銀に凍てつく大地の強靭、落ちてきそうな天の青藍、彼方にのぞむ永遠の深緑。
精緻にして雄大、荒々しく静謐。
それがこの世界。美しい世界。
それが自分の世界の全て、と。
(思っていた。)
「ぴゃッ」
頬へと降り落ちた不意の冷たさに、小さな身体がふるりと震えた。
子供特有の高く澄んだ声が、深緑の天蓋に柔らかくこだます。
ふるふると振られたまあるい頭が、ゆるゆると仰のく。
幾重にも重なった濃く鮮やかな枝葉の隙間、朝の光が零れ落ちる雪花のように煌めいているのを森の色をした瞳が捉えると、そこにふわりと喜色が浮かんだ。
と、再び冷たい欠片が落ちてきた。子供は反射的に目を瞑ったが、其れは再度の冷たい感触を彼に与えることなくやや長めの蜜色の髪を伝い落ち、白い服にまるで飾りのように一瞬留まり、直ぐに消えた。‥‥朝露だ。
小さな手のひらが頬を拭う。頬から手のひらへと移動した僅かな露に朝の木漏れ日が反射し、束の間の光を宿した。その小さな太陽のかけらに、大きな目がぱちりとひとつ瞬いた。そのまま、ふっくりとした腕を天へと伸べる。
天から零れる光を受け止めて輝く僅かな朝露を、大きな瞳が追いかけるように、仰のいて、仰のいて‥‥そのまま後ろに倒れた。こどもの身体は慨してバランスが悪いものだ。
もっとも、この子供のぼんやりさ加減も多分に関係しているのだとは思うが。
「‥‥んう?」
しかし、小さな身体を受け止めたのは、幸いにも深い森の冷えた大地ではなく、温かな柔らかい白毛皮だ。
ぽふり、といかにも軽やかな音と共に受け止められた子供は、半分その毛皮に埋もれるようになりつつも身体を捩って温かく大きな身体にすりよった。ふわふわとして温かい。もそりと動き身体を起こした白クマが前肢を差し伸べ背に乗せてくれたので、小さな子供は温かな背中に顔を埋めるように、きゅっと抱きついた。
ふと見れば、白い毛皮にも朝露が光っている。
零れる光に煌めいた其れに子供は小さく笑ってから、透き通った声で言った。
「‥‥おはよう」
大地に、森に、朝露に、獣達に。
この世界を構成する、全ての美しいものに。
こうして『彼』の世界が、今日も朝を迎える。
空間を切り取ったように急激に拓けた視界に、太い木の根をようやっと乗り越えた子供は、一瞬動きを止めた。
森の境界、眼下には緩やかに下る丘陵が広がっている。
丘陵を駆け上ってきた風に蜜色の髪が強く揺れた。
このところ寝床にしていた、年経た大樹老木に守られた森の奥に風は届かないので、身体に吹きつける其れはどこかくすぐったい。子供はふるふると頭を振る。一人の遠出‥‥森の外に出るのは、久しぶりだ。
ゆっくりと息をしながら、目の前に広がる世界を暫し見つめる。
芽吹いたばかりの新緑に覆われた広い丘陵は、目に沁みるような鮮やかな色彩だ。苔や羊歯類、聳える巨樹達に空を覆われた森の中とは違う、小さく柔らかな草花が風になぶられて揺れている。
遥か彼方には、凍てつく銀を纏って聳え立つ高峰。
天を突くようなその向うには、紺青の波濤逆巻く世界がある。
見たことは、ないけれど。
‥‥見たこと、あるのかもしれないけれど。
覚えていないだけで。まだ、幼いから。
彼方を眺めていた子供は、視線を転じて己の身体を見下ろした。
ふわふわと風に揺れ時折視界を掠める蜜色の髪、小さく細い四肢。
両の手のひらにゆっくりと力を入れて握り、開くと、ゆるりとした所作で腕をいっぱいに伸ばした。
はじめに緑に覆われた大地を指し、彼方に聳える銀の高峰、蒼穹。
銀に凍てつく大地の強靭も、落ちてきそうな天の青藍も、彼方にのぞむ永遠の深緑も。
この世界。『自分』を形作るもの。
綺麗な世界、その全てであると、何かが言う。
高く仰のけば、視界を空の青が支配する。
落ちてきそうな空の下で、『自分』が何であるのかを、思って‥‥
‥‥そのまま後ろに倒れた。思いっきり、倒れた。
‥‥‥‥ついでに、ころころと転がった。傾斜地を。
斯くも子供の身体とはバランスの悪いものだ。‥‥この子供がぼんやりし過ぎ、という点を差し引いても、多分。
