戸棚から出した小袋を手に、リビングのソファへと腰掛ける。
既に開封済みの袋は口の端を折って輪ゴムで留められた状態で、マシューの手のひらに納まるサイズだ。手にしたままなんとなしに目の前に掲げ、軽く揺するようにすれば乾いた擦過音。どうやら湿気てはいないらしい。
輪ゴムをはずして中身を手のひらにあける。ころころと零れ落ちてきた其れは、デフォルメされた魚の形をした固焼きのビスケット、らしい。小指の半分にも満たない大きさのそれは素っ気無いヌードカラーで美味しそうにも見えないが、まぁ、自分が食べるものじゃないし。
そんな埒もないことを思いながら、呟きよりはやや大きい音量で、呼んだ。
「おいで。おやつだよ」
主語のない呼びかけは、けれど相手に確実に伝わる。
何故といって、今現在このアパートには自分と、彼しか居ないから。
「‥‥クマ吉さんがいると、そうはいかないんだけどな」
ぼんやりと、滴る緑に埋もれた本宅に残してきた、いつも自分を呼んでくれる白い家族を思う。
彼も連れてきてもよかったのだけれど、飽和した思考のまま当座の荷物をまとめていた時、街の中心に近い場所に建つアパートの一室は彼にとって窮屈なものじゃないかと思ったのだ。あの家族は身体も大きいし、気温にプラスされる都市の熱は本来極地に棲まう彼には負担となるだろう。本宅をあの緑に埋もれる場所に残しているのは、いっそ白い彼のためだと言っても過言ではないのだし。
秋の終わりの薔薇が美しい玄関先、見上げてくる白い家族の頭をゆるゆると撫でれば、ふすふすと愛らしい音をたてる鼻先を手のひらに押しつけられたのを覚えている。
あれは彼なりの暫しのお別れの挨拶で、彼だけがくれる、心優しい慰めだった。
滴るほどに鮮やかな緑、色濃く残る「彼」との記憶に満たされた家に耐えられなくなったマシューへの、最大限の。
まーぉ。
小さな小さな鳴き声に、マシューは半分ほど飛ばしていた意識を引き戻された。息を呑んだ拍子瞬いた瞳から涙がこぼれたのには、気づかなかったふりをする。
代わりに、緩く笑ってから足元、ちょこりと座って自分を窺う小さな毛玉を、ビスケットを持っていないほうの手のひらで掬い上げる様にして、ソファへと乗せてやった。
「アーサー」
密やかな声で、名前を呼ぶ。
いっそ貧相といってもいいほどに小さな体躯とは裏腹の、鮮やか過ぎる緑の瞳が、マシューを一瞬見てから、伏せられた。
白い優しい家族を置き去りにしてマシューが向かったのは、職場に程近い場所に持っていたアパートの一室だった。
仕事は仕事としてこなすものの、仕事が好きで堪らないというわけじゃない自分をマシューは心得ていたので、よほどのことがない限り職場には自宅から毎日通っていた。自宅には大切な大切な家族がいて、美しい緑があったから。だから、本当に通勤の時間も惜しいほど、どうしようもなく仕事が切羽詰ったとき以外には使用しない、ただ寝て起きるためだけの部屋だ。必要最低限の家具を選ぶのも面倒で、上司に任せて適当に見繕って入れてもらったそれらはさすがに上等で趣味の好いものではあったけれど、自分で選んだものではないぶん、余所々々しさは否めない。けれど今は、それが救いだ。
寝て起きる為だけの空間は誰を招いたこともない場所だった。他者の介在しない、当然「彼」との記憶も在りやしない、マシューだけのものだった、から。
其処に『彼』を連れて帰ったのは、数ヶ月前の夕暮れだった。
暮れなずむ街角、狭い路地を這うように作られた石階段の隅。身体の芯まで凍らさんばかりの寒風が吹き抜けるその場所で、小さな身体をなお小さく丸めて蹲っていた、一匹の猫。
ガリガリに痩せた体躯は薄汚れた毛と相まって実に貧相で、一瞬大きな綿埃かしらん、なんて思ってしまったほどだ。
なんとなくの気まぐれで足をとめたマシューは、けれどその瞬間まで、「そのつもり」だったわけじゃない。
自分は、ペットを飼うには適さない不定期の就業形態だ。本宅の同居者達は、あれはまさに『家族』であって、彼は、彼らは、マシューが居ずとも自分で生活することが可能だからこその同居だったのだ。
だから自分は、彼らを置いて家を出た。
だから自分は、彼の居なくなった家から、逃げ出した。
‥‥ああ、なのに。
ゆっくりと、頭をもたげる身体は貧相で薄汚れているのに。
ばかみたいに強靭で誇り高くて、遥か遠くを、射抜くような。
息を呑むほどに、それはそれは鮮やかな、緑の瞳。
「アーサー」
緑に埋もれた、甘く、苦い記憶。別れたひとの名を呟いてしまった。
季節は、この地の長い長い冬が始まる僅かに前。痩せて小さな身体では、酷寒を越せやしないことは目に見えている。
