まどろむ意識にすり寄られる、優しい、柔らかな感触。
温かくて柔らかで、胸が痛いほどに、ひたすらに。
アーサーが契約したアパートには、小さな先住者が一匹、いた。
しかしながらそのことについて、アパートの管理会社や不動産屋へ管理不十分だの契約違反だのと訴えるつもりは、アーサーにはさらさらなかった。むしろ、他の部屋と同じ賃貸料だったことにこそ驚いているくらいだ。この場合普通だと、割高になるはずだから。
もしもこの件を他国の人間が聞いたなら、きっと「それは逆ではないのか」という事だろう。
新規契約したばかりのアパートに、契約約款を隅々まで確認しても一つの文言たり記されていない先住者がいる。それは立派な契約違反であり、無条件での契約の無効、最低でも賃貸料が割安になってしかるべき物件だろう、と。
しかしながら、この国ではそんなことをいう人間はいない。否、異議を唱える者も居ることにはいるだろうが、周囲には肩をすくめて苦笑されて終わりだろう。それどころか、羨ましがりさえするかもしれない。
ゴースト付きの物件は3割高。
そんな調査結果を世界有数のクオリティペーパーがそ知らぬ顔で掲載してしまう国民性は、貨幣経済社会にスピリチュアルな存在をなんなく組み込んでのける。
きっちりと閉じておいた筈の廊下へと続く扉が、小さく柔らかな動物が一匹ぶん通り抜けることが出来るほどの幅、薄く、開いていたり。
キッチンで冷蔵庫からベーコンやミルクを取り出した時に、まるで綿毛のような、ふわふわとした尻尾が嬉しそうに揺れるのを、感じたり。
外出の為の身だしなみを整えている玄関、鏡越しに見る廊下の向こう側まるでこっそりと此方を窺うように、そわそわと佇む気配であったり。
軽やかな足音。密やかで少し舌ったらずな、声ならぬ声。
質量のない、それで居てどこかおっとりと優しく、ぬくもりさえ感じさせる柔らかい気配。
猫だ。それも臆病なのに人が好きで、すこしおっとり屋で優しい、猫。
そんなゴーストとの同居生活を、アーサーはおっとりと優しかった「彼」との生活を終えて帰国して以来、続けている。
とた、とた。無いはずの足音を、アーサーはまどろみの中に聞く。
視界、と意識する光景は縁の無い曖昧なブルーグレイで、果たして自分が目を開け夜に沈んだ室内を見ているのか、はたまた眼裏へ太古の脳が呼び起こす原風景なのかさえ、分からない。ただ、夜明け間近なのだろうな、と肌の感覚として理解した。
シーツの内側のぬくもりとは裏腹に初冬の暁を待つ空気は冴え冴えと冷え、独り暮らしのアパートを隙間無く満たしている。
‥‥否、独り暮らし、だろうか?この同居者の居住権を認めるならば、ひとりと一匹暮らし、というべきではないのか。
言葉遊びめいた滲んだ思考の向こう側、既に慣れた軽やかな気配をアーサーは真新しいシーツに包まったまま、感じとる。
入居してまだ数ヶ月に満たないアパートは仕事で帰らない日が多いことも相まってか、未だどことなく余所余所しい印象を正当な住人へと与えていた。
もともとアーサーは環境の変化を嫌う性質なのだ。余計なものは欲しくない。代わりに、本当に大事なものだけを必要とする。一握りでもいい、本当に欲しいものだけ、信じるに足るものだけを、抱き締めて生きていくことが出来たなら。
‥‥抱き締めた、己の命よりも大切にし愛そうとしたものは、あっさりと自分を捨てていったけれど。
ほんの一瞬よぎった思考は、まるでフラッシュバックのように彼の心臓を握り潰そうとする。潰される、わけもないのだけれど。あれはもう、数年以上前の出来事なのだ。‥‥あの時潰されていたなら幸せだったと考えたこともあったけれど、心は潰れることなく、アーサーは数年を過ごした。
‥‥数年を、痛々しいほどの優しさに満たされて、乗り越えた。
ふるり、と柔らかなものが震える気配をアーサーは感じ取る。
未だ夜の闇に溶け出るようなまどろみはそのままで、その代わりのように溶け出た感覚が普段よりも小さな彼をはっきりと、知覚していた。とはいえ、それはどこまでも曖昧な感覚なのだが。何故といって相手は実体の無いゴーストで、それも人ではない、小さく無垢な、猫だから。
アーサーはなんとなく、笑いたくなった。
小さな生き物は、好きだ。そもそもが常人には感覚できないらしい、空想上の世界にのみ生きる存在を知覚するアーサーである。スピリチュアルをリアルに混ぜ込み齟齬をきたさない国民性は彼にもまた遺憾なく発揮され、そうして実体の無い猫が軽やかな、おっとりとした足取りで室内をうろつくのを、どこか優しいものを抱くような気持ちで、まどろみながら感じる。
猫はおっとりとした足取りで室内を巡り、そうして最後に廊下に続くドアを開け、いつもの位置に、腰を下ろした。
おっとりとした、猫らしい。
体格は多分中くらいより少し大きめ、けれど太っているわけではなく、毛は少しだけ先がカールした柔らかい長めのもの。ぼんやりとしたところがあるのか、ゴーストのくせにこちん、と壁に頭をぶつけてびっくりしているのを感覚したのは、ほんの数日前だったか。多分、甘いものが好き。甘いチョコレートやマシュマロ、それから、メイプルシロップ。
お気に入りは、玄関が見える、廊下の隅。
おっとりと座って、あるいはふわふわのしっぽを緩やかに振りながら、待っている。そう、待って、いる。
誰を、待っているのだろう。
誰を?‥‥彼を、大切にしてくれた飼い主を?
