懐かしい、甘い匂い、甘い記憶。

糖蜜が、胸元で揺れている。
正確には子どもを抱き込んだ腕の中、糖蜜色をした愛らしい頭が健やかな寝息に合わせて、ゆっくりと揺れている。
ふわふわと揺れる髪は、己のものとはまったく違う淡い色。やんわりと撫ぜ梳く其れは猫の毛のようなしなやかさで、子ども特有の高めの体温を宿してほんのりじんわり、温かい。

「‥‥ふふ、」

腕の中、無防備に力を抜いて眠りかける可愛い子どもを、己の身体ごとゆっくり揺らしてあやしながら。じんわりと伝わってくる体温やどこか懐かしい甘い匂いに、日本は小さく忍び笑ったものだ。




恋人と、その「ちょっとしたミス」の産物であるところの恋人の子どもが正月休みを過ごすべく自宅にやってきてから早数日。小さな姿が常時自宅にいる生活にも、そろそろ慣れた。
そもそもが身体が小さくとも『国』という、世間一般で言うところの子どもとは少し違ってはいるせいもあるのかさほど手は掛からないのだが、そこはそれ。身体に見合った柔らかでいとけない思考回路になっている小さな彼は、身体機能も身体に見合ったものであるらしい。

こどもが体調を崩さぬよう、普段よりも高めに室温設定した居間から柔らかな笑い声が聞こえなくなったのに気がついて覗き込めば、どこもかしこも丸いパーツで成形された小さな身体が、ぺふり、と畳の上に転がっていた。
やわらかなシャツドレスの裾をふわりと広げて転がるまろやかなフォルムに、日本は知らず笑みを零す。

「‥‥おや、おや」

初めてこの光景に出くわした時には体調を崩したのではと青くなり、慌てて保護者であるところの己の恋人を呼びに行ったものだ。今となってはそんな自分の行動にこそ、苦笑したくなる。
日本は自らの羽織物を脱ぎながら足音を立てぬようにそっと転がる小さな彼の傍に近寄ると、少し躊躇してから両膝をついた。上体をそっと倒し、両腕を小さくまるまった身体の首と腰の下へと滑り込ませるようにして、抱き取る。小さな身体を己の上体に密着させたまま慎重に身体を起こして、ほんの少しだけ己の重心を後ろめに落とせば、腕の中の子どもはころんと胸元に全身を預けてくる。これで、縦抱きの完了だ。
小さな小さな指先がもしょもしょと動き、着物の合わせを握りこんでくる。ふにゅうみゅと小さな唇を動かしている姿は愛らしく、声を立てずに笑えばその振動が伝わったのか、おっとりと青灰色の瞳が現れ、此方を見上げてきた。

「‥‥ん、ぅ?」
「ああ、いいんですよ、カナダさん。このまま、お昼寝しましょうね」

目を合わせたまま、ゆっくりひっそりとした声で告げれば、おっとりとカナダの目が伏せられる。ふすふす、くふぅ。子どもらしい早く浅い寝息を邪魔しないよう身体を微かに揺らしながら、日本は膝をつく際に脇に投げ置いた羽織をとると、胸元の小さな身体をくるむようにして、その上から改めて子どもを抱き取る。背を覆った布の感触にかふるりと一度震えた身体は、やんわりと撫ぜて宥めれば、再びふすふすと小さな寝息を立てて、眠り始めた。
子どもの仕事は寝ることと遊ぶこととはよくも言ったものだ、と日本はぼんやりと思う。
もっとも彼の場合は「ちょっとしたミス」の産物という(‥‥まぁ、大概常軌を逸した「ミス」ではあろうが)暫定的な姿ではあるのだが、他聞にもれず彼も良く寝た。‥‥いや、常態の頃から良く寝ていた気もしなくもないが、そこは置いておくとして。
身体を丸めて眠る姿は、数日を共に過ごすうちに慣れてきた姿とはいえ未だ見るたびただただ愛らしい。しかし、こうして抱き上げ眠らせる機会はついぞなかった。‥‥そう、なぜならば。

