フランス人は、日々の生活を大事にする。
それは日々口にする食事、部屋の形状や家具に明確なこだわりを持った住まい、自分をもっとも美しく見せる服飾、日々の糧として以上の誇りを加味して従事する仕事。そして、人生の最大の潤いであり目的でもある、恋愛。
ただ漫然と生きているだなど、フランス人ではない。
joie de vivre. ‥‥生活を楽しむ。そして日々を美しく。これがフランス人の生活哲学の基本である。
そういう意味では、喜ばしいことと言えなくもない。
そんなことを埒も無いことを、上司にこき使われ‥‥もとい、充実した仕事から帰宅したフランスはぼんやりと考えた、ものだ。
「‥‥‥‥よくお眠りだこと。」
呟く声は文字どおりのささやかな、呟きの名に相応しい音量。
もっとも普段どおりの声音で話したところで、きっと現状にはさほど変化は見られなかったことだろうが。
朝まできっちりと暗闇を保てるだけの上質の遮光カーテン。壁と窓はこの部屋を購入した際に手を入れて防音性を強化しているため、外界の喧騒も殆ど気にならない。寝台はゆったりと眠りたいからと大きめのものを古馴染みの工房に無理を言って作ってもらった一点物、マットレスと枕は寝具専門のアドバイザーがいる店で自分に合わせて作らせた。敷布や掛布、飾り布は日々の気分や季節に合わせて手を入れることにしている。因みに今は初夏に相応しい、鮮やかな海の青の一式だ。
そんなこだわり抜いた己の住まい、遮光カーテンによって夕日を早々に退散させた寝室、海の青色をしたシーツをまぁるく押し上げた縁から零れ落ちているのは、甘いメイプルシュガーカラーのねこっ毛と、穏やかで愛らしい寝息。
はて、こちらに来るという予定は上司からも本人からも聞いてはいなかったのだが。
フランスはドアを開けた状態で廊下に突っ立ったままそんなことを暫し考え、本来自分が寛ぐための寝室にこの上もなく慎重な足取りで、踏み入れた。スゥ、と其れまで耳に届いていた外界の音が引いていくのは、防音を高めた壁の効果だろう。
代わりに、部屋の中央に据えた気に入りの寝台から、甘く柔らかな寝息がフランスの耳をくすぐりにくる。
フランスが選りすぐって購入した上質の遮光カーテンの効果で部屋はすっかりと暗く、廊下に続く開けっ放しの扉が唯一の光源だ。後ろから差す光に己の影が長く室内に伸びて、寝台の端に本人より先に辿り着いている。鮮やかな海色の掛布は、影の差した部分だけ夜の海色になった。
零れ落ちるシュガーカラーの髪は、闇海に差す光のよう。
フランスは暫し己のために誂えた寝台に眠る己以外の姿をいくらかの呼吸ぶん、静かに見つめた後、ごくゆっくりとした動作でその縁に、腰を下ろした。ひと二人ぶんの重みにもキシとも音を立てないのは、さすがの高級品といったところか。‥‥まぁ、瞬間的な加重を幾度も繰り返すような激しい動きにはいくらも悲鳴を聞いた覚えはあるわけだが。
脳裏に過ぎった俗すぎる思考に、フランスは口の端を引き上げるようにして笑う。
寝室、限定すれば寝台は穏やかな睡眠を手に入れるところでもあり、熱くとろける愛を楽しむ場所でもある。
一人穏やかな夢に遊ぶのも、恋人と二人甘やかな熱を分け合うのも、自在、なのだが。
「さて、その恋人がひとりでおねむな場合はどうすればいいんでしょーねぇ?」
若干の呆れと笑みを含んだ複雑な声になったことに、フランスは我がことながら笑ったものだ。
仕事から帰宅すれば、何故かいる恋人(それも本来は海の向こうの文字どおり海外にいるはずの!)が、自分の寝台ですよすよ睡眠中。さてもこれは、嬉しいような虚しいような?
