「くちの、なか、が。い、痛い、れふ‥‥」
「ああ、うん、そうだろうねぇ」

おっとり、のんびり。語尾の甘いフランス語は妙にくぐもって、ばつの悪そうな苦い声だ。
フランスと大きさは変わらないのにどこか肉の薄い手のひらの下に口元を隠して、へたり込むように床に直敷きしたラグの上、大西洋を越えた旅装もそのまま、鞄も放り出してリビング入口から駆けて来たフランスを、困惑と若干の情けなさを浮かべた湖水色の瞳が見上げてくる。
ふんにゃりと落ちた眉尻、淡い水色に相応しい水の膜がうっすらと瞳を潤ませているのに、フランスは大体の状況を察しての同情と深刻な事態ではなかった安堵と、久々に見ることの出来た姿のなんとも言えない可愛さに苦笑しつつ、恋人の前へとしゃがみ込んだ。
既に本格的な冬を迎えている北国だからと履いてきた頑丈なブーツで柔らかいラグを踏まないよう、軽く足先を引いて膝を突けば、視線は同じくらいの高さへ。そして其れにあわせる様に仰のいてフランスを見上げていた恋人が、おっとりと顎を引く。
メイプルシュガーカラーの髪が甘い匂いを振り撒きながら揺れたのに、フランスは手を伸ばしながら、優しく言葉を継いだ。

「どうしたの、火傷?何飲んだの」
「こ、こーひー‥‥」

ゆっくり柔らかな髪を梳きおろしつつ、相変わらず口元を手のひらで覆ったままの不明瞭な言葉を聞いて辺りを見遣れば、倒さないようにか少し離れた、けれど手の届く距離にメイプルリーフの描かれた大きめのマグカップが鎮座していた。
中にはフランスにも馴染みの、濃い琥珀色の、飲み物。なのだが。

「‥‥お前、これもの凄く煮詰まってるでしょ」

薫り高く芳しきコーヒーアロマ、というには妙に焦げ臭く酸味さえ感じられそうな其れに、世界に名立たる美食家の眉が寄せられる。
フランスにとっての海峡向こうの隣国、彼にとっての二番目の保護者や隣国である快活な兄弟ほどではないものの、フランス的には実に不本意なことに些か残念、もとい大雑把な舌になってしまった恋人に再度の味覚矯正中のフランスとしては、その香りだけで既に口にしていいぎりぎりの範疇であろう味が予想されて、それを飲んだという言葉にまるで自分が其れを口にしたかのように苦い顔になってしまった。
そんなフランスの気分を、口内を焼かれた痛みに涙目になりつつも察したカナダが、居心地悪げに身じろぐ。

「‥‥らって、ぽっとにあっら、っぅ、あった、から」
「カナ、舌回ってないよ」
「‥‥うー、」

手のひらの向こう必死で言い募ろうとするものの、火傷の痛みからか滑舌が微妙なおっとり声に、フランスの渋い気持ちは持続しないまま霧散した。代わりのように、むぅっと眉頭を寄せてカナダがねめつけてきたけれど、理由が理由だけにフランスにとっては可愛いばかりだ。

まぁ、要するにいつもながらのおっとりのんびり、ちょっぴりぼんやりで若干残念な舌の恋人が、適当に保温ポットに放置していた煮詰まり気味のコーヒーを構わず飲もうとして、口内を火傷した、と。
そんな想定外過ぎた熱さの(ついでに、味もだが)琥珀色に声もなく蹲ったまさにその瞬間、久々のお泊りデートに浮かれた足取りのフランスがやってきて、現在に至る、と。

「こ、高温保温になってて、」
「いや、飲む前に気がつこうよ。ていうか、この煮詰まりコーヒーはないよカナ‥‥」
「らって‥‥ッあぅ、だって、ちょっと眠かったからぁ‥‥」
「もー、この子はー」

おっとりのんびり、そしてぼんやり屋の恋人の隣りに座ったフランスは甘い匂いのする髪を撫でてやりつつ、普段よりも更におっとりな、舌の回っていない言葉に苦笑する。
この子らしいといえばこの子らしいんだけれど。なんて。
元保護者の甘さと現恋人の欲目で、呆れるよりも可愛さが先に立つフランスは、どうにも笑いが止められない。

「‥‥もう、笑わないでくだ、さいッ」
「ああ、はいはいごめんねー?カナがあんまり可愛いから。‥‥ああ、ちょっと口開けて」
「ふぁ、」

隣りで零される忍び笑いにそろそろ一言いいたくなったのか、痛みに潤みがちの目で精一杯フランスをねめつけ、言葉を継ごうと口元から手のひらを離したところを狙って、フランスはその顎先をとらえてやや強引に己へと向かせた。そのまま頤を支え、その上でもう片方の手のひらでそっと額を押しやるようにすれば、はぷりとカナダの口が開く。