甘いチョコレートやマシュマロ、メイプルシロップをくれた、帰ってくるのを心待ちにし廊下への扉を小さな身体で懸命に開けて玄関まで迎えに行った、こちんとぶつけた頭を優しく撫でてくれた、優しく優しく、愛してくれたひと?
大切にしてくれた、どこまでも優しかった、相手?
それとも、大切にされなかったからこそ、待っているのだろうか。
背を向けて閉じられるドア、がらんどうの部屋、二度と開くことの無かった玄関。
それでもいつかを信じて、いつか必ず抱き上げてくれる腕が迎えに来ることを、ひたすらに。
愛したひとがもう一度、笑って自分を抱き上げてくれるのを。大切にしてくれる日が、訪れることを。ひたすら、信じて、信じて、待っているというのか。
置き去りにされても、省みられることがなくても。‥‥死んでさえ。裏切られて、それでも。
大切にされる日を、いつか愛されることを、待っていたの?
‥‥ああ、彼は、待っていた。待っていたのだ。
信じ愛し尽くしたものに捨てられて、泣き喚いて立ち尽くしたアーサーの手を握り、寄り添ってくれた。優しい言葉をくれて、優しい心をくれて、名前すら碌に呼ばない相手に、柔らかな温みを、痛いほど、ひたすらに、待って、待って、愛して、くれたのに。
『アーサーさん。‥‥ねぇ、僕は、誰ですか?』
愛されたかったのだと、泣いた彼。
必死に握られていた手が離れていくのを、立ち尽くしてみていた、あの日。
緑滴るあの家で過ごした数年間を、思う。
信じたものに、愛したものに捨てられて、思い出すたび握りつぶされそうになる心を守ってくれていた彼を、思う。
アーサーは彼を、大切に出来なかった。‥‥でも、大切だった。大切だったのだ。優しさをくれた彼が、愛を注いでくれた、彼が。
隣に座り、刺しゅうをした。彼のために薔薇垣を作った。温かい彼の熱を抱いて、眠った。
大切だった。大切にしたかった。出来なかったけれど、これは本当なんだ。‥‥大切、なんだ。今でも、まだ。いつまでも、きっと。
猫は廊下の隅に座り、夜に沈んで開かない玄関をじっと見つめている。
彼はまだ、信じているのだろうか。優しいひとを、愛したひとが再び迎えにくる日を、彼は信じているのだろうか。‥‥信じて、くれるだろうか。酷いことをした、自分を。
暁闇の空気は凍てつくように冷たく、けれど死してなお待ち続ける優しい猫は、ひっそりと、おっとりと腰掛けたまま。
アーサーはゆっくりとシーツを剥ぎ取り、身体を起こす。冬夜の冷気が彼の身体を即座に包み、曖昧に溶け出していた意識はすっかりと現実へと凝集する。けれど彼の感覚はすんなりと優しいゴーストを受け入れて、そのことにアーサーはなんとなく笑ってしまった。国民性は、実に偉大だ。
そろりと立ち上がり、夜色の部屋を横切って、猫一匹ぶん開けられたドアを、ひと一人ぶん、開けて。
「‥‥なぁ、きっと、迎えは来るよ」
そろりと、声に出して言ってみる。
玄関を見つめる、うっすらとぼやけた輪郭の猫は、柔らかそうな長めの毛に森の湖水のように滲む青の瞳。‥‥ああ、これは自分の心理がみせる、都合の好いフィルターなのかもしれないけれど。
「きっと、迎えに行くから」
待っててくれ。なんて。
傍らに腰掛けて呟いた新参の同居人に、長い年月を待ち続けているのだろうゴーストが、何を思ったかは分からないけれど。
そっと、柔らかで温かな身体をすり寄せられたような気がして、アーサーはもう一度、笑った。
「マシュー」
笑って、あの日呼べなかった名前を、呼んだ。
暁が近い。夜が終わろうとしている。
ブルーグレイからオールドローズへ。次第に明度をあげていく室内をアーサーは見渡して。
そうして、スルリと玄関が開いて「彼」が待ち望んでいただろう人がにっこりと笑い、腕を差し伸べるのを確かに見た、気がした。
愛の挨拶
the end.(2011.02.12)
お前に恋をするよ。お前を信じて、愛し尽くすから。