うん、まぁ自宅にいるのはいい。急な仕事が入ったのかもしれないし、或いは純粋に自分に会う為だけに時差と海を越えてくれたのかもしれない。そもそも鍵だって渡している恋人が、手を伸ばせば触れられる距離まで訪ねてきてくれるのを嬉しがらないはずもない。来訪の連絡?あれば待つ楽しみが出来るけれど、なければないで不意打ちの楽しさがある。そう正に今このときのように。
フランスは海色の掛布から零れている恋人のねこっ毛を指先に掬い上げる。
蓑虫よろしくシーツに頭から全身すっぽり包まって眠る姿は、遥か昔のことを思い出させて、ほんのりと微笑ましい気分になる。
舌ったらずな甘い口調で紡がれるフランス語、こども特有のふくふくとした柔らかな身体と体温。抱き上げれば甘い匂いがして、初めて一緒に眠ったときはあまりの小ささに押しつぶしてしまわないか心配なほどだった。
‥‥今ではさほど体格は変わらなくなって、たぶん身長に至っては早晩追い越されるだろうけれど。
けれどやはり、変わらないな、なんて。
「ああ、そういえば昔からよく眠る子だったね、お前は」
まるまった身体に海色越しそっと手のひらを乗せれば、ふんわりとにじみ出てくるような恋人の温み。小さな寝息にあわせてやわやわと上下するのが、どこかこどものようで愛らしい。
昔から気がつけば場所を問わず寝てしまうような、おっとりとした子どもだった。
幾重も重なった木の葉が優しい温みだけを集めて降らせていたような、大樹の根元。
彼のために初めて建てた家の窓際、縁にあしらわれた透かしの百合文様を飽かず眺めながら、毛皮の敷物の上で。
料理をする保護者の背中、出来上がるお菓子が待ちきれないように歌をうたっていたかと思えばことんと重みが増して、歌と同じくらいに愛らしい寝息を立てて眠ったりしたことも、あった。
あんまりにも良く眠るから、一度聞いたことがあったっけ。ねぇカナ、おねむさん。眠るのが好きなの?
『あのね、あったかいとことか、お気に入りのばしょね、眠くなっちゃうんだよ。好きな、ばしょなの』
ひそひそと、まるでとっておきの秘密を教えてくれるみたいに、耳元で教えてくれたっけ。
気に入りの場所で、気に入りの、ひとのそばで。
彼はいつだって健やかに、眠りに落ちる。
そして今、そんな恋人が眠るのはフランスの、こだわりを持って作り上げた寝室。
「お兄さんのとっておきの寝室、気に入ってくれた?」
好きになってくれた?カナダ。
呼び声に乗せた甘さは溢れて隠しきれないまま眠る恋人を撫ぜれば、すよすよと甘く温かく、優しい寝息。
フランスは暫らくそうして己の寝室で眠るカナダをゆったりと撫ぜさすりながら堪能したあと、そっと腰を上げた。
そもそも帰宅するなり寝室に足を運んだのは、今朝若干起床時間が普段より遅めに為ってしまって仕事への出がけに飲み残したまま放置したカフェボールや、くしゃくしゃと投げ置いた夜着や愛用のエプロンなどの始末をしようと思ったからだ。別段急いでやるようなことではないものの、美しくない寝室を放置するのは、フランス人として宜しくない。
日々口にする食事、部屋の形状や家具に明確なこだわりを持った住まい、自分をもっとも美しく見せる服飾、日々の糧として以上の誇りを加味して従事する仕事。
そして、人生の最大の潤いであり目的でもある、恋愛。
joie de vivre. ‥‥生活を楽しむ。毎日の、日々を美しく。
それらを大切にしてこそのフランス人、そして己はその『フランス』そのもの。
ならば、他の誰よりも日々の生活を楽しまなくてはならないというものだろう。
充実した仕事から帰れば気に入りのベッドに恋人が潜り込んでる、なんて。
そうとも、美しき充実の日々の生活とは、こうじゃなくちゃ!
「‥‥ん、どうやら今日も楽しく過ごせそうです。」
今夜も、かな?なんて。
浮かれた口調で嘯きながらフランスは優雅な足取りでけれど足音は綺麗に消して、開け放したままの寝室の扉へと足を向ける。
眠っているならいっそちょうどいい、恋人はああ見えて結構に食いしん坊だから、たっぷりしっかり且つ美しい食事を振舞うための準備にはそれなりの時間も必要なのだ。
そんなことを考えつつ踏み入れた台所、朝寝室に投げ置いていったはずのエプロンが丁寧にたたんでスツールの背に掛けられ、カフェオレボールが水切り用のカゴに伏せてあるのに、フランスはまるで背中で眠ってしまった子どもの温みのようなしみこんでくるような温もりを確かに心に感じて、少しだけ照れくさく笑ったものだ。
しっかりたっぷり御馳走を振舞ったあとは仕事の疲れを落とすシャワーを一緒に浴びて、こだわりの寝室で甘い恋人を熱く抱き締め甘い時間を過ごすこと。
これぞ完璧な、フランスの美しく楽しき生活である。
美しきフランス人の生活哲学
the end.(2010.05.21.)
「おはよー、カナ。よく寝てたねぇ?」
「フランスさんちのベッド、寝心地いいんですもん‥‥」
「うん、お兄さんが隣りにいればもーっと心地良くなるからねー?うん寝心地じゃなくて居心地とかえっち心地とかだけど」
「ばか」
実は某方への提出ボツ原稿。
理由:カナがいない!(笑)