窓から飛び込んできた妙に切実な羽ばたきに、イギリスは刺し掛けの刺繍針を一度引いた。

窓から零れる午後の光はロンドンにはめずらしい温かな金色。
気に入りのアンティークテーブルには淹れたばかりの紅茶が馥郁たる香りを室内に振り撒いている。
その横にはいつものようにティーサンド‥‥ではなく、今日は色鮮やかな刺繍糸が所狭しと並べられていた。勿論手元には、枠に嵌めた刺しゅう途中の布地。
非常にわかり易い、紳士の休日のひとコマである。

飛び込んできた鳩さえいなければ、だが。

イギリスは一つため息をつくと刺しゅう枠を置き、立ち上がった。
指貫を置き、代わりにいつもの皮手袋を嵌め直す。

「ピエール、来い」

いろんな意味でうんざりな腐れ縁所有の鳩とはいえ、鳩自身に罪はない。
覚えてしまった(勿論覚えたくなどなかったが!)鳩の名を呼べば、バサバサと普段にも増した羽ばたきでイギリスの元へとやってきた。
イギリスは眉をひそめる。

「‥‥あのバカ、こんなちっせぇヤツに何持たせてんだ」

呟いた声は誰にいうともないものだったが、まるで「全くだ」と言わんばかりにバサバサと旋回したピエールの足輪に括り付けられた、運び人(鳥)とさして大きさが違わない荷物を受け取った。‥‥結構重い。
無論、人間であればたいした重量でもないだろうものだが、身体の小さな鳥にしてみれば結構な重労働だったに違いない。
基本的に人間には(ごく一部を除いて)厳しいが、動物や妖精たちなど小さき者達には優しいイギリスである。あの野郎今度ボコる、と不穏極まりないことをサラリと口にしながら、荷物をテーブルに置くと手を伸べてピエールを呼んだ。皮手袋をした指先に、先ほどまでの必死さとは打って変わった優雅な羽ばたきで舞い降りた、鳩の背を優しく撫でてやる。

「いつものところにエサ置いてるからな。‥‥お疲れ」

微笑んでそう言うと、窓ではなく開けたままのドアのほうへと手を伸べる。フランスのほかにも通信に鳥類を飼っている連中は複数いるので、出口付きの給餌室を屋敷内に設けているのだ。賢い彼らは間違えることなくその部屋で食事をして休み、場合によっては返信を受け取って帰るのである。
さて、今回は返信はいるのだろうか。
あってもしたくねぇというのがイギリスの本音であるのだが、仕事であればそういうわけにも行かない。もっともフランスの場合、単純に暇だったからとか純粋にからかう理由でピエールを遣ってくることもあるので、一概にはいえないのだが。
イギリスは机に置いていた包みを取り上げる。
薄い布に包まったそれは、重力に従って下に丸いフォルムを描いているところを見ると、書類の類ではないらしい。
まあ何にせよ、外袋を眺めていたところで中味が判るわけでも変わるわけでもない。イギリスは丁寧に結わかれた布を無造作に解いた。

「‥‥‥‥あ?布?」

外袋が、ではない。荷物の正体が、である。
丁寧な仕事の、一枚織り。光沢が出ない特殊な織りをしているが、ひんやりとしたえもいわれぬ触り心地と金属めいた硬質な衣擦れはそれが極上の絹であることを主張している。色は淡く優しいベイビーブルーだ。
あまりにも予想外すぎる届け物に、さすがのイギリスも唖然とした。
と、その絹の狭間からひらりと二枚、紙が滑り落ちる。そこには見紛えようのない、フランス本人だけが使えるシールとサイン。そして一枚目には、一文だけ。




『イギリスへ  刺しゅう頼むなー因みにテーブルクロスです!  フランスより愛を込めないで!』




「‥‥呪いでも込めてやろうか‥‥ッ!」

ギリギリと奥歯を噛み締めながらの呟きは冗談でもなんでもなく、片手に収まっているクロス(予定)にいったいどんな食事が不味くなる呪文を刺してやろうかと脳内の呪術書をすごい勢いで繰っていたのだが。
二枚目に記された一文に、脳内呪術書をパタリと閉じた。
書かれているのは、やはりたった一言。




『意匠はメープルリーフで頼む。』




「‥‥そっか、カナダの」

呟いて、イギリスは抱えたベイビーブルーの絹を見た。




カナダは、彼の弟である。
主権国家として独立しているものの、英領時代から現代に至るまで、それは変わりない事実として存在していた。
その成長を見守って、お互い納得のうちにイギリスの元を離れた、カナダ。‥‥幼い頃、フランスの手から奪い取った。
カナダはおとなしく聞き分けの良い子供で、当時のイギリスにもよく懐いてくれた。もっともイギリスはといえば、その南に存在したもうひとりの幼子のほうに愛を注ぎ倒していたのだが。
それを鬱陶しがってあの子供が武力を持っての独立を望んだことを思えば、イギリスがカナダにあまり構いつけなかったのはある意味正解だったのかもしれないと、今となっては思う。
しかし、其れを差し引いてもカナダはイギリスに従順で、よく懐いてもくれた。思えばアメリカの独立戦争時も、隣り合う兄弟としてその手を取ろうとしたアメリカを振り切って、イギリスの傍へ残ってくれたのだ。
そのカナダも今では独立したけれど、変わらずイギリスを兄として、それとなく慕ってくれている。
次の独立記念日にも、彼はこの屋敷に来ることになっているのだ。
正確には翌日であるが(さすがに彼も当日は本国で仕事だ)、来たからといって何があるというわけでもない。上司のところへ少しだけ顔を出して、彼女からプレゼントのひとつでも貰って(アイスか何かだろう)、イギリスからもプレゼントを渡して。
あとは屋敷で二人だけの晩餐と、宿泊と。