けれど階段の隅にうずくまる姿は、そんなことまるっきり意にも介していないかのように、ただ静かに丸まっていた。
痛いものを痛いと言わない、言えない、あのひとのように。
本音を隠して、己の痛みすら皮肉って、マシューを傷つける以上に、己を傷つけていた、美しいひとの、ように。
だから。
『‥‥ねぇ、僕の家に来るかい?君の好きなだけ、居ればいいから』
手のひらに納まるほどに痩せた身体のネコは抱き上げる腕に反抗もせず、ひたすらに鮮やかな緑の視線でマシューを一瞥してから、まーぉ。と、小さく、一つだけ鳴いた。
「‥‥こういうのって、洗ってあげたら見違えるほどに綺麗に、とかが王道だと思ってたんだけどなぁ」
小説やドラマだとお約束だよね、なんて。
ぽし、ぽし。そんな、ごく小さな咀嚼音を聞くともなしに聞きつつ呟いた半畳は、それ以外に音のない室内に、やんわりと広がり溶け消える。
拾った猫を、当初マシューは折れ耳とも相まって仔猫だと勘違いしていた。なにせそれほどに小さくて、貧相だったからだ。
そろりと手のひらに掬い上げた猫がひそりとも鳴かないのは、もしかして死に掛けだからかと慌てて家に連れ帰り、洗面器に張った湯にそろりと浸して洗ってやったものだが、結論としてはガリガリに痩せてはいたものの、実に健康な猫だった。いっそ拍子抜けしたほどだ。
翌日には「猫休暇ください」と大真面目に直談判し、呆れる上司を笑顔で往なしてキャリー代わりの菓子箱に入れた小さな猫を動物病院に連れて行き、続いて正式に飼うにあたってのさまざまな手続きもした。それには予防注射や健康診断も含まれており、そうして獣医に「病気もない成猫ですので、飼うのにそう難しくもないと思いますよ」とにこやかに告げられたときは、唖然としたものだ。まぁ、それくらい小さくて薄汚れていて、貧相だった、ということだ。
拾って手元に置いておきながら酷い言い様だが、そうとしかいえないのだから仕方がない、といっそ笑いそうになりながらマシューは思う。
湯に入れて洗われている間も我関せず、とばかりに大人しかった(当時は衰弱して動けないのかと心配したものだ)薄汚れた猫は、まぁ、湯から出しても微妙に薄汚れていた。否、街角でついた泥や排ガスの汚れは取れたのだから汚れて、という言葉には語弊がある。どうやらそもそもの毛色がそんな薄らぼやけた感じらしい。くすんだ灰に小麦色を微妙に混ぜ込んだ短毛、ところどころに出たブチ柄も境界が微妙にぼやけて柄というよりは、まさに汚れ。折れ耳と、小さな額にちょこんと乗った太い眉のような柄は愛嬌があるといえなくもないが、なんというか、絶妙な不細工加減だ。ブサ可愛いとでも言うべきか。
けれど、その瞳の鮮やかさときたら、尋常ではない。と、マシューは思う。
「アーサーは、綺麗な目だね」
こり、こり、ぽしぽし。マシューの呟きなど聞こえてもいない風に与えられた菓子を咀嚼する猫は、けれどマシューの声にあわせて一度だけ短い尻尾をひよ、と振った。不細工だが、こういうところが妙に可愛い。
アーサーは、あまり鳴かない猫だった。
繰り返しになるが当初は衰弱の為かと思っていた物静かさは、どうやらそういう性格らしい。声も足音も立てず、ただ静かに、この部屋で日々を過ごす。
そして、マシューにもあまり、懐いていない。
確かに猫らしい気まぐれさで、気がつけば足元やソファの隣りに座っていたりもするのだがそれだってまるでひっそりとしたもので、其処から進んで膝に乗ってくるだとか、遊ぶことやおやつをせがんで鳴く、ということはただの一度もなかった。
もっとも客‥‥職場の人間が訪れたときなどは寝室の寝台の下にもぐりこんで出てこないのだから、マシューだけの時には室内を自在に歩いているぶん、気は許しているのだろうけれど。
けれど、アーサーは要求の少ない猫だった。
犬は人につき、猫は家につくというから、もしかしたらマシューが如何こうというより、単純にこのアパートを気に入っているだけかもしれない。素っ気無い態度は、マシューは同居者であってそれ以上ではないとでも言わんばかりだが、一方で先のようにマシューの言葉に反応して、耳や尻尾を揺らしてくれたりする。普段は出迎えることなどしやしないのに、マシューが仕事で疲れて帰った日には、まるで心得ているかのように、ひよひよと短い尻尾を振って玄関先に佇んでいたりする。偶然通りがかりましたよ、みたいな顔をして。
解りにくい、理解しがたい。けれど、どこかどうしようもなく愛しくなる、そんな態度。
「‥‥緑の目を持ってたら、皆そうなのかなぁ?」
だって、彼もそうだった。綺麗な綺麗な、緑の目をしていた。
