早春の空気は未だキリリと冷え、雪雲が足早に駆けて行く空へ凛とした静寂を齎していた。
木製の素朴な門扉から続く道こそ丁寧に清められてはいたものの、見れば垣根やウッドデッキの縁下などには未だしっかりと白鈍色の雪が積まれ、名残りというには些か強い冬の気配を客人へと訴えかけてくる。地表の水分は半ば凍っているのか、敷かれた冬芝の上を歩くたびさくさくと音がして、ブーツで来て良かったな、とぼんやりとフランスは思ったものだ。
4月も間近のこの国は、今が冬と春との鬩ぎ合い真っ最中らしい。
もっとも、鬩ぐというには些か暢気な、ぼんやりおっとりとした空気が漂っているのは、やはり此処が彼の国、だからだろうか。
「カナー、お兄さん遊びに来たよー」
建物自体を高床に造っている為、丸太で組んだ数段の階を上り、素朴な作りのノッカーで扉を叩きながら来訪を告げる。
しかし、返答はない。いつものことだ。
聞こえていないわけじゃないことは経験上解っているので、重ねてノックはしない。
実のところ、このドアには鍵が掛けられていないことは知っていたし、勝手に入ったところでせいぜいが、ほわぁ、だとか何とかちょっと驚かれるくらいなのは解っているのだが(そしてそうやって驚かせるのも楽しいのだが)、フランスはなんとなく、のんびり屋の家主がおっとりと玄関まで迎えに出てくるのを、待つことにした。
ノッカーから手を離すとフランスは少し長めの息をついて、ドア横の壁に背を預ける。ごつごつとした感触をコート越しに感じたが、木組みの壁なせいかあまり冷たさは感じなかった。これが自国の屋敷のような石造りであったなら、その冷たさに即座に飛び退いていただろう。
総木仕立ての家もなかなかいいかもしれないな、とふと思う。
木の呼吸する、ゆったりとした空間。こじんまりと、少し手狭なくらいがいい。副え付けの家具も全て木で揃えよう。敢えてワックスをかけない天然木の床に、毛足の長いふかふかのラグか何かを敷いたりして。
いいなぁ、どこかに丸太造りの別荘でも建てようか‥‥と此処まで考えてから、はたと我に返って、苦笑した。
別荘を建てるまでもない。目の前に理想の総木仕立ての家があるじゃないか。
益体もない己の夢想に、忍び笑う。
自分にしては素朴に過ぎる別荘案に、これはこの国に影響されたかな、とのんびりと考えた。
つい、と軽く壁を押すように身体に反動をつけて、ドア前のデッキから庭先へと降りる。凍っていた芝生が足元でさくりと鳴いた。
冷たい露に閉じ込められるように潤んだ芝は暗い冬の緑をして、ところどころ剥き出しになった大地は深いセピアカラー。
視線をあげれば奔る雪雲、その合間に冴え冴えとした青い空。
不意に、彼と初めて出会った日のことを思い出した。
見渡す限りの翠緑の丘陵。
天地を分ける銀嶺、沁みるような空の青。
そして、
『‥‥名前。お前、名前はあるの?』
『カナダ』
『カナダ、カナダ、ね。うん‥‥綺麗な名前だ。俺は、フランス。ほら、言ってみな?』
「フランスさんっ!」
タン、と木製の厚い扉が勢いよく開かれ、そこから小さな影が飛び出して来る。
ドア向うのデッキに思い描いた姿が見えないことに一瞬きょとんとして、それから庭先に立つ此方を‥‥フランスを、捉えて。
あざやかで華やかな、出会った日の春の深緑のように笑って。
「ふら‥‥んわッ?!」
「‥‥っとぉ。うーん、お兄さんそういう熱烈歓迎大好きだけど、足元には気をつけような?」
まだ身体が小さいんだから。
柔らかな口調で諭すように、腕の中に落ちてきた‥‥正確には足元不注意でデッキから落ちたのを慌てて掬い上げた、だ‥‥小さなこどもに言いつつ、フランスはよっこらせーとばかりに立ち上がった。
「お、ちょっと重くなったな。成長したかー?」
「え、ほんと?‥‥ふふふ、おっきくなってるのかぁ」
フランスの言葉を信じきって素直に笑うカナダは、まだまだ小さな身体だったけれども。
初めて会った頃に較べると格段に増えた笑顔と言葉に、フランスはこみ上げてくる笑みを押えることなく笑って、抱き締めた。
ふくふくとした柔らかな身体からは、こども特有の甘いにおいがする。
「あのねあのねフランスさん、このまえクマ太郎さんがね」
「うんうん、お話は家入ってからな?」
抱き上げた腕の中からおっとりとした声で、けれども懸命に話し始めようとするカナダへ、微笑みながらそう言い聞かせると、そのままゆっくりと、万が一にもこの可愛らしいこどもを落としたりなんてしないよう、慎重な足取りで玄関へと向かう。
トン、トン、トンと一歩一歩踏みしめるように階段を上り、開け放たれたままだった玄関をくぐって、そして。
「こんにちは、カナダ」
「はい、こんにちわ、フランスさん。ええと、いらっしゃいませ?」
抱き上げたまま額に軽くくちづけを落とせば、ゆるゆると伸びてきた両の手のひらがフランスの頬をふわりと挟んできた。目の縁にちゅ、と愛らしい返礼と、歓迎の言葉を贈られる。
若干舌ったらずでたどたどしいその言葉と笑顔に、フランスはたまらずこどもを抱き締めた。
「あーあーあー可愛いッ、もー本当可愛いなカナダはー!」
「ほゎ?え、フランスさん、くすぐったいー」
きゃいきゃいと笑う子供をあやしながら、フランスは片手で開け放たれていたドアを引く。
閉まろうとする扉の隙間から、一陣の風が舞い込んだ。
風は未だ冷たく冴えた冬の温度だったけれども、どこかで拾ってきたらしい、甘い春の花の匂いをしていた。
「ねえフランスさん、今日泊まっていけるの?お話聞いて?あのね‥‥」
「よしよし、それじゃお兄さんお茶淹れてあげるからな、カナの好きそうなお菓子も持ってきたからなー。お話はお茶淹れて、それからな?」
「メープルシロップいれて!」
「わかったわかった」
会話をしながら、温かな子どもを抱き上げ、暖かな室内を歩いていく。
道すがら、廊下に面した窓から空を見上げた。
雪雲は駆け去り、遥か遠い銀嶺の向うに。
空の青は冴え渡り、陽の光を全身に受けて雪に濡れた草木が光る。
それはやがて芽吹き、瞬く間にあでやかな翠緑で地を覆うだろう。
春が来るのだ。
『それじゃ、一緒においで。カナダ』
君と出会った、春がまた来る。