彼はいつだって突然に、やってくる。
「泊めて」
「‥‥ヘーイ、兄弟。カナダ?キミ、あいにく此処はdrunk tankじゃないんだけどな?」
「知ってるよ」
僕の兄弟のアパートだろう?なんて。
いつもどおりの少し語尾が甘いカナダ英語、そのくせ酔っ払い特有の甘苦い息で平然と言ってのける『兄弟』に、俺はため息一つでドアの前から身体をずらす。
おっとりとした仕草、自分より幾分細めの身体は悪びれる風もなく。まるで平然と俺の横をすり抜けて行くのを横目で見送って、俺は不夜城と世界に謳われる大都会の薄明るい夜空を見上げてから、一つため息をついて重いドアを閉めたものさ。
どうやら喧嘩をしたらしい。
‥‥ああ、どうやらなんて曖昧な言い方してやる義理なんてないかな。
また、喧嘩をしたのだ、彼らは。
「怪我は?」
「平気だよ」
人のベッドに長々と身体を横たえての台詞に、肩をすくめてミネラルウォーターのペットを投げる。綺麗な弧を描いてのフライト先は、映画みたいに兄弟の手のひら‥‥ではなくて、ベッドの上。
君ね、一応受け取るそぶりくらいしたらどうだい。
「飲んでおきなよ、明日辛いんだぞ」
「何でアメリカがそんなこと知ってるのさ、未成年」
「一般論なんだぞ、国民を理解するにはこれくらい知っておかないとね。何事も経験さ」
言いながら手元の缶ビールを一息で空けて、ベッドの上へとダイブする。
ギシリと非常に嫌な音が響いたけれど、これは決して俺が太ったからではない点は言っておく。一人住まいのアパートに、男二人が寝て平気なベッドを入れてるほうがちょっとおかしいって話だ。
まぁ、ベッドは烈しく不平を零したけれど、今すぐ壊れるってわけでもなさそうでだし。そう、これまでの経験上、俺たち二人の体重くらいまでは、たぶん大丈夫ってことなんだろう。
だから俺は、スプリングをキシキシ軋ませながら人のベッドに寝転んでいる、酔っ払いで恋人と喧嘩してきた兄弟の、不貞腐れてるのか単純に酔いが回っているのかその両方なのか解りにくい、けれどふわふわとしたさわり心地だけは変わらないシュガーカラーの髪に包まれた後頭部に、そっと労わりのキスを落とす。
ふわりと甘い慣れた匂いに混ざるのは、甘苦い酒と‥‥あのひとの匂い。
そのまま身動ぎひとつするでもない頭をゆるゆると撫でてあげれば、うつ伏せていた身体をモソモソと動かして、小さく小さく、くるんと丸まる。
一瞬見えた顎のライン、綺麗に殴られた青痣とあでやかなキスマーク。
‥‥まったく、君達ときたら本当にしょうがない。
「君らさぁ、意外と烈しい喧嘩をするよね、毎回毎回」
「うるさいよ」
「煩いと思うなら俺の部屋には来ないことだね、大人しく彼のうちの無駄にでっかい天蓋つきのベッドで寝てればよかったじゃないか」
「‥‥‥‥‥‥。」
無言回答。けれど、ゆるゆる伸びてきた腕は拒まないであげる。
大体いくら殴り合いになるほど激しい喧嘩をしたからって、出て行く先が国外でしかも飛行機で何時間も掛かる先で、それでこの泥酔状態っていったい彼はどうやって此処まできたんだか。よく搭乗許可がおりたよ、ヒースローでもJFKでも保安要員に止められるんじゃないのかなぁ?