「‥‥今日は、あのひとがお仕事ですからねぇ」

鮮やかな金と翠緑の姿を思い浮かべながらほろりと零した声は、ほんのりと甘いものになっていて。
日本は己の声に妙な気恥ずかしさを覚えて、は、とひとつ息をついた。

まるでスイッチが切れたように眠りにつくこどもを、気がつけば抱き上げあやし眠らせている恋人の姿を日本はここ数日で幾度も見かけていた。
家主である日本にも懐いてくれてはいるものの、小さくなったカナダにとって、その『親』であるところのそのひとはやはり特別なのか、大抵彼の傍に居た。本を読む彼の背によじ登ってみたり、足元にぼんやりと座り込んでいたり。おっとりぼんやりしがちなせいで気がつけばその姿を見失ってしまいトタトタトタとおっとり駆けてそのひとを探している姿など、シャッターチャンス以外の何者でもない。
とはいえ、そんなカナダも一人で遊んでいるときもある。己の恋人で彼の保護者‥‥イギリスが、仕事をしているときだ。

そもそもイギリスは、年始早々始まったこの休暇を本来の彼の家でのクリスマス休暇をずれ込ませた上に更に上司に掛け合って、もぎ取ってきたらしい。日本では考えられない長期休暇に日本のほうが心配になったものだが、欧州ではさして問題ではない期間だという。
とはいえ立場上まったくの仕事なしな休暇とはいかないらしく、時折専用の執務室代わりに貸している書斎で仕事をしている。今まさに、このときのように、だ。
そんなこんなで、カナダは一人居間で遊んでいたのだが。

「い‥‥ぃぅ、さ、」
「はい、イギリスさんなら近くにおられますよ。大丈夫」
「‥‥んん、ぅ」

なんというか、不思議な感じだ、と日本は思ったものだ。

すよすよと、眠る身体は信じられないほどに柔らかく温かかった。
実のところ、日本は長く生きているわりにあまり子どもと触れ合った経験がない。それはごく近い場所に中国という、この近隣諸国にとっての広い意味での兄であり父であり母でもある人が、居たせいである。
彼の傍には嘗て小さなこども‥‥生まれたての国がたくさんいて、自分もまたその一人であった。
なにぶん古い記憶であるがため、記憶は随分と曖昧になってはいるが、抱き上げられ、あやされた記憶はおぼろに残っている。
優しい声、抱き上げてくれる腕と、頭を撫でてくる手のひら。
しかし、己がその兄の立場になり、抱き上げあやした経験というのは、殆どない。
そのせいか、この小さな子ども、小さなカナダを抱いて眠らせている、という現実は、なんというか実に、面映くこそばゆい気持ちにさせてくれた。

‥‥まして、この腕の中に居る小さく愛らしい子どもは。

「イギリスさんの、ですからねぇ‥‥」
「‥‥ん?俺がどうかしたか?」
「おや、」

ふわりと薫るのは、仄かに甘い紅茶と薔薇の匂い。

いつもながら凛然とした、けれどどこか親しげに打ち解けた声に、日本は上体をなるべく動かさないようにしつつ仰のいた。
視界の上端いっぱいにちらりと翻った金色が、翠緑を引き連れて視界の中央へと逆しまに入ってくる。

「お母様のご登場で」
「馬鹿、お前の母親になった覚えはねぇぞ。‥‥ん、」

軽口の締めとばかり、ちゅ、とくちづけの音だけが額の上の辺りに響いた。
イギリスの海峡越しの隣国である相手は「あの坊ちゃんときたらいーっつも堅ッ苦しくてねぇ」などと常日頃から言っているのだが、こういう仕草を見るにつけ、やはりイギリスも西洋の人間なのだなと思う日本である。なんというか、いちいち仕草が甘ったるい。
私には一生かかっても出来ないししない仕草ですやはり西洋文化は複雑怪奇、との思いを新たにした日本であったが、己の仕草を恋人に不思議がられていることには気づかないままイギリスは、ややぎこちない仕草で畳の上へと腰を下ろした。‥‥書斎は椅子なうえに母国での生活も椅子なせいか、ややぎこちなくなるのは仕方のない話なのだろう。
そうして隣りに腰を下ろしたイギリスは、恋人の腕の中で眠っているこどもに視線をやってから、すまなさげにその特徴的な眉の端を落としたものだ。

