「‥‥オーケィ、一先ずこの件については忘れようじゃないですか。‥‥休憩を挟んで、少しリフレッシュしてから。ね?」
意識してフラットな、けれど軽やかな声で宣言する。
歳若い外見の彼の言葉に、重苦しかったブリーフィングルームの空気が一時的にであれふわりとほどけた。狭い室内に押し込められていたこの国を構成するトップメンバー達は国民性を反映したおっとりした足取りで部屋を後にする。
その、外見上ではずっと年上の面々の背中を、ほんのりと口元に刻んだ微笑で見送って。
パタリ、と防音機能を万全に備えたドアが閉まると同時、青年は足元に置いていたバスケットを掴むや最高級のスーツスタイルなどお構いなしに手近の窓を開け放ち、片手をスプリングにして一気に窓の外へと身を躍らせたのだ。
「‥‥そもそも、あくせく働くのは性分じゃないのになぁ」
誰に聴かせるでもないぼやき声は、おっとりとしていてどこか甘い。
見上げればきらめく木漏れ日、真っ青な空に新緑がふんわりと揺れながらのフィトンチッドのシャワー。背中を凭れさせた立派な椎の樹の幹はスーツ越しにもどこか暖かで、足元にはようやっと訪れたつかの間の春を謳歌する芝達だ。
その上に投げ置いたフランス柳のバスケットの中には、現在長期滞在中のホテルにて自ら作ってきたサンドウィッチがぎっしりと詰められている。
一掴み、フルーツサンドをもふりと口に運べば、ベリージャムを混ぜ込んだクリームとスライスしたバナナの甘味がじんわりと口の中に広がり、青年と呼ぶには少しだけ幼さを残すふっくらした頬をほろりと緩めた。
「おーいしーい‥‥」
周囲には、人は見当たらない。当然といえば当然で、此処はこの国の首府、ついで官邸内にひっそりと整えられた中庭である。おいそれと人が立ち入れる場所ではない。せいぜいがこの官邸の主たる人物とその側近くらいだろう。
そして、この青年と。
‥‥まぁ彼以外は、ここでのんびりおっとりランチタイム、などという人物もいないだろうが。
次に掴み出したのはホットサンドだ。スライスした林檎とブリー・ド・モーチーズをはせて、刻んだセロリを混ぜ込んだカンパーニュバターが塗ってある。端のカリカリに焼けたチーズと、たっぷりと薫り高いセロリの絶妙さ!
自作ながら素敵な味に仕上がったホットサンドに口元を綻ばせながら、もふもふもふりと青年は手早くサンドイッチを口の中に放り込んでいく。
普段の彼であれば、あたたかな自宅で朝食昼食おやつに夕食、どれもこれもおっとりたっぷり用意して、やはりおっとりたっぷりと時間をかけて食べるのだが、このところ「おっとり」も「たっぷり」もすっかりと抜け落ちていた。
食事は、するのだ。食べなければ体力が落ち、モチベーションが保てない。重苦しい会議に臨むために必要なのは強靭な精神力で、そし精神力を下支えするのは基本的な体力だ。だから、食べる。食べるのだが。
「クマ吉さんと、ごはん食べたいなぁ‥‥」
ほろりと零れたのはささやかな、けれど本音中の本音。
そもそも、立て込んだ仕事が続くからと上司に浚われるように官邸へと連れてこられ、そのまま徒歩の距離にあるホテルに押し込められた。かなり上等の部屋を取ってくれたのは(複数部屋があってキッチン付と大盤振る舞いだ!)上司なりの気遣いなのだろうが、急に連れてこられたせいでいつも一緒に居るあの白い同居人を同行させることが出来なかったのだ。
‥‥連れには帰りたいけれど、その暇さえないし。
もふもふとサンドウィッチを口に運びながら、青年はおっとりと考える。
あの白い家族は、気がついたら傍に居た。
それがいつからか、例えば父親であるフランスに出会う以前か以後かも、はっきりとは覚えていなかった。ただ、気がついたら傍に居て、あの白いもふもふした身体で寒い日は抱き締めてくれ、暑い日は身体を影にして抱き上げ川へと連れて行ってくれていたのだ。白い可愛い、大切な家族。
「仕事も、大事だけどさ」
はふぅ、とつくため息は結構に重い。
女性的というわけでは決してないが、どちらかといえば線の細いスタイルと繊細な面立ちのせいで、憂いを含んだ顔は中々に秀麗だ。ふわりと、父親譲りの金を帯びたシュガーカラーの髪が舞い上がる。
目を閉じれば、瑞々しい新緑の匂いを含んだ風。
そこにカサリ、と軽やかな足音と気配。
