腰に下げた小さな柳籠が弾むように揺れて、朝陽を弾いてさえずる。
肩には愛用の鍬と鋤が担がれ、時折触れ合っては掠れた歌声を誇らしげに披露する。
そのどちらもが持ち主の歩みに沿って軽やかに歌い上げるものだから、彼の周囲はなんとも賑やかしく、のんびりとした佇まいの早朝の田舎風景にある種の彩りを添えていた。
もっとも、彼らの持ち主こそが彩りの最たるものといえば、そのとおりなのだが。
抜群のスタイルは簡素な作業着に身を包んでいてさえ、青年の持つ独特の華やかさを欠片も損なわないまま、しっとりと艶のある雰囲気を辺りに振り撒いている。
足元はがっちりと作りこまれたブーツ。かつて好む好まざるに関わらず履きつけていた軍用長靴ではなく、農作業用に作られた軽くて丈夫で水濡れにも強いものだ。そして、普段ならばこの靴もまた持ち主‥‥フランスを取り巻く、賑やかしい合唱に参加しているはずなのだが。
「あー‥‥、いい嵐だったな」
不意の呟きとともに、フランスの踏み込んだ足がスイと引かれる。
足裏から伝わるのは柔らかな感触。彼が視線を落とし踏み込んだ靴跡を暫し眺めていると、まるで形状記憶素材のようにむくりと起き上がり、ゆっくりとした速度で元の姿へとかえっていく。短いような長いような、時間の感覚が狂いそうな不可思議なひとときは音も無く、ただ遠くからサワリと紅葉し始めた木立のざわめきが淡く響いていた。
フランスはふ、と息をつく。
つい半日ほど前までは、畑へと続くこの小道を歩くたびにサクサクと軽やかな音と反発が靴裏に贈られていたものだが。
昨日の暮れから夜半にかけてこの辺りを浚っていった嵐は、地に降り積もっていた乾いた落葉にたっぷりと水分を落としていったらしい。
唸りを上げて吹きつける風も轟く雷鳴も、短い夏の終わりを告げ長い秋と冬を連れてくる大事な号令だ。かつてのように屋敷ごと吹き飛ぶなど(とはいえ長雨による水害は深刻だが)そういった心配がない現代、風雨に揺れる窓ごしの風物詩を、ある意味暢気に、かつ幸せに満ちて眺めていたものだ。
立ち止まったまま空を見上げれば、鮮やかな青。
内陸には珍しい澄んだ空は、大気中の塵や埃を嵐が纏めて洗っていった証拠だ。フランスは目を閉じて、ひとつ大きく息を吸い込む。澄んだ空気はたっぷりと水を含んで瑞々しく、秋を迎える大地の匂いをしていた。
向かう先にある畑の収穫前の小麦はやや気になったが、山や森の中では幾種類もの木の実が零れ落ち、足元では茸達が頭をもたげ、一気に秋の姿になったことだろう。
「んー‥‥」
フランスは立ち止まったまま暫し思案する。
大雑把に纏めた金髪に指櫛をいれ、ちらりと見遣るのは小道の縁につけた柵の向こうに広がる森。
嵐の夜を過ごした小麦畑も気になるが、秋の味覚に溢れているだろうそちらも気になる。
「‥‥茸、の、ソテーとか。原茸、栗のグラッセ、バター‥‥いやメイプルシロップ‥‥」
田舎小道の早朝、ひとり農具を担いで立ち止まり、ブツブツと呟く美青年の姿は結構に妙なシロモノではあったのだが、そもそも人口密度の低い地方な上、この一帯は彼の持ち物であった。
一年の半分以上は国家の首府たる花の都で生活している彼は、山野もこの小道も地元の人間に解放しているのだが、幸いというべきか、この日は彼以外の姿が見当たらなかった。
「パンプディングつくる約束してるしな‥‥胡桃‥‥、うん、よし」
食材や料理名を呟きながら思案していたフランスは、最後にひとつ頷くと肩から農具を下ろした。それらを木を組み合わせただけの粗末な柵に立てかけると、腰に下げた柳籠から手のひらほどの大きさの、けれど刃はなかなかに分厚い山菜採りナイフを取り出す。なめし皮の鞘を一度払って刃先を指でそっとなぞり、もう一度頷いてから指先でくるりと一回し。
「それじゃあ、頑張ってきますかね、と」
気合いを入れるというにはやや気勢の欠けた言葉と共に、フランスは長い足で柵を跨ぎ越えると、軽やかな足取りで森へと分け入っていった。
大樹の足元に降り積もった木の葉は音もなく、彼をその懐へと受け入れた。
暗さを湛えた森から抜けて浴びた陽光に、一瞬だけ目を閉じる。