「‥‥うわ、舌よりも上顎が怖いことになってんなぁ」

綺麗に整った歯列の向こう、下方から覗き込むようにして見た柔い粘膜はどうやら薄皮一枚が見事に焼かれたらしく、歯の根元から口蓋の奥まで殆ど鮮紅色と言ってもいい有様だ。突然口を開けさせられたことに戸惑っているのか、まるで置き所がわからなくなったようにふるふるとしている舌も常より濃い色になってしまっている。‥‥これは確かに、痛みに蹲りもする筈だ。
粘膜という部位は基本的に、傷つきやすいがそのぶん治癒速度も体表面より格段に早い。それでなくとも普通の人間より頑健な身体だ、半日か、どんなに遅くとも二日もすればすっかり元通りになるだろうが、もう暫くはかなり痛むだろう。
己が負った火傷ではないが、傷を目の当たりにしたことでフランスも妙に口の中が苦くなる。
と、そこで口を覗き込まれていたカナダが顎を固定するフランスの腕をタップしたことで、フランスは我に返った。これは、空気に当たるだけでも痛いかもしれない。

「っと、ごめんねカナ、痛かった?」

慌てて額を押さえていた手のひらを外し、その手をそのまま項を支えるように持っていくことで頭の位置を調整してやれば、最初こそ戸惑っていたものの素直に口を開けていたカナダが、ふ、と短い息をついて瞬きをした。
どこか無防備な視線と、薄く開かれた柔らかい唇がフランスの目を惹く。

「フランスさん、」
「ごめんな痛かったね、無理して喋んなくていいから」
「んー‥‥」

カナダの口元は再び手のひらの下へ。けれど先ほどと違うのは、其れがどこか少年らしさを残した薄いカナダの手のひらではなく、大人らしい、しっとりと厚いフランスのものだという点だ。
フランスへと向けられた視線は、成り行きにいまいちついていけていないようなどこかぼんやりとしたものだ。そういえば先ほど眠かったとかなんとかいっていたから、まだ眠気が残っているのかもしれない。
ぱちぱちと瞬きを繰り返す湖水色の瞳は純粋で、遠い、遥か昔を思い出す。




‥‥あの頃のフランスは、ずっとカナダの傍に居た。
出会って直ぐの頃はそもそも食べていた食材からして全く異なっていて、そこに本国から様々な食材や調理法を持ち込んで、フランスの料理を子どもの舌に馴染ませた。
あの頃のカナダは間違いなくフランスと同じ舌になっていた筈で、煮詰まったコーヒーなんていくらおっとりぼんやりしていても匂いで嫌がったはずだ。まさに、先ほどの自分のように。
けれど、気がつけば自分は傷だらけでぼろぼろで、手を離す破目になっていて。‥‥それが今の『カナダ』を築くにあたり、良かったか悪かったかは、問わないのだけれど。

「‥‥ごめんね」

煮詰まったコーヒー。
きっとあの頃の自分なら、腕の中に小さく温かな子どもを抱きかかえたまま、手ずから淹れたてのものを用意していたはずだ。‥‥或いは、今もまだ、ずっと一緒に、居られたかも、しれない。
おっとり、のんびりでぼんやりな子ども。なんだって、どんな小さなことだって、全てをこの子の為に、してやりたかった。
あのまま、小さな子どものままに、全てを、




‥‥と、そんなフランスの思考を強制終了させたのは、手のひらのした、柔らかな濡れた感触だった。




「ふゃぉッ?!」
「‥‥あは、へんな声」
「えええ、カナダさーん?」

ストレートな感想、けれどご尤もと言いたくもなる己の声へ些か情けなく言葉を返したフランスに、先ほどまでぼんやりとされるがままだったおっとり屋の恋人の視線が、複雑な、けれど優しい色を含んでフランスを見つめていた。
思わず、口をつぐむ。
口元を押さえていた手のひら、キス‥‥というか舐められ食まれた驚きに浮かせていた其れを、ゆっくりとした動作でカナダの手のひらが絡め取った。
少年期を僅かに残した薄い手は、けれど既にフランスと同じ大きさだ。遠い昔、手のひらにくるみこむように握った手の面影は、ない。

「フランスさん、またなにか、暗いこと考えてる、でしょう」
「‥‥なに、」

舌を焼いた痛みにだろう、おっとりと、いつもより舌ったらずな言葉は、まるで遠い昔の幼子を思わせる。
けれど、しっかりと、同じ高さに揃った視線と同じ大きさに育った手のひらが、対等な個人として向き合い、そして愛し合う恋人として、フランスの視線と心を、掴んだ。

「貴方に謝ってもらうことなんて、ないんです。僕はもう、コーヒーだって自分で淹れられるし、料理だって、ひとりで出来ます。ちょっとぼんやりしてるから、その、火傷だってしちゃうかもしれないけど、こんなの、直ぐに治っちゃうんだ。だから、」
「カナダ、」




「謝らないで。‥‥僕は、貴方と、対等で、傍に居れる、今が気に入ってるん、です」
「‥‥うん」




ぽすん、フランスよりも幾分か薄い肩に顔を埋めれば、やはりまだ口内が痛むのか、いつもよりずっと静かな笑い声が、フランスの耳元を優しく撫でて、心へと染み込んでいく。

ああ、そうだった。‥‥そうだった。
もう、この子どもは、自分の子どもでは、ないのだ。
幼い頃に手離した、何も出来ない子どもでは、ないのだ。
辛い時代を、荒れ狂う嵐を、幾万の昼と夜を越えて、もう一度、出会って。