痩せぎすで硬い金髪はぱさぱさで、決して見目麗しい人ではなかったのに、鮮やかな緑の瞳だけは息を呑むほどに美しく強靭なひとだった。
そして同時に悲しくて、寂しくて、馬鹿みたいに酷い、ひとだった。
あらゆることが信じられなくて、漸く信じられたものから裏切られて、泣き喚いて、蹲っていたひと。
『‥‥僕のうちに、帰りましょう?ね?好きなだけ居て、それだけでいいから』
マシューは、彼が好きだった。
彼ときたら口は悪い意地も悪い皮肉屋で、たちの悪いことに喧嘩も強かったものだから、本人達が腐れ縁だと口をそろえていうひとなどとは寄ると触ると手も足も口もでる殴り合いになるような、割とどうしようもないひとだった。
けれど同時に、彼はとても物静かで、優しいひとでもあったのだ。
繊細な刺しゅうを愛し、萌える緑を慈しみ、美しい薔薇垣を魔法のような技でもってマシューの家に誂えてくれた。白い家族と過ごす為もあるものの単純に面倒で野放図に溢れさせていた家周りの緑は、彼と過ごした数年で輝くほどに美しく、いっそう豊かに緑を茂らせた。
マシューは、彼が好きだった。
寂しがりの彼がどうしようもないほどに、好きだった。彼が、マシューを通して違う存在を見ているのだと知ってさえなお、好きだった。
ふとした瞬間、まるで今にも「誰だ」と誰何でもしたげな視線を投げられても。
手を繋ぎながら、肌を合わせながら、違う名前を愛しげに呼ばれたとしても。
だって好きだった、愛していた、愛していたのだ。それだけだ。それだけでいいと、必死に思っていた。いたのに。
『アーサーさん。‥‥ねぇ、僕は、誰ですか?』
鮮やかな緑の目を見開いて一瞬言葉に詰まった、アーサーに。
僕は貴方に、愛されたかったのです、と。そう呟いて、彼の手を離した、あの日。
「‥‥アーサー。アーサー」
こりこり、ぽし、ぽし。咀嚼する音はマシューの膝上ではなく隣り合って座るアーサーからで、名前を呼んだところで当たり前に返事はない。だって相手は猫だ、そもそも返事のしようがない。
アーサーの口元から咀嚼する音が消えるたび、マシューは彼の前に固焼きビスケットをぽとりと落とす。それをアーサーは静かに咥えて、こりこり、ぽしぽし。と小さく可愛い音を立てながら食べていく。指先から、直接渡したことはない。拒絶されるのは、もう嫌だった。
「アーサー」
名前を、呼ぶ。それは目の前の鮮やかな緑の瞳をした物静かで不細工な猫の名前で、そして今なお、マシューが愛する人の名前だ。
返事はない。目の前の猫はこりこりと静かにビスケットを食べていて、そうしてもう一方の彼は、広い、ひろい海を越えて彼の母国へと帰っていった。
もともと、帰るべきひとだったのだ。彼が誰よりも信じ愛し尽くした相手に捨てられたその日、呆然と、どこに居ていいのかわからないとでもいうように蹲っていた彼の手を引いて緑に埋もれた自宅に連れて帰ったあの日から、アーサーには‥‥そこに彼が本当に愛したかったはずの相手は居ないにせよ、帰るべき場所は用意されていた。
涙をこぼす彼の目を閉じさせて、彼を呼び戻す声から彼の耳をふさいで。彼を縛ったのは、マシュー。
誰何する緑の視線に目を閉じて、違う名前の愛しげな呼びかけに耳をふさいで。そうして愛するアーサーと過ごした、天国のように幸せで、地獄のように、哀しかった日々。
「‥‥ねぇ、アーサー。お前もきっと、どこかへいつか、行ってしまうね」
静かに隣に座るアーサーに、マシューは静かに、声をかける。
思えば彼も、寒風吹きすさぶ街角に蹲っていた頃から、静かな目をしていた。手のひらに掬い上げた彼の鮮やかな緑の目は、決して助けを求めるものではなかった。仮にあのまま死んだとしても、遥か遠くを射抜く緑の瞳は、鮮やかなままだったろう。
マシューはそれを拾い上げて、連れ帰った。
「‥‥ああ、そうか」
マシューに、連れ帰られて、くれたのは。
それは、アーサーの優しさだったのだ。‥‥緑の瞳の猫も、蹲って泣いていた、あのひとも。
優しい、緑の目をした、ふたり。
「好きだよ、アーサー」
密やかな呟きをどう受け取ったのか、返事代わりに、ひよ。とひとつ、尻尾が振られる。
こりこり、ぽし、ぽし。ビスケットを咀嚼する小さく貧相な猫は小さなまま、マシューの傍に座って、寄り添う。
そうして猫は、全てを射抜くような鮮やかな緑の瞳を数回瞬かせると、止まることなく涙を零し続ける同居人の指先を一度だけ、ぺろりと舐めた。
優しい、優しい緑のいきもの。愛して、愛されたかったひと。
「愛していた、よ。アーサー」
さようなら。さようなら。鮮やかな、緑のひとよ。
長いお別れ
the end.(2011.02.11/02.12改稿)
愛したぶんだけ愛されるなんて幻想だと、知っていたけれど