「‥‥ん?」
日本の屋敷では、外履きは脱ぐのが基本だ。
家主である日本は「足袋」と呼ばれる靴下のようなものを着用しているが、イギリスのように外から来た客に対しては、板間を渡るとき専用の内履きが用意されている。踵への覆いがなく、爪先から甲にかけて引っ掛けて手軽に履くことができるふかふかした履き物は、外履きを脱ぐ風習がなかった国達を困惑させたものだが、今ではその機能性(屋敷内に外の埃や泥を持ち込まなくて済むなど)からか、それぞれの母国でも内履きを用意するものもいるほどだという。
イギリス自身は、本国では伝統どおりに寝室以外で靴を脱ぐことを良しとしないが、かといって他国の風習やスタイルの変化に口を出すほどに頑迷ではない。郷に入っては郷に従え。古の賢人の言葉には素直に従うことこそが、母国ではない場所で過ごすもっとも優れた適応術なのだ。
況して同じ「客」扱いの中でも、自分専用の履き物が用意されていたりすれば、嬉しくないわけもない。‥‥「恋人」扱い、という別枠扱いならばますます持って嬉しいわけで。
そんなこんなで、年末に張り替えられたばかりの障子紙も美々しい引き戸を開けた先の足元に、あるべきはずの履き物がないことに、イギリスは思わず首を傾げたものだ。
畳の部屋から、年経た飴色があでやかな板の廊下へ。そこには、柔らかな素材で縫われた自分専用の履き物があった、はずなのだが。
在るべきものがない問題の解答は、可愛らしい音とともに、やってきた。
「ああ、カナダさん駄目です。いけません、それはイギリスさんのですよ」
飴色の廊下を、澄んだ軽やかな笑い声と、しゃたん、しゃたん、どこかおっとりと牧歌的な音が近づいてくる。其れを追っているのだろう、聞き慣れた恋人の、微妙に笑いを含んだ、けれど困惑気味の声もセットで。
屋敷内を仕切る廊下は入り組んで居て、その姿はまだ見えない。けれど、まるで透視したかのように容易に想像がつく光景に、イギリスもまた苦笑した。やや心許ない靴下の足を廊下につけ、音を立てないように引き戸を閉める。耳を澄ますまでもない音の方向へ足音を殺して進み、見通しの利かない角から2歩ほど引いたところで、彼らを待った。
「カナダさん、お待ちなさい、廊下は走っては‥‥、」
「駄目だと言っているだろう、カナダ?」
「きゃぅ?!」
曲がり角から現れた小さな柔らかい身体を、イギリスは掬い上げるように抱き上げた。前に進む力を利用して、そのまま自らの背をやや越す辺りまで放り投げてやる。ふわり、空気をはらんだシャツドレスが甘い色をした髪と一緒に辺りに広がった。
「‥‥ぅ、う?」
「カナダ」
いきなりの上下運動にか、やや目を回したようにきょとんとする子どもを、イギリスは胸の辺りに両手でしっかりとキャッチすると、落ち着くのを待ってから、わざとらしいほどに鹿爪らしい口調で子どもの名を呼んだ。
ぴくん、と小さな身体が震える。どうやらその一声だけで、今自分を抱いてくれているひとの言いたいことが判ったらしい。恐る恐る、といった感じで、ふっくらと柔らかな頬をした顔を、イギリスへと向ける。
彼のもうひとりの保護者によく似た綺麗な弧を描く眉の端がへにょんと落ち、それに合わせるようにふわふわ頭上に揺れているくるるんとした髪もまた、落ちていた。優しい湖水色をした零れそうに大きな瞳がそろそろと窺ってくる姿は、なんとも言えず愛くるしい。
が、イギリスは敢えて鹿爪らしい表情を崩さず、子どもへと視線を合わす。言葉はない。既に一度言葉にはしているし、なにより子ども自身が何が悪かったか、そしてどう行動すればいいかを、自分で考えるべきだからだ。
