彼は優しい僕の『父親』。




「あっ。こら、ちゃんと髪は拭いてから上がりなさい」
「はぁい」

バスルームからリビングへ向かう途上にあるキッチンから届いた美声に、カナダは廊下を歩きつつ、調子「だけ」はすこぶる良い返事をした。
ぺたぺたと素足で歩いてリビングへ、そのまま気に入りのソファにダイブ。
先日買ったばかりのスリーシーターのやや大きなソファは、細身だが背丈は十分にある家主の身体もすっぽりと包み込むように乗せてくれて、カナダは湯上り特有のとろけた息をついてうつ伏せたものだ。ぱらりと濡れた髪から水滴が落ちたが、気にせずに目を閉じる。
今日は仕事もつつがなく終了して、明日は完全オフ。美味しいごはんも食べたし、冷蔵庫にはとっておきのアイスも入ってる。熱いシャワーを気が済むまで浴び身体の芯まで熱を行き渡らせて、そして今は、気に入りのソファの上。これで幸せじゃないなんて嘘だと、カナダはつらつらと考えた。
身につけている夜着代わりのハーフパンツは柔らかいコットンで、上半身には肩からはおった厚地のバスタオルが一枚のみ。髪から滴り落ちる水滴を音もなく吸い取ってくれるオフホワイトの其れは端に小さなメイプルリーフとユニオンジャックが縫い取られており、贈り主をさり気なく、いや結構あからさまに、主張している。
今も身内といえば身内だが、気まぐれに贈られてくる元・保護者からのプレゼントはどれもこれも上等なものだ。まぁ、隣国の兄弟のついで、という感がなきにしもあらずというあたりはご愛嬌といったところだろうか。

意外に可愛げのある人なのだ。あの『父親』は。

幼い頃見上げていた彼は、凛然と背筋を伸ばしてただただ強い、大きなひとだと思っていたのに。
隣国の兄弟に言わせれば「キミ眼鏡は合ってるかい?あの酒癖の最悪な年寄りのどこをどうみればその結論になるっていうんだい!」となるらしいけれど、やはりカナダにとってのイギリスは今でも強くて格好良い『頼もしい兄』であり、『厳格な父親』なのだ。
(‥‥まぁちょっと、『甘く優しい母親』っぽくもあるけれど、ね)
ふと過ぎったそんな思考にカナダは小さく笑うと、寝転んだままバスタオルの端を摘み上げて、小さな縫い取りに緩く目を伏せキスをした。‥‥その瞬間。

「‥‥こーらーぁ。髪は拭きなさいっていったでしょうが」

もうひとりの『父親』の声が、乾いたタオルと一緒に降ってきた。

「フランスさん」
「フランスさん、じゃありません。まったく‥‥ほら、こっち頭寄越しな」

うつぶせた頭の先、適度な弾力のスプリングがゆるりと沈み込む感覚にカナダはうつぶせたままもそもそと身体を動かす。頭にかけられたタオルが視界を邪魔していたけれど、それは何の障害にもならない。万が一ソファから転げ落ちるようなことがあったって、きっとこの人の腕が救い上げてくれるのだから。それは、そう、ずっと昔から。

彼が、まだ本当にカナダの『父親』だった頃から、ずっと。

カナダの濡れた髪を丁寧に拭う指先は、ぼんやりと覚えている幼い頃のものと殆ど変わらない。頭を凭せ掛けた大腿はしっかりと固くて、枕にするには不向きだな、とカナダは目を閉じて埒もなく考える。
不意に鼻先を甘い匂いが掠めた。それは頭を優しく撫でているタオルの匂いではない。その向こう、フランスの指先、そして頭を乗せている大腿の。‥‥つまりは彼の匂いだ。

「フランスさん、いい匂いする」
「ん?料理‥‥ああ違うか、この前知り合いに新作のコロン貰ったから。何、カナもつけてみたい?」
「んー、うん」
「お前ならハーブ系のナチュラルなのがいいかな。タイム、ローズマリー、ミント。それにシトラス系合わせて、メリッサ、んー‥‥レモングラス?」
「‥‥それウチの菜園にあるハーブじゃないですか」

カナダの言葉に「お前にはお日様と緑の匂いが似合うってこと」とフランスは快活に笑う。けれど爽やかな笑みとは裏腹に、トロリととろけるような甘さにほんの少しスパイシーな香りが絶妙に混ざり合った其れはとてもゴージャスでシックで。そう、とても似合っている。この、世界中の誰よりも華やかなひとに。
不意に胸が締め付けられるように感じられて、カナダはうつぶせた顔をフランスの腿へと擦りつけてみた。張り詰めた筋肉の感触と、彼の匂い。‥‥そしてタオル越しに降り注ぐ、忍び笑いでさえ甘い張りと艶のある美声。
じゃれかかってきた子どもを宥めるようにクスクスと笑うフランスは、「ほら、もうちょっとで終わるから。動いたらダメ」。甘い甘い、それは紛れもない『父親』の声。




