ところで、ヒトは眠る人間の姿は必ず可愛く見えるようにできているという。
正確には人間に限らず、ヒトは生物の多くの睡眠時の姿を可愛らしい、あどけないものとして「感覚する」ように、出来ているらしい。
生物というのは睡眠時ほど無防備な姿はなく、その飾り気のなさ、装いの取れた姿をして無垢、あどけない、純真だと感じるのは、命を繋ぐ存在として当然ともいえる。何故ならそれらの感覚は、幼い子ども、とりわけ自らの意思では身動きすら取れない赤ん坊に無条件に感じてしまう感覚と同一だからだ。
子殺しを本能的に回避し忌避する原始的なストッパー、それらは母性或いは父性本能に繋がり、自己以外の者への無条件の愛を注ぐに到るスイッチとなる。精神論に基づく博愛或いは自己犠牲とは別種のものだ。何故ならその「愛」は種を、遺伝子を繋ぐ為のもの。塩基配列に刻み込まれた種の保存という指令に従ったものであるともいえるからだ。
命を繋ぐ為に子を守る。無防備な、あどけない寝姿に愛を感じ、慈しみ守りたい気持ちが湧き上がる。
「‥‥ま、俺らには半分正解ってところだけどな」
密やかな声は、あどけない寝息に紛れ込ませるように、かそけきものだった。
両手に携えていたマグカップを器用に片手で持ち直し、開いた手のひらは他愛のないバラエティショーを写していたテレビのリモコンへと伸ばされる。
音量は十分すぎるほどに絞られていたが主電源を落とす以上の消音効果はなく、饒舌な司会者の最後の鼻濁音も待たずにふつりと音の途絶えたリビングはどこか途方にくれたような、それでいて空間自体が安堵したような、不可思議な感慨を家主たるフランスに与えたものだ。
夜には夜の、音が似合う。
あどけない寝息、愛しい恋人の命を繋ぐ呼吸の音は、夜を満たして心に沁み込む。
愛とこだわりをたっぷりとぶち込んだ夕食は恋人の睡眠欲を程よく刺激したらしい。「夜」と呼ぶには違和感はないけれど、温かな寝台に身体を横たえて数時間後に生まれる太陽を迎えに行くための小旅行には、些か早い時間。
リビングのソファで食後のカフェを待つまでに眠り込んでしまったカナダの隣りに、フランスはそっと腰を下ろした。優秀なスプリングが無言で仕事をしてくれた代わり軽い衣擦れがあどけない寝息に混ざりこんだけれど、眠る恋人の其れを邪魔するほどのものではなかった。
すっかりとカナダは眠り込んでいる。長旅に疲れていたのだろう。
どれほどテクノロジーが発展しようとフランスとカナダの間には紺碧の大洋が横たわっており、移動手段が数ヶ月もかかる命賭けの海洋路からジェットエンジンが唸る航空路に移り変わろうとも、その距離は厳然として変わらない。光の速さで0と1を交わす情報世界はすっかりとコンパクトになったというけれど、相も変わらず母なる海は自分達の間を隔てている。
長時間のフライトに少しだけ疲れた顔で、それでもロワシーの入国ゲートで出迎えたフランスに花がほころぶように笑ってくれた恋人は、それはそれは可愛かった。おっとりとした彼を急き立てるように自宅へと連れ帰り、リビングでお茶を出すよりも早く寝室へと連れ込んでしまうほどには。
あどけない寝息を立てて眠る恋人を見つつ、フランスは苦笑する。
いくら久しぶりの逢瀬とはいえ、「それ」ばかりが脳内を駆け巡っているような若者と呼べる期間はとうに過ぎているというのに、これで自分もまだまだ現役らしい、なんて。
「あー‥‥この子が可愛いのがいけないんだよ、うん」
零した言葉は無意識で、その内容のどうしようもなさに思わず苦笑するフランスである。
だって、可愛いのだ。
この歳若い嘗ての我が子、‥‥漸く取り戻した、恋人は。
彼が眠り込む姿など、文字どおりに数え切れないほどに見てきた。
謎と希望に満ち溢れていた新大陸で小さな彼を殆ど偶然で拾ったとき。粗末な丸太小屋で共に身体を丸めて眠っていた夜。抱き上げ、抱き締めた腕の中で眠りに落ちた柔らかな体温と健やかな寝息。‥‥仇敵との戦闘、その敗北の末取り上げられた子どもが小柄な腐れ縁に抱かれて眠っているのを見て、涙を零したことすらある。
宗主の傍に侍って参加していた会議の控え室のソファでしていた転寝、あるいは緩やかな独立と主権を得た彼が怒号飛び交う会議室で白い家族を抱き締めてぽやぽやと寝ていた姿を。そう、幾度も見かけた。
静かに眠る姿を、あどけなく眠るカナダを。
幾度も、いつも、いつでも。見つめていた。
眠るカナダの頭へと、そっと手のひらを伸べる。
細心の細やかさで触れた自分似の巻き毛は、体温を移してほんのりと温かい。
