緩やかに吹き過ぎた風に、知らず目を細める。
本格的な夏も間近の太陽に晒された風は、まだ朝も早い時間にも関わらず夜露を飛ばして心地よく乾き、草花の青く甘い薫りを拾い上げては、穏やかな郊外の街へ甘く優しい雰囲気を振り撒いていた。
その街の、さらに外れにあたる彼の屋敷へも例外なく。
立場上、一年の多くは政治機構の中心たる首府で多くの時間を会議だ外交だと忙しなく過ごし、確かに世界に花の都の名で知られた大都会でのタイトかつスタイリッシュな生活は、決して嫌いではないのだが。

「あー‥‥、でもやっぱり、のんびりがいいねぇ‥‥」

おにーさんも歳かしら、と。
艶のある、低く甘い声で紡がれる言葉はといえば、そんな若さとは無縁の暢気な台詞である。‥‥実際、決して若くはないので間違いではないのだが。
戦争の世紀と呼ばれ、国内のみならず世界中を荒ませた悪夢のような戦禍にさすがに懲りて、ここ四半世紀ほどは工業より農業に力を入れてきたせいもあるのだろう。生命の基礎であり、最も単純な娯楽である食を生みだす生活は、フランスの精神にかつてない安寧を齎していた。
空を見上げる。

「いーい天気だねぇ」

ふわふわとした雲がいくつか浮かんでいる、優しく潤んだ夏の朝空が広がっている。
地中海沿岸の国のような冴えたカラフルさや、北方の大地から見上げる其れの凍るような鮮烈さはないが、彼はこの空が好きだった。
のんびりと過ごす為に構えた郊外の屋敷は、建物自体はこじんまりと(ただしそこはフランスの美意識を最大限つぎ込んでいるので手の込んだ非常に美しい外観だ)、庭は広々と。むしろ庭というよりフランス柳だの麦畑だの葡萄棚だの盆栽棚(最近日本に貰った)だの、海峡向うの腐れ縁もとい隣国が構える屋敷の豪奢な薔薇園とは別の意味で、緑に溢れたつくりをしている。
特に配置を計算して造園したわけではないのだが、どことなくシックな、フランスらしい瀟洒な雰囲気になっているのは彼が彼たる所以だろう。

「小麦の生育も問題ないな‥‥あ、去年の柳のツルはそろそろカゴ作れるか」

因みに現在彼が居るのは、そんな広大な庭の縁だ。
こづくりの屋敷に沿うように、此処だけは庭らしく(他は庭と言うより畑である)美しく芳しい花木を整えた一角へ直に腰を下ろし、空と庭を見渡す。

「ああ、平和だねぇ‥‥」

美しく晴れた青い空。
健やかに育つ緑の庭。

そのどちらもが、フランスの心を優しく癒し、満たしてくれる。




「フランスさん!」




そしてこの声も、また。




「ボンジュー、カナダ。よく眠れたか?」

振り仰いで見上げた屋敷の、たった一つ整えられた客間の窓からの声に、艶やかに笑って応える。
昨夜遅くに着いたカナダは、太陽はとっくに昇ってはいる時間だが、若干眠そうにもみえた。もっとも、のんびり屋の嘗ての養い子はいつでもぼんやりとどこか眠たげな風であるし、起きて窓を開けた時点で起きる意思があるのだろう。そう見当をつけ、フランスは窓から見える景色に目を細めていたカナダを手招きする。

「降りておいで。キッチンに朝飯入れてるバスケットあるから、それ持って、外」
「わあ、フランスさんの朝ご飯久しぶりです。何ですか?」
「それは開けてのお楽しみ。‥‥ほら」

重ねて促せば、こどもみたいに笑った顔がするりと引っ込んだ。
これから着替えて、キッチンに用意したバスケットを持って出てくるまで、のんびり屋の彼だから少し時間がかかるかもしれない。昔から、そうだった。
フランスは声を立てず小さく笑う。

随分昔、ほんの一時期だけその手を握っていたこども。
ふくふくとした手は本当に小さく熱く、手離さなければならないときは本当に辛かった。

あれから、既に数百年が経過している。

それは『フランス』にとっても、決して短くはない時間だ。
その間に、世界は激変した。幾つもの革命、目を見張るほどの科学技術の進歩、世界を焼き尽くすような勢いの戦争を幾度も繰り返し、傷つき、傷つけてきた。‥‥あの時代を、単に悪いものばかりだったとは言いはしないけれど。

「‥‥フランスさーん、バスケットって、どれですかぁ?」
「んん?テーブルの上に‥‥ああいいよ、そっち行くから」

屋敷の中からくぐもって聞こえる声に、大きな声を返してフランスは立ち上がった。服についた草を手早く払えば、独特の青く甘い匂いが広がった。
屋敷へと歩き出しながら、もう一度だけ視線をめぐらせる。
仰のいて見上げた空は、優しく潤んで美しく青く、嘗て流した血も怨嗟もすべて飲み込んで凛然と佇み、視線を降ろせば天地の境界に鮮やかな翡翠の柵、健やかに萌える緑の庭。屋敷からは、ほわりとした呼び声。
可愛い嘗ての養い子。‥‥今は愛しい、可愛い恋人。

それら全て心を満たしてくれる、愛しいものたち。

「ああ、幸せだ‥‥」









呟かれた、蕩けそうなほどに甘い声は、吹き抜ける風が攫っていった。
郊外の街を優しく甘く染める風はさらに甘さを足して、街をやわらかに満たすだろう。









 その風の名は幸せといい





la fin.(2008.06.30)

兄ちゃんちに遊びに来たカナ。しばらく兄ちゃんところで過ごします。
因みにイギのうちからユーロスターできたよ。
ところで、フランスの年間気候図を見て爽やかな夏いいなぁと思いました。
兄ちゃんはあんな暑苦しいのにとも思いました。
兄ちゃん大好き。(本当ですよ!)