「あー‥‥悪い、子守させちまった」
「え?いいえそれは全然構いませんけど。ああ、お仕事お疲れ様です。あの、それよりイギリスさん、」

お静かに、との声はごくごく密やか。
一度眠ってしまった子どもというのは案外起きないものだが、子どもに慣れていない日本には常の音量で話すイギリスが気になるのだ。まぁ、ごく近い場所で話しているのだから端から大きな声ではないのだが。
ひそひそと話す日本を察してくれたのか、鮮やかな翠緑をした瞳を瞬かせたイギリスは、悪い、と短く、密やかな声で返してきた。己の意図が通じた安堵に、日本はほわりと目元を緩めて恋人へと視線を返す。

そのまま暫し、すよすよと子どもの寝息だけを聞く時間が過ぎる。

「‥‥よく寝てんなぁ」
「ええ、先ほど気がついたら、畳の上にころんと。あれ可愛いですよねぇ、初めはびっくりしましたけど。‥‥あっ、ちょっと、止めてくださいよ」
「んー?」

日本の腕と羽織の内側、すよすよと眠る子どもの柔らかな頬を、にゅっと伸ばされた白い指がつつく。ふみゅ、と仔猫か何かのような声をだしむいむいと首を振って日本の胸元に顔を埋めるカナダを、優しく背中をさすってあやしながら、そのむずがる原因となった指先の相手を日本はきろりと睨みあげた。

「もう、カナダさんせっかく寝ていらっしゃるんですから、イタズラは止めてあげてください。起きたら可哀想でしょう。‥‥どうかしましたか?」
「‥‥‥‥いや、」

なんでもない、とでも言いたいのか、ひらひらと日本に向かって片手を振ってみせるイギリスだが、口元をもう片方の手のひらで覆って目を逸らすイギリスの姿は、どうみたところでなんでもなくはない。

「イギリスさん?」
「‥‥ああ、うん。‥‥なんかお前、母親みたいだったから」

こみ上げる笑いをかみ殺している、というか。
妙にふわふわとした、けれど密やかな声での発言に、日本は思わずカナダを撫でている手を止めてしまったものだ。
それから、呆れた風な息をつく。‥‥確かに思い返せばそのようにも取れなくはない台詞であったが、しかしこのひとに言われるのは、どうか。

「‥‥なにをおっしゃるかと思えば。カナダさんの母親といえば、それこそ貴方じゃないですか、イギリスさん」
「いやそこは父親か兄って言えよ?」
「はて、どちらかというと父親はフランスさんじゃないですかね」
「あんな変態ヒゲにカナダを認知させてなんざやるか。コイツは俺のだ、俺の」

この上もなく嫌そうに告げられた言葉は、なるほど本気なのだろうが。
本気だからこそおかしいというか、日本は思わず笑いそうになったものだ。‥‥認知! ますますもって「この子は私ひとりで育てます。認知なんていらないわ、あなたなんて父親失格よ!」とかなんとか、まるで昼ドラにでもありそうな台詞だなんて考えは、さすがに口にするつもりはないけれど。
先ほどとは全く逆の、笑いをかみ殺す日本をいぶかるイギリスという構図さえも可笑しくて、日本は胸元の温かく柔らかな存在をあやすふりをしてそっと小さな頭へと己の其れを伏せた。
ふわん、とどこか甘い匂いがする。それが不思議だった。
カナダは確かに甘いものが好きだが、食事自体はイギリスや日本とほぼ同じメニューで生活している。身体こそ小さくなったが、彼は一般の幼児ではない。
なのに、抱き締めた身体は温かく柔らかで、甘い甘い、どこか懐かしい匂いがするのだ。