少しだけ湿っているように感じるのは、日も高いうちからたっぷりと時間と愛情をかけて肌を合わせた後、汗を流すシャワーより先に夕食をすすめたからだ。確実にフランスより多く快楽の極みを得たカナダは疲れきり、意識を飛ばして最後を迎えた。急くように求めながらも避妊具は使用したため内側の始末をする必要はなかったので、彼が寝るままに寝かせておいて夕食の準備をしたフランスである。
結構な時間フランスの寝台で眠っていたカナダであったが、それでも眠り足りなかったらしい。或いは、腹がくちてまた別種の眠気が彼を訪ったのかもしれない。
ゆっくりとした小さな寝息を立てながら、カナダは眠る。
すっかりと成長した姿は勿論一人前の青年のものなのだけれど、どこかあどけない、無垢で純真な印象を持ってしまうのは、何故だろうか。
自分達は、己の遺伝子を次世代に繋げる為の存在ではない。
それでは何かと問われると返答に困るのだが、少なくとも一世紀にも満たない人の其れのように己の遺伝子を、DNAを組み替えつつ基礎を残し時を渡していく存在では、ない。
まったきヒトと同じ姿をして、同じうつろい惑う心を持つにも関わらず、眠る姿に無条件のいとおしさと庇護欲を覚えることで次世代の命を守る、その枠組みからは外れているはずの存在なのだ。‥‥ああ、けれど。
「可愛いね、カナダ」
眠る恋人の髪を柔らかに梳りながら、小さな頃の彼を思い出す。
腕の中、無防備に意識を飛ばして眠っていた、温かな身体。
奪い取っていった腐れ縁の、薄い肩に凭れて眠っていた小さな背中。
世界会議の控え室、主権を持たずに宗主の言いつけに沿って待機する控え室でしていた転寝。
言葉を積み重ねての主権を勝ち取った末、柔らかな雰囲気のまま会議場で眠り込んでいた姿。
どれもカナダだ。可愛い、いとおしい、フランスが愛したカナダだ。
眠る姿は可愛く感覚するように出来ている。
なるほどカナダは可愛く、今も隣りに掛けて髪を梳るフランスにお構いなしに小さな寝息をたてて眠っている。とても可愛い。とても、愛しい。
けれどそれは、睡眠という無防備な姿がもたらす本能では、ない。
自分達は長い時間を渡る。市井の、愛する国民達の其れとは根本的に異なる時間を、己の身体と国家の歴史を携えて渡る。
そこには受け渡す遺伝子は存在しない。次世代を、より優れた命を紡ぐ為の本能は必要ない。何故といって、自分達はひとつだけであり、同時に全てでもあるから。
だのに眠る彼がこんなにも愛しいのは何故。
小さな寝息を立てて、フランスの家で食事をし肌を交わし気に入りのソファでまるまって眠る姿をみて、こんなにも、泣きたいほどにいとおしいのは、何故。
「それは俺が、お前を愛しているから。」
可愛い、あどけない無垢な姿に庇護欲という名の本能的な愛情を刺激されているのではない。
カナダが、カナダだから。ここに居る、ともに在れることそのもの、その時間が、空間が愛しくてならないから。
フランスはゆっくりと、恋人の髪を梳る。あたたかい。あたたかなそれに触れられる悦びを、かみ締める。愛しさを、堪能する。眠るこの子はとても可愛い。
「‥‥けど、起きててくれても本当に可愛いからねー?」
ひそりと、独り言を装った言葉はけれど、じわじわと赤みを増して今ではすっかり紅色に染まってしまった耳の縁に、流し込むように。
ヒトは、眠る人間の姿は必ず可愛く見えるようにできているという。
それは本能の領域。か弱い命を、遺伝子を繋ぐ為にヒトが編み出した最強の本能。
けれどそれ以上に、其れを凌駕してヒトを人間たらしめるのは。
「‥‥もう、起きてるの知っててからかうの止めてくださいよ」
「からかってませんー。可愛い恋人を堪能してただけです!」
やんわりと抱き締めた温かな体温に愛しさをつのらせながらフランスはかみ締める。
眠る姿を可愛いと感じるのは、確かに半分は本能なのだろう。自分達はヒトではないけれど、同じ心を持つ人間でもある。
けれどそれ以上に、否、それを含めて、カナダを愛しいと思う。
すよすよと眠る姿も、耳の縁を赤く染めて腕の中にいる姿も、愛しい。フランスは、彼が彼であるから好きなのだ。カナダを、愛している。
「うん、寝てるのも可愛いけどね、せっかくだからお兄さんとお話しましょ?」
「‥‥ふふ。はい、フランスさん。あ、そうだ聞いてくださいよ!この前ねホッケーの試合観に行ったんですけど、そこでもうすっごい事件が‥‥‥」
他愛のない会話。昔と変わらないおっとりと甘い声を、フランスは、愛している。
抱き締める身体を、ようやっと手に入れた、穏やかな日常を。
「愛してるんだよ」
その言葉に対する返答は優しい会話を一頻り楽しんでからもう一度、熱い肌を辿る最中に聞かせてもらうことにしよう。
もう、本当は聞かなくたってわかってはいるのだけれど、ね。
夜想曲
the end.(2011.03.23)
静かな夜はお前を想おう