥その、」
あれから既に、数世紀を越した。
世界中の国々を巡る関係性は驚くほどに形を変え、悲壮な決意で独立を果たした己の兄弟も、またイギリスの生まれて以来の仇敵として敵対し続けた海峡向こうの隣国も、今ではふらりと自分やイギリスの元を訪れては気ままに茶菓子に文句を言ってみたり、戯れに愛を囁いては殴られてみたりと当時では考えられないほどに穏やかな場所へ、落ち着いている。
そして、自分は、カナダは。
こうしてイギリスの屋敷を訪れ、紅茶にメイプルシロップを入れて、趣味を兼ねた友人の依頼に嬉々として没頭する元兄を、恋人として、眺めている。
その口元の、柔らかな、美しい微笑。‥‥ひたすらに幸せを希う笑み。
「‥‥どうした、カナダ」
先と一言一句同じ台詞、少し口調をたがえて繰り返したイギリスの言葉を、カナダはキスの距離を保ったまま聞いた。
綺麗な緑の瞳に微かな驚きと、どこか面白がる風な色が混ざっているのに、カナダはここに至って初めて自分がした行動に気がついて、慌てて身を引いた。
「ふわぁ?!」
「おい、そこは俺が驚くところだろ」
手元の仕事を止めたままクツクツと忍び笑いながら、不意打ちのキスで濡らされた己の唇をチロリと舐めてみせた恋人に、カナダはわけもなく手のひらを振ってみたり顔を伏せてみたりと、いかにも慌てきった動作をしたものだ。‥‥顔が熱い。耳まで熱い。ああ、北極海の氷が解けたらどうしようまたクマ吉さんに怒られちゃうよ!
ぎゅっと目を閉じてしまえば、聞こえるのはイギリスの忍び笑いだけだ。それに、さやさやと美しい衣擦れが重なり、それから顎を指先で掬い上げられるようにして顔を上げさせられた。恐る恐るの体で瞼を上げれば、ニヨニヨと笑うイギリスと、瞬きの音が聞こえる距離で目が合った。そろりと視線をめぐらせれば、先ほどまで彼の膝を占めていた美しいシルクのドレスは丁寧にたたまれて、テーブルの上に置かれている。
そうして再び視線を戻せば、やはり面白そうに笑う緑の瞳だ。
「珍しいな、お前からキスなんて?」
どうした、構われなくって寂しかったとか?なんて。
上げさせたカナダの顎下を絶妙のタッチでくすぐりながら、目を細めてイギリスが囁く。
サイドテーブルを上に載せられたティーセットごと片手で脇へ軽く押しやったのは、テーブル上にたたんだドレスを万一にでも汚さない為と、刺繍の邪魔にならないようにと少し離れて座っていた控えめな恋人を、抱き寄せる為なのだろう。
世界にとどろく名誉か不名誉か微妙なところの名声に違わぬ、艶めいた最高にエロチックな視線や吐息、指先に、カナダはますます顔を赤くして俯こうとする。あいにく、顎を支える指といつの間にか腰に回された腕に阻まれたが。
温かな恋人の体温、ほんのり薫る薔薇と古いシルクの匂い。既に数え切れないほどに肌を合わせて、その汗の味さえ知っている仲ではあるのだけれど、恥ずかしいものは恥ずかしいのである。
「うう‥‥わ、忘れてください‥‥ッ」
「やーなこった」
どこかで聞いた物言いは、そういえばカナダの隣国であり共にイギリスに育てられた兄弟の口調と、全く同じものだった。
何のかんの言いつつばっちり目の前の存在の影響を受けている兄弟の快活な笑みを思い出し、妙にほんわかした気分になったカナダであったが、そのほんわかぼんやりした時間は、深いキスに強制的に終わりを告げさせられた。
「ん、ぅン‥‥ッ!」