‥‥確かにフランスも、自分の『父親』なのだけれど。
カナダはフランスの膝の上に頭を持たせかけ、髪を優しく拭われながら、ふ、と小さく息をついたものだ。




成る程確かにフランスは、カナダの父親だ。イギリスがそうであるのと同程度には。
それは勿論、自分たちの特殊性を鑑みれば一般的に意味するところのそれではないことは当然で、単なる歴史上の事実を便宜的に、あるいは感傷に任せてそう呼んでいるだけ、とも切り捨ててしまえなくもない。
だがしかし、遥か昔のあの日幼く無力だったカナダを抱き上げ、衣食住を整え、宗教経済政治価値観、良くも悪くもありとあらゆる文化を伝え、時には身を挺し戦ってまで守り育ててくれたのは、フランスであり、イギリスだ。そんな彼らを『親』と定義するのは、そうおかしいことでもないだろう。

あれから随分と時間が経過し関係性は大きく変化した‥‥のだが、今も身内として付き合うイギリスはともかくとして、とっくの昔に保護者としての縁は切れたはずのフランスは、どういうわけかときどき何かの拍子に『父親』のスイッチが入るらしい。‥‥はて、今日のスイッチは何だったんだか。

「んー?カナ、お前少し髪が伸びたねぇ。今度切ってやろっか。それとも伸ばしてみる?結構似合うと思うけど」
「ん‥‥面倒だから、いいです」
「そう?まぁ、今くらいの長さも似合ってるけどな。しかしお前、髪質だけは本当俺に似たなぁ。昔からやーらかい髪でよくもつれさせてたよな」

甘い声で言いながらフランスがカナダの髪を拭う手つきは、この上も無く丁寧だ。
まさしく『親』として相応しい、慈しみに溢れた其れ。
生まれて間もない小さな身体を抱き上げて、慈しみ愛してくれた頃の。

「可愛かったよなぁ、お前昔から」

和やかな声。髪を梳く優しい指先。
かつて共に暮らし、既に失ったはずの『父親』と過ごす、穏やかな時間。
ああ、確かに、これも悪くはないのだけれど。




‥‥でも、もうそろそろ、スイッチを切り替えてもいい時間でしょう?




「‥‥ね、フランスさん」
「んー?」

タオル越し、甘い声。優しく髪を梳く指先。
カナダの髪を濡らしていた水滴は、すでにタオルへ十分吸い上げられた。
明日はオフで、美味しい食事を食べ終えて、柔らかくはないが居心地良い膝上に頭を寄せていて。

「ねぇってば、」

体勢は変えずに、声で呼ぶ。
張り詰めた筋肉の感触、甘く蕩けるような匂い。‥‥その抱きすくめてくる腕の強さを、既に知っている。




彼は優しい僕の『父親』。‥‥けれど、関係性なら、もう一つ。




「カナダ。‥‥カナ。おいで」
「ん、う‥‥」

膝の上にのせた頭ごと抱き上げられるように伸ばされた『恋人』の腕を、拒む理由は一つもない。

甘い呼び声を挟みつつ、身を屈めて唇を舐め、食んでは吸い上げてくるフランスの首に、カナダは湯上りの滑らかな腕を絡めた。そのまま引き倒すようにして、ソファへと恋人ごと沈み込む。スリーシーターのソファは大人二人が寝転ぶにはやや窮屈な、けれど恋人二人が身体を寄せ合い睦み合うには十分な広さと柔らかさだ。
肩にかけていたバスタオルが軽い音を立てて床に落ちた。コットンの暖かみを失い外気に晒された肌が一度だけふるりと震えたけれど、すぐに熱い身体に抱き締められる。甘くスパイシーな匂いがふわりとカナダの鼻先を掠め、それにつられるように白い首筋に顔をすり寄らせるように埋めた。
耳元で、忍び笑い。

「‥‥何ですか」
「いや、‥‥お前、昔から抱きつくのが好きなコだったねぇ、と」
「‥‥‥‥、」

甘く掠れた囁き声で、この期に及んでの慈しみ深い『父親』の言葉に、カナダが抱き締められた腕の中から睨み上げれば、フランスは、悪戯げな『恋人』の顔で笑っていた。‥‥まったく、もう。

「‥‥僕はもう小さくありません。いい加減、現代に帰ってきてください」
「カナちゃん、優しいお父さんは、もう要らない?」
「お父さんは時々でいいんです、時々。今は恋人がいい。‥‥ねぇ、恋人になって」

早くスイッチ、切り替えて。

了解、と返された声は、甘く掠れた、自分を求める熱い声。
それに安堵したようにカナダはそっと目を閉じて、再び降りてきた唇を受け止めた。









彼は優しい僕の『父親』。
今日のところは親子の時間、父親の時間は終わりにして。

彼は愛しい僕の『恋人』。
熱くて甘い恋人時間を、思う存分楽しむ始まりの、キスを。









  関係性ピタゴラス





la fin.(2008.12.18.)

『BLでどうする?バトン』の最後から3番目の設問から
ときどきすっごく「おとうさん」ぽいことがしてあげたくなる兄ちゃん。
でもカナちゃんは恋人関係のほうが重要なのでっていう。
因みにイギ様、過去は9割お父さん、現在は9割お母さん(笑)