すっかりと昇りきった太陽に少し眉を寄せ、けれど次の瞬間には腕の中の収穫物にニヤリと笑った。首にまいていたスカーフは今は秋の恵みをつつみ、ずっしりとした重みを持ってフランスの腕に抱かれている。
落葉にふかふかとした大地を慎重に踏みしめ、農具を立てかけた場所を目印に戻る。森から小道へとつながる最後の軽い傾斜を滑るように降りて柵の手前まで来たところで、フランスはひとつ息をついた。
ざっと己の身体を検分すれば、ところどころに濡れた土や樹液が染みを作っている。土の塊は軽く手で払えばぽろぽろと剥がれるように地へと帰っていった。
それを見るともなしに見ていたフランスであったが、思いの外高い位置から降り注ぐ陽光に、考えていた以上に長く山菜採りに夢中になっていたことを悟り、思わず苦笑した。
そのままなんとなく、腰を下ろす。
ふかふかとした木の葉に覆われた地面はふかふかとしたままフランスを受け止め、簡素な木組み柵もまた静かに彼の背中を労わるように、受け止めた。
常より低い視界で辺りを見回すが、相変わらず人の姿は見当たらない。
晴れ渡った空から昼も間近なのだろう光が降り注ぎ、フランスの身体を柔らかく温めてくれた。
「はー‥‥」
フランスはひとつ、深く息をする。
肺の底から搾り出した息は真新しい大気と総入れ替えされて、じわりとした疲労を心地よい充足感へと取り替えてくれるように思えた。
辺りは地を這う小さな生き物達の気配の他は何もなく、やんわりとした静けさを湛えている。パリでの住居であるフラットや政府機関とは時間の流れる速度さえ違うのではないかと埒もない事を思いたくなるほどだ。
ふと辺りを見回すと、立てかけていた農具の刃先が自重によるものだろう、降り積もった木の葉を僅かに食んでいた。
それを見るともなしに眺めていたフランスであったが、ふと、指先が触れていた降り積もった木の葉の地面を、ゆっくりと手のひらで払った。
昨夜の嵐に水を供給された木の葉は僅かにしっとりとしていて、音も無く辺りへと散らされる。時折姿を覗かせては慌てて逃げていく小さな生き物。まだ瑞々しい緑の葉、紅葉の鮮やかな赤、きらめく黄、朽ちた枯色の茶、そして地に還ろうとしている灰色。様々な色がひしめいて、雑然としていながら絶妙の調和を持って其処に在った。
そしてその下の、大地は。
「あったかいなぁ‥‥」
てのひらを触れさせた黒々とした大地は、思わず零れた言葉どおりに。
初秋の柔らかな陽光に温められているのとは別に、大地自身が発する熱だ。降り積もった木の葉、その下に住む小さき生物達。振り落ちた植物の欠片はやがて砕かれ代謝され姿を変えて、森を豊かに育む大地となる。その過程で放射される、いわば生のあたたかさである。
触れさせた手のひらにほんの少し荷重すれば、ふんわりとした黒い土が沈んで僅かに滲んだ水がフランスの手のひらを濡らした。同時に、甘い土の匂いがふわりと立ち昇る。その匂いは、腕の中に携えた茸や木の実からする匂いと同じものだ。
甘くあたたかな、世界を育むぬくもり。
(‥‥ああこれは、彼に良く似た。)
まだ小さな身体だった、出会った頃。
抱きあげれば甘い匂いがして、少しだけ自分に似た面差しはけれど自分からは失われて久しい何かを湛えていて、ふっくりとした手に頬に口づければきゃらきゃらと笑ってくれた。
一緒に生きていくのだと思った。
この温かな手をとって、この笑顔を見守って、ずっと共に在るのだと思っていた。
なのに、泣かせた。
ほたほた、ほろほろと涙を零す彼を、海峡向うの大国が困惑しながらも頭を撫でているのを見て、幾度も繋いだはずの小さな手が、柔らかなぬくもりが赤い軍服の裾を握るのを見て。‥‥もうその涙を拭う資格は自分にないのだと突きつけられて。気が狂いそうだった。
誰も彼もがいっそ可笑しいほど荒んだ時代だった、あの頃。
「フランスさん」
もう一度このぬくもりを手にすることが出来るだなんて、思わなかった。
「‥‥‥‥おはよう、カナダ」
「おはようじゃないですよ。もう、何寝てるんですか、道端で」
のんびりとしたカナダの声には、彼には珍しいほどに呆れの色が含まれていた。
確かに、寝ている客人を残して朝早くから畑仕事に出た筈の人物が道端で寝ていたのでは(しかも畑の傍でさえない!)、呆れもするというものだろう。