「んにゃあああああッ?!」
軽い小さな身体はころころ、ぱたぱたと盛大に転がる。なまじ広大な丘陵だったことも仇になった。救いとしてはさほどの傾斜ではなく、大地は柔らかな草花に覆われ、岩などの危険な突起物がない辺りだろうか。もっとも、そんな引っ掛かりがないぶん転がり続けているという面もなくはないが。
今朝、背中を受け止めてくれた白クマは、今は居ない。
だから、なんとか彼が自力で止まらなければならなかった、のだが。
「‥‥‥‥おいおいおい、この大陸はこどもが山から降ってくんのか?」
ころころ、ぱたぱたと。回転する視界が、唐突に途切れた。
やんわりと柔らかな、それでいて力強い温かな何かが、その小さな身体を文字どおり掬い上げてくれて。
「ん?ちょっと待て、お前‥‥」
そして、知った。
銀に凍てつく大地の強靭よりも、落ちてきそうな天の青藍よりも、彼方にのぞむ永遠の深緑よりも。
この『自分』の世界、全てを構成していると思っていたものよりもなお美しいものが存在するのだということを。
「‥‥あなた、だれ」
「おおお?あー、言葉解るんだな、ってか、あれか、お前やっぱりそうなの、か?」
困惑しきりな言葉は、けれどとろりと滴るような艶のある声音。
両の腋下に腕を入れて。小さな身体を同じ目線の高さまで抱き上げている腕は、しなやかに温かい。
風に揺れている、これまで知っていたどんな光よりも鮮やかで豪奢な、煌めく金の髪。
それから、これまで見たことのない、空色の瞳。
初めて見る、『彼』の世界にはなかった美しい光の空色。
(なんて、きれい)
「ん?どうした?」
己に伸べられる、ふくふくとした小さな手のひらに気が付いたのか、青年は子供を片腕に座らせるようにして抱きなおした。背中を大きな手のひらが支えてくれる。温かかった。
その手も腕も、子供がいつも一緒にいる白クマのようにふかふかなんてしていないのに、温かくて、とても気持ちが良いと思った。
「あー、‥‥なんかお兄さん、懐かれちゃった?」
頭上から声が降ってくる。
手繰り寄せるようにその胸元の布を掴み、身体を寄せてきゅっと抱きつくと、「うっわぁ‥‥」と意味を成さないため息のような声が聞こえた後、そろそろと抱き締められた。
温かかった。気持ちが良かった。‥‥一緒に居たいと、強く思った。
その願いがこの気持ちが、この『自分』の世界を変えることになったとしても構わないと思った。
「‥‥名前。お前、名前はあるの?」
「カナダ」
「カナダ、カナダ、ね。うん‥‥綺麗な名前だ。俺は、フランス。ほら、言ってみな?」
世界が変わる。
静謐で静穏だった『カナダ』だけの世界が終わりを告げようとしている。
「ふらん、す、‥‥フランス」
「そう」
顔を挙げ、告げられた名前をゆっくりと言葉にすると、合わされていた空色の目がふわりと微笑んだ。
それはとても美しく、つられるようにカナダが笑うと、何故か驚いたような顔をされてから、再びぎゅっと抱き締められた。
いい匂いがして、温かいな、とぼんやり思う。
「それじゃ、一緒においで。カナダ」
フランスの声が身体に染みていく。
彼に呼ばれた己の名前が、己の身体に染みていく。
抱かれたままの肩越しに、先ほど見上げていた空の青を見た。
澄みきった普遍の青はなお美しく、けれど今はそれ以上に美しい空色を知っている。
顔を上げて、そっとその、新しい世界を連れてきたひとを見た。
前を向く、光の空色の瞳。
銀に凍てつく大地の強靭、落ちてきそうな天の青藍、彼方にのぞむ永遠の深緑。
精緻にして雄大、荒々しく静謐。
それがこの世界。美しい世界。
それが『自分』の世界の全て、と。
(思っていた、のに)
ああ、この美しい存在の傍で見る新しい世界は、どれほど美しいだろう。
交響曲 新世界より
the end.(2008.05.30)
『仏加ファーストコンタクト祭』様(〜2008.06/17終了)に提出させていただきました。
初仏加を提出する俺勇者(殴)
タイトルがすごくアメリカなんですが気ニシナイ!(笑)