「‥‥ああ、その後、行くところがあるっつってたっけ」

フランスとカナダの間に、当時どのような繋がりがあったのかは知らない。
興味もなかったし、知ったところでどうすることもなかっただろう。イギリスは正式な‥‥戦勝に依るものであるから正統な、とは言い切れないが、世間的にも認められる条約発効のもと、彼を譲り受けたのだ。

それでも、知っていたことはいくつかある。

例えば、時々誰かを呼ぼうとして、口を噤んでいたこととか。
例えば、綺麗な英国英語に混じる他言語であるとか。
‥‥泣いていた、こととか。

「そっか」

イギリスは再度呟いて、しっとりとした絹を抱えなおした。
繰り返すが、フランスとカナダの間に当時どのような繋がりがあったのかなど、知りもしないし興味もない。また、今現在に至る関係にも、言及するつもりはこれっぽっちもない。ないのだが。

「‥‥笑ってた、な」




『すぐに帰るのか?暫くうちに居てもいいぞ』
『あ、いえ、帰るんじゃなくて‥‥あの、行くところがあるんです。‥‥約束を、してて』





そう、美しく笑ったから。




イギリスは絹を抱えて、先ほどまで座っていたソファに再び身体を沈めて、目を閉じた。気に入りのソファはそのまま背凭れに身体を持たせかけたイギリスを、柔らかく包み込んでくれる。
すいと指先をすべらせれば、滑らかな絹の刺しゅう糸の感触。
豪奢で華麗、それでいて可憐な薔薇が精緻にあしらわれたソファは、確かに『イギリス』の持ち物に相応しい代物である。むしろ、彼にしか似合わない意匠といっても過言ではない。

(‥‥そう、だからアイツには)

うっそりと瞼を持ち上げ、視線を滑らせた先。
机の上には色鮮やかな幾種類もの刺しゅう糸と、‥‥刺しゅう途中のベッドカバー。




‥‥優しく咲き誇る花々、峻険な神々の山麓に萌える緑。
それらを模した刺しゅうは毎年、長い冬を過ごす弟の為に。




「テーブルクロス、ねぇ‥‥」

まあ、アイツらしいといえばアイツらしい。
あの腐れ縁の唯一の長所といえば、あの食事くらいだし。
食器やファブリックにも拘って、カナダをもてなしたいと思っているのなら、それはそれで良いことだろう。

それで、あの弟が笑ってくれるのならば。

イギリスはひとつ息を吐くと、反動をつけて身体を起こした。
卓上の色に溢れた刺しゅう糸を掻き分けて道具入れから下絵に使うペンを取り出した。幾種類かあるうち、白のマーカーを選んで膝に置いていた絹地を広げる。
その縦横を確認して、四隅のうちの一つを選んで机の上に広げた。ペンを執る。
刺しゅうの図案は通常、別紙に描き起こしてから何度も手直しをし、納得いくまで吟味をした上で布に転写して、其れに沿って針を刺していくのが基本であるが、今イギリスがしようとしているのは、図案とは関係のないことだ。

(‥‥メープルリーフなら、色は一色に統一して厚く刺そう。テーブルクロスだから、中央には刺しゅうを入れず縁に行くほど厚く繊細に刺していく。四隅には、絹で編んだレースをあしらおう。)

「だから、これは見えなくなる」

呟く間に、イギリスはペンを素早く動かして絹地に一つの意匠を‥‥正確には、一文を。書き込んだ。
机の上に広げていた刺しゅう糸から、生地とほぼ同色の淡いブルーの糸を選び、針にかける。生地に枠は掛けず、指先で巧みに生地を張りながら慣れた手つきで、けれど細心の注意をはらって刺しゅうを施していった。

「‥‥出来た」

最後まで刺しきって、糸を切る。
小さなその刺しゅうは、生地と同色の糸であることと相まって、一見した程度ではその存在すらまったく判らない。
もとより、この上からフランスの依頼どおり砂糖楓の刺しゅうをくまなく刺していくのだ。この、刺しゅうの上にも。

だから、これは見えない刺しゅう。秘密の文章。

「‥‥ある意味、呪文だよな」

呟いた己の言葉にイギリスは笑った。確かに、願いを込めた文章をそういうのならば、これは秘密の呪文といってもいいだろう。料理は不味くならないけれど。




窓から零れる午後の光は、赤色を増して室内に深く入り込んでいる。
気に入りのアンティークテーブルには、すっかりと冷めてしまった紅茶。
机の上には色鮮やかな刺しゅう糸が所狭しと並べられており、傍らには可憐なマウンテンマーシュ・マリーゴールドを刺しゅう途中のベッドカバーと、呪文を刻んだベイビーブルーの極上の絹。

‥‥リーフの図案を、考えなければ。ベッドカバーも早く仕上げないと、時間が足らなくなりそうだ。

「忙しくなるな‥‥」

呟いた声はうんざりとした口調をして、その中に笑みも含んで。

イギリスは再びソファに背を持たせかけた。
目を閉じると、不意に眠気が襲ってくる。
休日であることだし、少しくらい眠っても構わないだろうとそのまま睡魔に身を任せる。

ふと、眠りの縁で今は本国に居るだろう弟の顔が頭を過ぎった。
相変わらずのふわふわとした笑み。
ベイビーブルーのテーブルクロスを掛けた食卓で、フランス料理を食べている。

イギリスは笑って、先ほど刺した秘密の呪文を彼に贈って、眠りについた。









『親愛なる者よ おまえの幸せを 私は祈る』









 ブラザー・ウィザード





end.(2008.06.29)

文字の刺しゅうは意外に手間取るのですが
ブリタニアエンジェルの千年越しの熟練技ってことでひとつ。