そうして愛した、‥‥否。愛し合った、恋人だった。

「‥‥カナダ、愛してる」

溢れるように心から零れたフランスの言葉に、おっとりのんびり、ぼんやりだけれど誰より優しい恋人はフランスの腕の中、おっとりのんびり、ふんわりと。誰よりも甘やかに、笑ってくれた。




「‥‥でもまぁ、熱いのに気がつかないで舌を火傷しちゃううっかりさんは、まだ子どもかなぁ?」
「うう、ちょ、ちょっとぼんやりしてたらけ‥‥、っ、だけ、れすっ」
「ふふ、舌ったらずなの、かーぁわい」
「‥‥もうっ」

腕の中、ぷっと膨らませた恋人の頬へ食むようなキスをすれば、むいむいと腕を突っ張らせて距離をとられたのに合わせて、フランスは立ち上がる。
おっとりのんびり、追いかけて見上げてきた視線はまるで先ほど駆け込んできた時と同じ状況だったけれど、フランスはそれに苦笑ではなくとびきり華やかで晴れやかな、けれど悪戯めいた笑顔を返す。
それにどこか惚けたような、やっぱりぼんやりした視線を返されたフランスは、軽く腰を屈めて自分譲りの柔らかな髪をした頭を一撫でしたあとで、リビングから続きになっているキッチンへと足を向けた。
そこにあったのは、なるほど、実に煮詰まったというか、煮立ったコーヒーポット。設定温度を見れば98度となっている。‥‥まぁこれだけ煮立ててれば、いっそ煮沸消毒的な何かで、腹は痛まないだろうけれど。

「舌が痛む、舌が」

火傷的な意味と、味覚的な意味で。
フランスはそんなことを思いつつ保温器に苦々しい視線をやってからスイッチを切ると、てきぱきと働き始めた。
嗜好品類がまとめて入った戸棚もコーヒー用のペーパーフィルターの位置も把握済み。思えば、確かにもう一緒に暮らしては居ないし、互いに忙しい身で身軽に訪れることすらままならない現状ではあるが、なんだかんだと勝手知ったる場所になっているあたり、面白いというか面映いというか。
‥‥ああ、でもやっぱ、一緒に住めたらいいのに。
煮詰まったコーヒーをシンクに流しながら思うのは、感傷から来るものではなく、純粋に感想として。このコーヒーは駄目。早くお兄さんが教えてあげた味覚を取り戻してください。

「カナー、コーヒーまだ飲む?その舌じゃ無理かな。なんかジュースでも作る?」
「‥‥や、コーヒーがいいです‥‥。まだ、眠くって‥‥」

シンクの前で忙しく立ち働いていたフランスが、妙にぼんやりとしたその声にカウンター越しにリビングのカナダを見遣れば、辛うじて座った体勢は維持しているものの、眠そうに背中を丸めている。今にもこくりこくりと舟を漕ぎ出しそうだ。
なんというか、これは元保護者の甘さなのか恋人の欲目なのか。やはり思い浮かぶ感想はといえば可愛い可愛いだけで、フランスはニヨニヨと口元を緩めながら可愛い恋人の仕草をじっくりと観察する。

「なぁに、眠いなら寝ててもいいよー?」

一応、そのリクエストに応えてコーヒーの支度をしているものの、これは寝かせてやったほうがいいのではないか、と思い始めた、その矢先。




「‥‥フランスさん、いるのに寝るとか、ヤだ。大体、フランスさんくるから目を覚まそうって、だから、コーヒー、そういえばあったなぁって、飲んだのにー‥‥」




語尾の甘いフランス語。火傷のせいか眠気からか、微妙に舌の回ってない可愛すぎる恋人の発言に、フランスはその身体を揺さぶり起こして愛を盛大に囁いておあつらえ向きなラグの上でしっぽりがっつり愛を確かめ合うべきところなんじゃ!あぁんらめぇふらんすさん、きすしたら舌いたいから、別のところ舐めてぇ、みたいな!そうだね、こういうの子ども相手にはしちゃだめだからやっぱりカナが独立しておっきくなってくれて正解!眉毛にも少しだけ感謝だあの駄目味覚感染させやがったのは本気で恨むけど!
‥‥とかなんとか。
まぁ、わりと判りやすく駄目な大人の思考で、フランスはコーヒーの支度を続けたものだ。

心を込めて淹れた薫り高く芳しきコーヒーアロマか、それともとびきり甘い囁きか。
おっとりのんびり、些かぼんやりな恋人が眠気覚ましにどちらを選んでくれるのかを楽しみにカナダの元へと戻るフランスの足捌きは、実に優雅で楽しさと、愛しさに溢れたものだった。









  Coffee or Love?





the end.(2010.11.04.)

仏加アンソロ3ボツネタ
たこつぼでは別離を引き摺るのは兄ちゃんです