背を凭せ掛けた柵越しに身体を屈めて彼を見下ろすカナダへと、フランスは仰のくようにして視線を返してからへらりと笑ったものだ。
「や、お兄さん寝てたわけじゃなくってだね、労働後のちょっとした休憩をとってただけでー」
「で、休憩がてら寝てたんですね?‥‥もう、雨上がりで気温だって低いんだから体調悪くしたらどうするんですか」
「その時はカナちゃん看病してね〜」
「今ユーロに下げられると僕のところも厳しいですからね、仕方ないから看病してあげます」
「お前の兄弟ほどには迷惑かけないもん、お兄さんやるときはやるよ?」
「うう、頭の痛いこと思い出させないで下さいよう。‥‥ふふ」
せいいっぱいのしかつめらしさを込めた声も、最後には軽やかな笑いにとって代わられる。頭上から零された恋人の笑い声に、フランスも甘やかに微笑んで返事とした。
「ああ、本当に寝てたわけじゃなくて。‥‥山菜採ってたんだよ、ほら」
「え?‥‥うわあ、キノコだあ!あ、この森で採ったんですか?」
「昨日結構雨降ったし。風が吹いたからな、そろそろかなと思って。お前、マロングラッセ食べたいって昨日言ってただろ。‥‥ええと、あった。ほら栗」
フランスが座り込んだ膝の上に乗せていたスカーフを開いて収穫物を見せれば、歓喜の声が降ってくる。
「マロンクリーム作って、アイスも作ろうか。好きだろ?」
「大好きです!フランスさんありがと!」
意外に食いしん坊なカナダの素直すぎる感謝をフランスは苦笑しつつ受け取って、栗や茸を包んだスカーフを丁寧に結わえた。いかにも森のお土産、といった風体に思わず笑いたくなりながら、それを膝から降ろして木の葉の上に置いた。その横には、先ほど木の葉を払って黒々とした大地が顔を覗かせている。
再度、指先を触れさせる。
そこにあるのは優しく強い、世界の熱。いのちの、ぬくもり。
なんてあたたかい。なんて優しい。なんて、愛しい。
(‥‥そのぬくもりは、お前のよう。)
「‥‥カナダ、ちょっとこっちおいで」
「え?はい」
呼びかけに、欠片の躊躇いもなく柵を乗り越えてカナダは応じた。
腰を下ろしているフランスの傍にしゃがみこんで、フランスの顔を覗きこんでくる。
真っ直ぐな湖水色の瞳。小さな頃と寸分違わぬ色。
「ふわっ?!‥‥え、フランスさん?」
「うん‥‥」
胡坐をかいた膝の上に、引き上げるようにして抱き締める。
遠い昔の日々のように、軽々と抱き上げることはもうできないけれど。
‥‥そうだ、もう二度とないと思っていた。
一度離したぬくもりを、もう二度と手に取る資格はないのだと思っていた。ぬくもりは失われた。
自分は彼を、彼の優しいぬくもりを。あの日確かに、捨てたのだ。
それからの日々は酷いものだった。
戦火は瞬く間に広がり、世界を焼き尽くす勢い。
隣国に完膚なきまでに自国を焼き払われ、眼前にヒタリと銃口を突きつけられて。
ひんやりとした無機物の感触に、一瞬だけ小さな子どものぬくもりを思い出して笑ったのを覚えている。
なのに。
「フランスさん」
「‥‥お前は、あったかいな」
あったかい、と。
繰り返し呟けば、何かを察したのかカナダの腕がそろそろとフランスの背に回された。もう決して小さくはない手のひらは、けれど幼かった頃と変わらぬ温かさをフランスに分け与えてくれる。
小さかったあの頃も。
もう一度出会った、今も。
いつだって、いつだって。まるでこの、変わらぬ大地のように。
「愛してるよ、カナダ。‥‥ありがとう」
フランスの囁きに、カナダの身体が一瞬震えた。
いっそう抱きついてきた恋人の身体を強く抱き締めて、それから、耳元に返された言葉にひとつ、深く息をついた。
座り込んだ柔らかな木の葉の大地から伝わるぬくもりが、優しく愛しい恋人をあたためてくれるように祈りながら。
このぬくもりを愛と呼ぶ
la fin.(2008.10.02)
『その風の名は〜』とタイトルが一対です だから話も似てる
もうちょっとあっさりした話にすればよかったかな
本当は森の中でのお話でしたが、そしたらお外deエロになりそうだったので却下(笑)
それでも道端で迷惑なのはかわりません(・∀・)
‥‥それと、農作物の収穫時期については触れないでください‥‥。