「‥‥あれぇ」
おっとりと上げた瞼の向こう、現れた姿に、彼はおっとりとした声をあげてから。
「おいで。‥‥ふふ、珍しいなぁ」
ゆっくりとした手招きに応じたのは、小さな生き物達であった。
軽やかな足取りで寄ってきたのは、土色をした小さなウサギ。
樹上からパタパタと可憐な羽ばたきで肩へと舞い降りたのは素敵なコートを着たカナダコガラ。
おっとりと小柄な身体をよたよたと動かしてくるのは、ハリネズミだ。
そして。
「こんにちは。まだ赤ちゃんだね。君は、何処から来たのかな?」
よろよろとまだおぼつかない四肢をけれどぎこちなくも必死に動かして彼の元へとやってきたのは、まだ小柄なエルクの子どもだった。
街中ではとんと見ることもなくなった生物の登場に、けれど青年は常と変わらぬおっとりと優しい視線で、動物達を見遣る。
すんすんとウサギ達が鼻を鳴らして彼の手を嗅ぐのにくすぐったそうに笑って、バスケットから取り出したサンドウィッチのパンの部分を小さくちぎって彼らに渡す。
のすりと膝のうえに乗って食事をするウサギとハリネズミの背を青年はそっと撫でつつ、肩に留まったコガラへもパン屑を手のひらごと差し出す。小さな嘴で啄ばまれる感触をくすぐったく思いながら、エルクの子どもが近くへ来るのを待った。成長すれば2メートルを越すエルク‥‥アメリカアカシカだが、本当にまだ生まれたてなのだろう、とても小柄だ。黒々と塗れた瞳が、とても愛らしい。
「おいで。‥‥君には、まだミルクだね。ごめんよ、君のごはんはないけれど‥‥僕と、友達になろう」
柔らかで慈愛に満ちた声で彼は話しかける。
それは遥か昔、まだ彼が小さな身体のまま森の中、あの白い家族の傍、多くの動物達を感じて過ごしていた頃と。寸分違わぬ、愛情に満ちた声。
‥‥そう、自分は確かに彼らに愛情を与え、そして与えられて生きていた。長い、長い歳月を。
肩に留まらせていた鳥をパン屑ごと芝の上に下ろしてから、彼はそっと身を寄せてきたエルクの仔の挨拶を頬に受ける。少し塗れた鼻の感触が懐かしいと思った。
と、そこでようやっとこうして動物達がやってきた理由へと思い至る。
勿論、一人で緑豊かな場所におっとりすわって食事をしていた彼の、美味しそうな匂いに誘われたのもあるのだろうが。
「‥‥そっか、普段はクマ太郎さんがいるから、君たちは来ないんだね」
ぽつりと呟いてから、擦り寄ってくる大人しい彼らをやんわりと撫でてやりつつ、青年も食事を再開した。
もふもふとサンドウィッチを忙しく口へと放り込んでいく。‥‥おっとりは封印だ。そろそろ会議の再開の時間が迫っている。
辺りは暖かな日差しに包まれ、眩い緑が心を和ませてくれる。
そして周囲には自分を慕ってくれる小さな友人達。
ああ、けれど。
「君達も可愛いけれど、やっぱり僕、クマ吾朗さんに会いたいや」
その呟きをどう受け止めたのか、膝上や寄り添っていた小さく温かな友人達の黒い目が、チラリと青年へと向けられた。それに彼は優しく甘い笑みを返す。
そのとき、動物達の耳がいっせいにふるりと震えた。
「カ‥‥ダ?‥‥マシュー?どこだい、そろそろ会議を再開するよ」
遠く、上司が彼の名前を呼ぶ声を聞く。
相手からは此方は見えてはいないのだろう、どこかあさっての方向へとおっとり響く声に、カナダはバスケットの中からパンを取り出すと小さくちぎって辺りへと撒いた。それから、膝上に乗っていたウサギとハリネズミの身体をそっと持ち上げ、芝の上へと降ろす。
「僕はもう行かなくちゃ。君たちはゆっくりしているといいよ。ここにはあまり、人はこないから」
すっと機敏に立ち上がりつつ、けれと声はおっとり甘く優しく。
そう、自宅で待っているだろう白い家族にも、早くこんな風に甘く優しく話しかけたい。
そう、あくせく働くのは、性分じゃないけれど。
「頑張って働いて。早く、うちに帰らないとね」
ふわりと瑞々しい風が、彼の白く滑らかな頬を撫ぜる。
ひらりと手を振って大人しい友人達に挨拶をした彼は、上司の呼び声にそこから十分離れてから応え、大人びた足早な歩き方で議場へと戻っていった。
やわらかでおっとりとした緑の中、残された小さな友人達は。
遥か昔からそうしてきたとおり、可愛く愛しいこの大地の子どもを、澄み渡った美しい目で、いつまでも見送っていた。