「‥‥これが子どもの匂い、というものなのでしょうかね」

ほろりと零した言葉は、いつのまにか日本の髪を梳いていた手のひらの相手を、やんわりと微笑ませるものだったらしい。

「ああ、妙に甘ったるい匂いがするだろ」
「ええ。甘くて温かで、ふくふくしい、と言いますか‥‥何故か無条件で可愛がってあげなければという気にさせられますね」
「ガキってのはそういうもんだろ」

こどもを抱き締めたまま俯いた黒髪を、白い指がゆっくりと梳きおろす。 ‥‥ああ、撫ぜられるという行為に、遠い幼い日を思い出すのは、仕方のない話なのだろうか。

遠い遠い、優しく柔らかな、幼い日々。
抱き上げられ、頭を撫でてくれていたひと。優しくされていた、『兄』であり『母』であったひとに、確かに愛されていた、日々。

「そういうもの、ですか」
「そういうもの、だよ。‥‥可愛い」
「ふふ、そうですね」
「‥‥お前が、だからな」




そうして今は、腕の中の子どもにとって『兄』であり『母』であり、自分にとっては無二の『恋人』である人に、確かに愛されている日々。




「‥‥イギリスさんて、本当にお母様なんですねぇ」
「いやだからそこは兄とか父って言えよ。それにお前の母親になった覚えは、」
「恋人、ですよね?」
「‥‥っ、」

子どもを起こさぬよう、顔を上げながら密やかな声で言葉尻を捉えれば、ぽわわんとなんとも可愛らしく頬を赤らめた恋人と視線が絡み合う。
いかにも西洋人らしく言葉も仕草も甘ったるい、かと思えば幾人もの小さな子どもを育て上げた『親』らしい優しく清らかな愛を垣間見せ、可愛いだの何だのと伊達男さながらな口説き文句をさらりと口にしたその直後、口説き返せば頬を染めて照れる。

「‥‥イギリスさん、可愛い」
「なッ、ば、ばかだからそういうのはッ、お前のほうがだな?!」
「はい、お静かに。カナダさんのお昼寝の邪魔はしないで下さいね?」
「‥‥ッ!!」

はくはく、と唇だけを動かした恋人に、にっこりと笑いかけた日本は、再び胸元で眠るこどもに視線を戻して、優しくその背を撫ぜてあやす。
小さく柔らかく、温かい。甘い、懐かしい匂い。

‥‥と、そこでふわりとやはり甘い、薔薇と紅茶の匂いが鼻先を掠めて。

「‥‥‥‥‥‥。あんまり爺を驚かさないでくださいよ、血圧上がったらどうするんですか。松も明けないうちから春一番なんて御免被りますよ」
「お前の口説き文句で俺の血圧先に上げといて何を今更。‥‥あ、ブリテン島の雪が解けてくれるならいっか」

ちゅ、ともう一度合わされた唇は妙に可愛い音を立てて離れ、まるで残像のように金髪が下へと流れていくのを日本は呆然と眺めたものだ。揃えてついた両膝の直ぐ脇にころりと身体を伸べて、日本の腰へと腕を回してくる相手は、言わずもがな。

「‥‥仕事で疲れたから、俺もちょっと昼寝する」
「‥‥‥‥はい。ふふ」

カナダを胸元で支えながら、その背を撫ぜていた手のひらをそろりと移動させて金髪を優しく梳けば、耳の縁を赤く染めた恋人に指を捕られてキスされた。




腕の中、無防備に力を抜いて眠りかける可愛い子どもを、己の身体ごとゆっくり揺らしてあやしながら。‥‥同時に己の腰を取る腕の、カーディガンと着物越しにじんわりと伝わってくる体温、そして甘い紅茶と薔薇の匂いを、懐かしく愛しく思いながら。

日本は小さく甘く、忍び笑ったものだ。