深く熱く技巧的で、愛情のこもった恋人のくちづけに、カナダは思わずその身体に縋る。
細い身体だ。かつて北米の荒野に生じた子ども達を抱き上げてくれた、あれほど強く大きいと思っていた兄は、長じてみればとてもほっそりと小さな人だった。
わりと癇癪持ちで子どもっぽくてちょっと変態で、仕事とエロいことが大好きで、‥‥けれど誰よりも、愛情深いひとだ。
子ども達の幸せを、深く深く希ってくれたひと。
悲しみと痛みの時代を通り過ぎて、今また、大切な国民の幸せを願い刺繍をする優しいひと。
僕らの、幸せを願ってくれたひと。僕が、幸せを願うひと。イギリスさん。
「ッ、はぅ、」
「‥‥メイプルシロップの味がする」
最後に下唇を甘く食んでから舐められ、囁かれた低い声にカナダは応えられなかった。ただ深いキスに上がった息を、キスをくれた人に縋って整えるだけだ。
項をさわさわと、慣れた指先で撫でられる。いつの間にか白手袋は外されて、感じるのは既に馴染んだ細く骨ばった指先と手のひら。
かつて、幼い自分の頭を撫でてくれた手のひら。
アメリカと一緒にじゃれつく自分たちへ刺繍をしながら優しく微笑み、たっぷりの愛情をくれた。幸せを、ひたすらに願ってくれた。
‥‥ああ、だから。
「‥‥せ、です」
「え?」
「イギリスさん、僕、幸せです、今、すごく」
貴方が、願ってくれたとおり。ひたすらに願ってくれたとおりに。幸せに、なりました。
貴方が、幸せを、くれました。
ひたりと合わせた緑の瞳の奥。
今度こそ盛大に驚いた森色の奥、己の言葉に蕩けるほどに甘く、幸せな色が混ざったことが。
カナダは心の底から嬉しくて、強く抱き締めてくる腕に身体に縋りながら、幸せです、と幾度も繰り返し、囁いたのだ。
それから数ヵ月後、華やかで豪奢な刺繍が施された婚礼衣装を身にまとった花嫁を、カナダは少し離れた場所から遠目に見守った。
列席した招待客が花やライスシャワーを手に手に投げる教会の前で、最高に幸せな笑顔で笑いあう若い男女と、その脇に小さな小さな身体を車椅子に持たせかけ、皺だらけの容貌の中へ往年の美しさを秘めた老女に、豪奢な金髪をした最礼装の青年が優雅な礼をとって祝福を授けている。
小さく動いたその唇が、何を告げたかは遠くて聴くことは叶わない。
けれど、カナダは知っているのだ。
彼が、イギリスが希うことは、ただ一つ。
古い友人へ。笑い合い愛し合う、歳若い男女へ。全ての国民へ、‥‥愛した子ども達へ、愛する恋人へ。彼が願うのは、一つだけ。
「『可愛いお前達。どうか、幸せに、おなり。』」
カナダは呟く。イギリスが今このとき授けている祝福を、イギリスに、己がかつて貰った祝福を。
きっと幸せになるだろう。
イギリスに、母国に祝福された彼らは幸せな家庭を築き、いつしかまた、姿を変えない「友人」に、婚礼衣装の刺繍を頼むのかもしれない。
そしてまたイギリスは、柔らかで美しい微笑と共に、歳月を経た趣味の腕を存分にふるって、精緻な刺繍を施すのだろう。
「‥‥そのときは、また貴方の傍に、僕は居たい」
可愛く優しい、僕の恋人。どうか幸せに。‥‥僕が傍に居て、幸せにして、あげるから。
ほろりと零した優しい願いは、晴れやかな表情で己のもとへと帰ってくる恋人に向ける美しい笑顔に秘めて。
カナダは密やかに、けれど深く固く、誓ったのだ。
主よ、人の望みの喜びよ
the end.(2009.10.08)
幸せを願ってくれた貴方に、この身をかけた最大級の幸せをあげましょう