‥‥ああ、それはないのかな。
だって彼は、俺の国民にもあの人の国民にも好感度ナンバーワンだなんていう国、そのひとなんだし。いやいや、それにしたって。
そんなことを考えているうちに、伸ばされた手は俺のパーカーの腹の辺りをモソモソと這って、最終的にぎゅうぎゅうと抱きついてくる。丸まった身体。‥‥そう、昔から彼は都合の悪いときや不貞腐れたときや、哀しいとき、こうして丸まって抱きついてくる。
ああ、ああまったく、しょうがないったら。ため息は、一度だけ。
「もういいよ、寝よう」
返答はなかったけれど、俺は構わずに部屋の明かりを落とす。
スゥと暗くなった部屋のカーテンを引いていない窓の外からは、眩いほどの街の明かり。カーテンを閉めようかな、とも一瞬思ったけれど、腰に絡み付いてくる体温や甘い匂いに、なんだかどうでもよくなって、そのままバサリとタオルケットをひっ被った。ちょっと下のほうに丸まってる兄弟にも適当にケットを掛けてやれば、もそもそと身じろいで自分で寝る大勢を整えたようだ。
部屋が、急に静かになったような気がした。
いや、実際静かになったのだけれど。灯を落としてベッドに入っておしゃべりなんてローティーンの少年少女じゃあるまいし、話すことなんてなにもないさ。
‥‥小さい頃、それこそ普通の人でいうところのティーン以前の身体をしていた頃は、こうして一緒にベッドに潜り込んでは、たくさんの話をしていた気もするけれど。
そう、俺達が小さい頃。
彼が『兄弟』になったときは、一緒の家で、過ごしていたのだ。
彼はいつだって突然やってくる。
そう、出会った時だってそうだった。
あのひとが「お前の兄弟だぞ」って言って、いきなり連れてきたのだ。
今思えば、あれはあのひとがこの兄弟のそもそもの育て親(まぁ俺にとってもそうだと言えなくもない、料理上手の髭だ)の手元から、掻っ攫ってきてすぐ、だったんだろう。‥‥あのひとのやることも、本当に突然で唐突で、突拍子もないというか。
それ以来、僕らは『兄弟』として過ごしてきた。
その後俺があのひとと派手な喧嘩をやらかしたときも、何回かガチで戦争をしたりもしたけれど、そのときも。ずっと『兄弟』のままだった。
ずっとそうなんだと思っていた。俺と彼が『兄弟』であるように、彼とあのひとが『弟と兄』であるように、ずっとそうなんだと思っていた。
彼とあのひとが、恋人、だなんて関係へとポジションチェンジした時だって、俺らは『兄弟』だった。
「‥‥カナダ。ねぇ、寝ちゃったかい?」
小さい頃みたいに、そっと小さな声で話しかけてみる。どうやら寝てしまったらしい。というか、まぁあれだけ殴り合いの跡が窺える(ああまったく驚きだよ、昔はあんなに遠慮しあってたこの兄弟とあのひとが、殴り合いの喧嘩を繰り広げるようになるなんてね!)うえに今でも酒臭いくらいに飲んでれば、暗いところで少し静かにしてたら寝ちゃうのも当然なのかもしれないけれど。
「‥‥キミは全く、しょうがない兄弟だよ」
全く、しょうがないったらない。
突然やってきて『兄弟』になって、ずっと『兄弟』のまま、酔っ払って俺のベッドで一緒に寝て、それで朝起きたら『兄と弟』から関係を換えてしまった『恋人』のもとへと、帰っていく、だって?まったく酷い話さ。
俺たちはずっと兄弟なのに。兄弟、だったのに。
それ以外に変わり様がなかったのに。
『あのねアメリカ、僕、‥‥その、イギリスさんのことが、好きなんだ。‥‥愛して、るんだ』
なのになんで恋の終わりだけは突然にやってくるんだ。酷い話だ。
彼は眠っている。
きっと朝がくれば二日酔いに痛む頭を抱えて起き出して、もう駄目だよ僕ハドソン湾に沈んできたいああでもその前にあのひとテムズ河に一回沈めたいな会いたいな謝ったら許してくれるかなでもやっぱりテムズ河に以下略、とかなんとか殊勝なんだか不穏なんだか微妙すぎることを呟きながら俺のぶんのパンケーキまで焼いてくれて、何故か俺のアパートのキッチンに置かれてる大好きなメイプルシロップをたっぷりとかけてくれたりするのだろう。
そうして、拗ねて不貞腐れた顔をして、ぶちぶちと結構心を抉る文句を言いながら、それでもあのひとのところへ帰るのだろう。
まるで朝が来るのが当然なのと同じように。突然じゃなくて必然として。あのひとの傍へ。
「ねぇ、酷い兄弟。‥‥君のことが、好きなんだ。君を、愛しているんだ」
突然現れた彼がくれたのはこの恋心と、恋の終わりだけ。
title/『夜明け前』
イギとカナダさんは殴り合いの喧嘩ができます
イギと兄ちゃんの殴り合いはじゃれあいです
イギとメリカでは殴り合いの喧嘩はできないし
メリカと兄ちゃんじゃ殴られる前に兄ちゃんが往なして
兄ちゃんはカナダさんを何があっても殴れない。