「‥‥ごめんなさい」
「それは、何に対するごめんなさい、だ?」
「ろうか、はしっちゃったの、」
「それだけか?」
「きくさんが、だめって、ゆったの、きかなかったの‥‥」
「なら、誰に謝るべきだ?」
「きくさん」
「そうだ。‥‥さ、」
そこまで聞き取ったところで、イギリスは腕の中の子どもをそっと廊下へと下ろしてやる。しゃたん、やはり可愛い音がしたのにイギリスは口元をむずつかせながらも笑み零れるのを押さえ、廊下の角を曲がったところで立ち止まり成り行きを見守っていた日本へと、視線を向けた。
イギリスが厳しく叱るのではと若干心配していたのだろう、軽い遣り取りで終わった親子の様子に心持ちほっとした風に、日本は目顔だけで恋人に頷いてみせた。それから、身体をそわつかせてこちらを窺う子どもへと、視線を合わせるように片膝をつく。
「カナダさん」
「ごめんなさい。いけませんって言ったの、きかなくって、ごめんなさい」
「はい、どういたしまして。廊下を走ってはあぶないですよ?もしもカナダさんが転んでしまって、痛くって泣いてしまえば、イギリスさんも、菊も、哀しいです」
「うん‥‥」
「だから、ね?廊下は走らないようにしましょうね」
「あい」
こっくりと、頭全体で頷いた良い子のお返事に、日本は抱きついてきた子どもの頭を撫でながら微笑む。そして視線だけでその背後のイギリスを窺ってきたので、イギリスはひとつ息をついてから、苦笑を返したものだ。‥‥なんというか、すべてが面映い。
そして、この上もなく、可愛らしい。
丈にあわないスリッパを履いてはしゃいでいたカナダも、それを屋敷じゅう追いかけて今は小さな彼を抱き締めている、日本も。
日本が怒っていないことがわかったのか、再びきゃらきゃらとはしゃぎだしたカナダを、イギリスは今度は背後から己の肘をできるだけ伸ばした状態で子どもの両脇を抱え、小さな身体を吊り上げた。小さな身体とそれに見合わない大きさの内履きが、ぷらぷらと小さな足に引っかかって揺れている。
そう、それはまぎれもなく、行方不明になっていたイギリスの内履きであった。
どうやらカナダが走り回っていたのは、丈に合わないスリッパがしゃたしゃたと立てる音が面白かったかららしい。
‥‥確かに、可愛くはあったな。もの凄く。
イギリスは内心で楽しそうに駆けていた子どもと、さらにセットでその後ろを困ったように走ってきた恋人の姿を脳内でリプレイし、ある種の感動さえ覚えつつ心のアルバムにその光景をしっかり綴じる。
そうした後で、吊り上げた子どもと、唐突に腕の中から奪われた小さな姿をあ然と見上げる日本へとニヤリ、となんともあくどい笑みを向けた。
おっとりとした子どもは、暫くの間吊り上げられたままきょとんとしていたのだが、イギリスに背後から持ち上げられたことを悟ると、うごうごと全身を動かして暴れた。といっても元来おっとり屋の子どもの動きだ、どう見ても可愛いばかりで落とすような心配はない。
イギリスは暫く猫の仔か何かのようにうごうごと動く子どもをニヨニヨ笑いながら眺めたあと、伸ばしていた肘を畳んで胸元まで子どもを抱き寄せて。
「やーん、」
「ああ、ないと思った俺のスリッパが揺れてるなぁ。てっきり足が生えてどっかに旅に出ちまったのかと思った。‥‥帰ってきてくれる、か、な‥‥っと、」
「ぅみゃっ?!」
イギリスは膝からしっかり力を入れると、一息で子どもを上へと放り上げ、空中で二分の一ターンさせて、ちょうど自分と向き合うかたちになるように受け止めた。その拍子に、小さな足にひっかかっていたイギリスの内履きが軽い音と共に足元に落ちる。「あ!」と小さな声を上げて己の足から落ちてしまったスリッパを追う視線を感じながら、イギリスは取り澄ました表情で己の足へと其れを履く。
「残念、こいつは俺の足のほうがいいらしい。おかえり、俺のスリッパ」
「うー‥‥っ」
芝居がかった保護者の台詞に、子どもが小さな口元を尖らせて唸った。
しかしながらこころなし潤んだ瞳も、ふくふくとした頬を軽くふくらせている様も、イギリスにとってはどれも愛らしいばかりで、わざとらしい意地悪な顔でニヨニヨと笑いながらその頬へとキスをする。柔らかな手のひらがぺちぺちと頬や額を叩いてくるが、それすら愛らしい。
「イギリスさん、」
咎めるような恋人の声に、子どもで遊んでいたイギリスと遊ばれていたカナダが同時に視線を日本へと向けた。
片や可愛さ余っての意地悪中、片や潤んだ目で抗議中の其れは、可愛いもの好きな彼にとり眼福の一言に尽きる光景ではあるものの、それを口にしてはこのところせっかく懐いてくれた子どもに拗ねられてしまう、‥‥といったところだろうか。
妙に複雑な表情でため息を一つ吐いた日本が、ふくふくしい頬をふくらせ瞳を潤ませている子どもへと、腕を伸ばす。
「カナダさん、意地悪なお父様は放っておいて、こちらにおいでなさい。お昼からお買い物に行きますから、そのときにカナダさんのスリッパを買いましょう?ね?」
「いいの!?」
ぱっと大きな瞳を輝かせた子どもに日本が腕を伸べたまま頷けば、じたじたと本気で暴れだした子どもにイギリスは苦笑しつつ、恋人のほうへと押しやったものだ。
ぎゅ、と清楚な和服の前合わせにしがみつく子どもの姿は可愛らしく、少しだけ、羨ましい。
どちらに、とは言わない。だって甲乙つけがたいし。
「勿論、いいですとも。‥‥そうでしたね、カナダさんのおみ足に合う履き物を用意するのを菊はすっかり失念しておりました。ごめんなさいね」
日本の言葉にカナダはぷるぷるっと首を振る。渾身の力で振ったのか、全身がふるふると震えて、ドレスシャツの裾から白い小さな素足が覗いた。
子ども体温でどこもかしこもあたたかなこと、もとより北国であることを鑑みて、イギリスも日本も彼の室内履きについては考えてなかったわけだが、どうやらカナダ自身はイギリスの履くそれがたいそう気になっていたらしい。
「どのようなのがいいですか?」
「あのね、くまさんがついてるの!それでね、ふかふかなの」
「ああ、シロクマさんですね。承知しました。ふかふかは‥‥イギリスさんと同じ生地のものがあればいいんですが‥‥」
日本がイギリスの為だけに用意した、ふかふかの内履き。‥‥その恋人よりも頻繁に来るらしき、カナダの本来の片割れたる青年にも、『専用』と名のつくそれは用意されていないことに、イギリスとしてはひっそりと、優越感を抱いていたのだが。
自分専用の内履きと、自分のこどもであるカナダ専用の其れと。
二足が恋人の家に並んで置かれている姿も、それはそれで。
「‥‥‥‥まぁ、いいか」
日本に抱かれたまま廊下を戻っていく二人を見送りつつ、イギリスは小さく呟いた。
因みにその日の夕、いい笑顔で帰ってきた恋人と己の子どもがイギリスへと披露したのは、ふわふわとしたシロクマのマスコットが甲に揺れる毛足の長いふかふかの内履きだった。
「可愛いでしょう?これがカナダさんのです」
「それでね、こっちがイギリスさんので、こっちがきくさんの、だよ!」
「足袋もいいですが、冬はやはり足裏が冷たいですからねぇ」
小さいのが一足、そして、大きいのが二足。
すっかりと揃いの、それぞれ専用になるらしき三足に、イギリスは堪えきれずに笑ったものだ。